真っ白のカンバス
人新
第1話 彼女は真っ白のカンバス 1
ここは少し歴史深い美術部、部員こそは僕以外存在しないがそれでも活動はしている。
外はまだ夕日と呼ぶべきには白く、日が窓から差し込んでいた。その日からはまだその季節特有の暑さを僕に実感させた。
静かな空間、清潔な部屋、一枚の画材。僕は何を書こうかと迷っていた。僕は右手で少し鉛筆を遊ばせてみるがそれでも中々イメージが膨らまず、少しだけ苛立つ。こういう日は別に珍しいわけではない、そもそも僕が少し苛立っている原因はこの後に不吉なことがおこるという予言のようなものがあるからだ。昔から、僕はそうだった。いつも絵がうまくいかないと後に嫌なことが起こるのだ。だが、今回はそのようなことがないように祈る。それにまだ筆が止まって5分だ、こんなのは止まったことにならない。
僕は窓辺に行って少しアイデアを探すためグランドを見下ろした。
そこには多くの人がいた。走る人、ボールを蹴る人、休憩する人、応援する人。僕はこの景色をじっと見つめるのが好きなのだ。なんといっても、これといった特徴のないグランドが人という要素を加えることによってここまで華やかなものにするのだ。大変面白い。
僕は数分グランドを見下ろすと、また自分の持ち場に戻った。そして、あえてゆっくりと鉛筆を拾い上げる。それから、僕は古びた木の椅子に座り、画材を対面にして目を瞑った。
少し集中する。すると、甲高い声が聞こえてきた。これは多分サッカー部の声だ。そろそろ、ミニゲームでもするのだろう。
そして、少ししてまたそれとは違う音が聞こえた。小さな足音、複数な足音、こちらに近づく足音。
僕は目を開き、それから、ドアを見た。しばらくという時間でもないが、少しするとノックの音が部屋を響かせた。僕はそれとなく普通の声で「どうぞ」といい、また画材に目を向けた。
ドアは丁重に開けられる。それから、少しの間があってドアは閉められた。間から見て、多分二人が入ってきたと思う。
「相原、少しいいかね?」
僕は今、画材に目を向けているが、この声には常に聞きおぼえがあるので、あえて顔を合わせることはしない。
「はい、大丈夫ですよ」
少しの空返事。といっても、井ノ瀬先生が直接美術部に来るのはかなり珍しい。この先生はかなりの面倒がりなのでいつも何かあってはメールで当場所に来るようにと指示されるのだ。
まぁ、そういった珍しさもあってか僕は画材から目を離し、先生のほうを向いた。
僕は二人いることは大体察していた。だから、それといって先生以外の人がいても驚きはしないはずだったが、にもかかわらず僕は驚いた。
そこには長い黒髪に顔が隠れた少女。言わば、貞子がいたのだ。
「な、何ですかその子は?」
とりあえず、動揺してしまったので井ノ瀬先生に尋ねる。
「ははは、少し驚いただろう。彼女は宇山綾乃という、君とは今日から同級生になるな」
井ノ瀬先生は笑いながら、細い指で宇山の前髪をすくいあげた。そこから僕の目に映りこんだのは美しいとかわいいがまじりあった非常に整った顔立ちだった。
「どうだ、かわいい子だろう。いや、美しい子かな。まぁ、どちらにせよ羨ましいものだよ」
井ノ瀬先生はすくいあげた髪を離して、こちらを振り向いた。
「さて、私がここに来た理由だが、それは何だと思う」
三分ください! と言おうと思ったが、今思えば全く必要ない。宇山という生徒を連れてきている時点で大体は察しがつく。
「新加入した部員の報告をするためでは」
答えはcmの後と言うほどは長くないが、少し間があった。しばらくして、井ノ瀬先生は口を動かした。
「ブー」
「えっ、違うんですか」
「まぁ、含んでるといえば含んでるけど」
「含んでる、ですか」
再度すぐに考え直すことにした。井ノ瀬先生は『新加入した部員の報告』を含んでると言った。ということは、もっと...。
「えっと、ボーナスが例年より多かったためとか...?」
「どんだけ私は下劣なんだ...。そんな報告より新加入した部員の報告のほうが重要に決まってるだろ」
「た、確かにそうですよね」
この人毎月、毎月、給料日前になったら金金ばっかり言うから、てっきり金の話かと思っていた。
うーむ、中々わからない。多分、俺の考えついた答えは全部不正解だろう。それに宇山という生徒を待たせるのも何なのでギブアップすることにした。
「ギブです。答えを教えて下さい」
「そうだな」
井ノ瀬先生は一つわざとらしく咳をする。それから、宇山の肩に手をかけ言った。
「君にはこれからこの子を保護をしてもらう」
「は?」
ん? 今なんて言った。この子を保護してもらう? 違うよな、仮にそうでも、さすがに保護は何かの暗喩だよな?
「別に保護じゃなくても世話でもいいぞ」
ちくしょう! なんの暗喩でもなかった。
「一体どういうことですか、井ノ瀬先生。僕はまだまだ保護する側じゃなくて、保護される側ですよ。なんなら、死ぬまで保護されたい側ですよ!」
井ノ瀬先生はため息をつく。
「まぁ、言ってることは非常に情けないが、言いたいことはわかる。しかし、保護といっても生活のすべてを保護してもらいたいわけではない。学生の範囲で保護してほしいということだ」
「といいますと」
「例えば、学校内とかだ。できる限り彼女のサポートをしてやって欲しい。それ以外は大丈夫だ」
「はぁ、まぁ学校内までなら」
しかし、サポートが必要って言われても、いったい何をサポートするんだ。コミュニケーションか、それとも青春の助太刀か? どっちも僕は得意ではないぞ...、てかむしろ後者に至ってはこちらがサポートしてもらいたいレベルだ。
しかし、僕はあえて聞くことはしなかった。なにより、本人を前にしてこのような話をすること自体がなにか間違えているような気がしたからだ。
「そういえば」
井ノ瀬先生は軽く手をたたいた。
「この子の絵は何かを見てほしくてね」
大半の人がこの言葉の意味は分からないだろうと思う。いや、大半以上がわからないはずだ。
今、井ノ瀬先生が言っているのは僕の能力と言うべくか技というべくか、まぁそんな類の事を言っている。
僕は中学時代の途中辺りで一つの能力(一括りで能力と呼ぶことにする)が備わっていることに気が付いた。具体的に言えば長くなるが、端的に言えば井ノ瀬先生が言ったように人に備わる絵を見ることができるのだ。しかし、それは具体的な絵では決してなく、言うならば抽象画のようなものである
だから、ほとんどがその絵の指す意図がわからない。けど、多分だけども僕はその絵というものは人の根底にある性格というものを指しているのではないかと思った。無論、解析は難しい。
ちなみに僕に似たような能力を井ノ瀬先生も持っている。先生の場合は人を見るとその人を表す色がわかるらしい。
「まぁ、いいですけど。知ったところでなんのためにもなりませんよ」
「あぁ、それでもかまわない。一度見てほしい」
まったく、それを言うのは井ノ瀬先生ではなく、宇山自身が言うべきなのではないだろうか。
だが、彼女は今のところ一言も話していない。だから、僕は先生の言った通り、彼女には何も言わず絵を見ることにした。
目を閉じる、そして暗闇の中、少しだけ集中する。僕はいつだって安易に人の絵を見ることは出来ない。こうして、しっかりと集中して少しの時間をかけて見るのだ。そして、動けば、やり直し。邪魔が入れば、やり直し。だから、僕自身あまり人の絵を見ない。というよりも、見ることができない。これならまだ人物クロッキーのほうが簡単だ。
僕は少し彼女に触れる。だが、それは物理的にではない。
少しずつ暗い世界は明かりを灯す。
僕は浮遊する。そして、ある場所を目指す。
そこに到達しては僕は歩き出した。それも現実とは変わらない歩調で。
ようやく、目的地に着く。ここには一つの絵が古びた額縁に飾られているのだ。そして、その絵こそが僕の言っている『ある抽象画』だ。
僕は飾られた絵を見上げる。しかし、そこには何も描かれていなかった。何かの見間違いかと思った。けど、そこには確かに額縁がある、そして紙がある。だが、やはりそこには絵は描かれていなかった。何度も見直してみたが、結果は同じだった。
しばらくして、僕は目を開いた。
「お、なにか見えたかね」
口調だけを聞くと、なにか期待していることはわかるが、井ノ瀬先生は少しだけなにかをわかりきったような目をしていた。多分だけれども、僕の答えに対しても驚きはしないのだろう。
「いいえ」
「やはり、そうか」
先生は笑顔ながらも、少し肩を下ろす。
やっぱり、予想通りだった。
「しかし、どうしてわかったんです?」
僕は疑問をぶつける。
「私も彼女の色を見たからね」
あぁ、なるほど。既に先生自身も彼女の色を見ていたのか。ということは、もう彼女の色が何であったのかはわかる。僕は顔の隠れた彼女と先生を見た。
「白色だったんですね」
ほんの少し、ほんの少しだけ、先生は頷いた。
気づけば、窓からは日が僕らを照らし、空間は色づき、そして僕らに少しの沈黙を与えていた。どうしてか、僕はこの瞬間だけこの空間は他のどんな場所よりも時間の進みが遅いように感じられた。外では誰かを指示する声が響き、廊下からは談笑の声が、世界のどこかからは悲しみの声が聞こえた。
今の瞬間、僕らはなんだか特殊な関係性を持ったような気がした。
「井ノ瀬先生、画材」
しばらくしてこの空間を破ったのは僕でも井ノ瀬先生でもなかった。そう、彼女だったのだ。
それといって、大きな声でもなく、小さな声でなく。でも、そう消えそうな声で言った。
「あぁ、そうだったな、忘れていたよ。すまないが、相原私と取りに来てくれ」
「わかりました」
僕はその言葉を言い終えると立ち上がった。
そして、そのあとに井ノ瀬先生も立ち上がった。それから、先生は宇山に僕が手をつけていない画材に指を向けて言った。
「宇山、そこにある画材で適当に絵でも描いておいてくれ」
彼女は返事をせずに、ただ頷いた。先生はそれを確認すると歩き出した。僕もそのあとに続いた。
ドアの向こう側は暑かった。長い廊下は永遠に続くように見えて、果たして階段はあっただろうかと感じる。僕らは影を創りながら、長い廊下を歩きだした。
画材はいつも職員室に届く。といっても、ここから職員室はかなり遠い。なぜなら、職員室は新校舎、美術部は旧校舎にあるからだ。毎回僕自身も画材を取りに行く際は骨が折れる作業のように感じる。
「なぁ、相原。一つ重い話をしていいかね」
少し歩き出してから、井ノ瀬先生は言った。
井ノ瀬先生の顔色は日に照らせているために伺うことは出来ない。声もどこかで響く音色に負けてしまっていて、僕の耳にはその裏の意図までは届かなかった。
「ええ、いいですよ。職員室まで沈黙なのはつまらないですからね」
「助かるよ。後この話は少し長くなる。もうちょっと歩調を遅くしよう」
「わかりました」
僕らは今の歩調の半分ほどの速さで歩き出す。
「まぁ、君も大体わかっているとは思うが、今から話すのは彼女の話だ」
これから長くなるためか、井ノ瀬先生は二回深呼吸をしてから、他の音に負けないトーンで話し始めた。
「まず、彼女だが。君も感じたと思うが、あそこまで話さないのも不思議だろ。実は、中学時代にはかなり陰湿にいじめられていたみたいだ。原因というのは私もその場にいたわけではないから、詳しくは知らないが、あの容姿だ妬まれていたんじゃないんだろうかね。だが、彼女をああしたのは、すべてが別にいじめによるものではない。そのあとの出来事だ。とりあえず、この話をするにはこれを見てもらったほうが早いかもしれんな」
先生はポッケから一枚の写真を取り出し、僕に見せた。
それは幸せを象徴する一枚の写真だった。
多分真ん中にいる少女は宇山綾乃だろう、あの時見た彼女とは大きく違いこの少女には笑顔がある。そして、少女が抱きついている少年は多分弟だ。そして、それを挟むように笑顔の両親がいた。
「幸せそうですね。ですが、これがどうしたんです?」
僕の声はほんの少しだけ震えていたのだと思う。というのも、明らかに救われることのない予兆をたしかに確信していたからだ。これはきっとある過去の一瞬の幸福を映したに過ぎないのだから。
答えの間はとても短かった。井ノ瀬先生は僕の質問に対して一切躊躇もせず、無感情的に言った。
「亡くなったよ。宇山綾乃本人以外ね」
外は確かに明るかった。グランドにいる少年少女の顔には悩みなど見られなかった。けど、今ひとり、美術部にいる少女だけは違うのだ。
「亡くなったのは彼女が中学三年の時だ。それは同時にいじめのピークの時期でもあった。ついに彼女はいじめに対しての忍耐が限界になってしまってね。それで、両親に説明したそうだ。両親は気づけなかった娘の悩みに泣いたそうだよ。それほど、いい両親だったのだな。そして、両親は学校に娘の現状を報告をしに行った。まず、彼女の担任だ。陰湿ないじめにしても、見て見ぬふりをしたその担任に対して相当言ったらしい。で、次にいじめた張本人とその親。彼女らに対しは担任以上にずいぶん言ったらしい。後、言い忘れていたが宇山綾乃の父親は敏腕な弁護士でね、非常に口も達者だったらしい。だから、担任も含め彼女らは一切反論できずに撃沈。そうして、両親は彼女にようやく平穏が訪れると思っていた。が、そうはいかなかった。その二日後、家族を乗せた車は酒気を帯びた対向車に激突された」
「それで、宇山綾乃本人以外は亡くなった…」
井ノ瀬先生は頷く。
「彼女以外は即死だったらしい」
絶句。今の僕を言い表すにはこの言葉しかなかった。どうしてだろう、どうして彼女はここまで救われないのだろうか。
「残念だが、まだ話の続きはある」
僕らの歩調はより遅くなる。
「この話は君が最も嫌いな裏の話だが。話をさせてくれ。でないと、彼女は救われない」
僕の嫌いな話。だが、そんなことは既に察している。
「大丈夫です。話してください」
「助かるよ。まず、さっき言ったように彼女以外はみんな亡くなった。だが、彼女だけはそれといって怪我もなく生き残ったんだ。だから、葬式は約一週間後、検死をすませて行われた。そこからが、私は彼女の心因性に問題が出たのではないかと思っている。葬式は身内や会社仲間、友人、数々の人が来た。私もその一人だ。ちなみに私とあの子はいとこでね。けど、私もその葬儀の日までは彼女の家族とは一切縁はなかったんだ。母とその子の父が姉弟にも仲がかなり悪いらしくてね。それで訃報を受けたと母に言われて、私だけが行ったんだ。そして、彼女の心因に問題を起こしたのは…」
井ノ瀬先生は一呼吸おいてから、また話し始めた。
「間違いなく身内と、彼女の学校関係の人間だ。では。身内から話すかね。まず、彼女には祖父母はいない。母方のほうは早くにして亡くなっていて、父方のほうはカンボジアに慈善目的で向こうで暮らしている。よって、身内はいとこぐらいしかいないわけだ。そして、彼らが一つ目の問題を起こした。そう、君もわかるだろう。その条件下で彼らが葬儀でもめるとしたら、一つしかない」
「金ですね」
「そうだ。彼女の父は死を予言していたかのようにかなりの額の生命保険をかけていた。そして、事故を起こした人間からの莫大な賠償金。これだけあれば人は容易く簡単に狂う。そして、彼らはその金を手に入れようと彼女に寄っていった」
僕らはいつのまにか連絡橋まで歩いていた。
外は廊下以上に暑く。より外の声は耳に届いた。その声には少なくとも不幸的要素は含まれていなかった。
「次に、学校関係の人間だが。クラスの人間と校長、教頭、学年主任が葬儀に来た。内、問題を起こしたのはクラスメートの数人だ。まず、経を唱えている間に笑い声が響いた。私はその時まさかと思って、頭がいたくなったよ。だが、そのまさかだった。数人の女子生徒が笑っていた。そして、葬儀後、数人の女子生徒は彼女のところに踏みより、聞こえるようにこう言ったんだ。『罰があたった』とね。彼女がその言葉を聞いたとき、もう立ち直れないくらいに泣き出した。そして、それを聞いていた私は怒り狂ってね、今も若いが、それよりも若いころは記者をやっていたからこういうのは慣れているつもりだったんだがな。だが、どうも耐えきることは出来なかった。そして、葬儀はめちゃくちゃ」
井ノ瀬先生が記者をやっていたのは僕も知っているが、それでいても耐えきれないくらいだったのだから相当なものだったのだろう。
「そんなことが短期間で」
「あぁ、たったの二週間さ。たったの二週間で彼女の世界は崩れた」
連絡橋を渡り切り、僕らは新校舎に入る。そして、また階段を下っていった。
「こんなことを言うのはなんですが、よくここまで生きてこられましたね。僕なら命を絶っていたかもしれません」
「呪いさ」
「呪い?」
「そう、呪いだ。宇山家の家訓、『無駄に生きる』のせいで、彼女は今も生きている」
「『無駄に生きる』ですか」
「そうだ。そして、その家訓を彼女はしっかりと守っている。だから、今もああして生きてられているんだ」
この話で全てがつながる。
「そして、保護というのは」
「そう、彼女の回復のことだそこで、君はさきほど受諾してくれたが、もう一度改めて聞きたい」
その言葉と同時に、ようやく、僕らは目的の場所に到着した。
「今から、私は画材を取ってくるから少しだけ考えていてほしい、だが、本当にノーの時はノーといってほしい。これだけは強制でやらせることではないからね」
井ノ瀬先生は二度ノックして教室に入っていった。
しかし、ずるいですよ、先生。そんな話を聞いたら承諾するしかないじゃないですか。
僕はあたりを見渡した。そこには色々な生徒がいた。雑談しながら下足場に向かう男子生徒たち、部室の鍵を取りに職員室に入る女子生徒。
果たして僕にそこまでの回復を彼女にもたらすことは出来るだろうか? 否。多分ほぼ無理な話だろう。まず、なんといっても僕はそんなことに対しての専門的知識なんて全くない。だから、彼女に対しての接し方も全くわからない。
けど、思う、彼女の過去を。
あれほどボロボロに自信を崩された過去を。
だが、僕は同情なんてしない。僕はそういう生き方をすると決めているのだ。これは非道的な生き方かもしれない。けど、そんなことをばっかり考えていると世の中うまく生きることができないのだ。
でも、思う。彼女には今味方はいるのだろうか? 多分、井ノ瀬先生は味方だろう。あの人はきっと正義感に満ちた人間であるからだ。では、それ以外は? 彼女の身内は先生以外敵、他の人間も多分、敵のようなものだろう。でないと、今の時期に編入なんてしてくるはずがない。
僕は目を瞑った。別に絵でも見るわけでない。なんとなく、考えるときの癖となっているのだ。
僕は今まで平均的かつ普通的に生きてきた。それは大してぶれることなく、決められたレールのような道を歩いてきた。けど、それは僕だけではない。ここにいる生徒のほとんどがそうだろう。みんなが社会主義国家のキャッチフレーズのような平均的な幸福を手にしてきたのだ。だから、僕は現状嫌ったことがない。ただただ流れる日常を愛している。
だが、彼女はどうなのだ?多分、僕はこのまま行けば普通に卒業し、多分大学に行き、そして就職するだろう。こうして思えば、本当に僕の思考というのは平均的だ。
けど、その平均的未来像に僕はいても彼女はいない。けど、呪いを背負った彼女は死なず生きているだろう。その時の彼女の想像は出来ない。果たして、どのように生きているのだろうか。残った資産でそれとなく生きているかもしれない。もしかすると、突如転機が訪れて回復し、今後は平均的以上の幸福をつかむかもしれない。
徐々に僕は彼女に同情していく。
もし、その転機というものが今この瞬間であるというのなら、僕は…。
僕は今、多分彼女に同情しているのだろう。最も使用されても行動力が伴わない感情に。
僕は自嘲する。
きっと、僕は既に彼女が美術部に来た時点でなにか同情していたのだ。
なんて奴だ、僕は。
同情なんてしたところで相手は救われず、自身だけが関わったように感じて、当事者は何ひとつ救われないじゃないか。
なにが、『かわいそう』だ。なにが、『残念だね』だ。なにが、『つらいけど頑張ろう』だ。ふざけるな。そんなことを言えるのは当事者だけだ。そんな下卑たる感情を示すな。それは最低で低俗的な感情だ。
僕は同情が嫌いだ。理由は多くて語れないほどに。
だったら、同情してしまった僕は彼女にどうすればいいのだろうか。
しかし、この答えは非常に簡単だ。
行動すればいい。
僕が答えを出してから、四人目の生徒が下足場に向かったとき、画材の束を持った井ノ瀬先生は来た。
「答えは出たかね」
優しそうな笑顔で僕は問われる。
「えぇ、出ました。承諾させてもらいますよ。ただし、学生的範囲でね」
「ふむ、助かるよ」
僕は井ノ瀬先生から画材を半分受け取った。
「私もこれから旧校舎に用があるからね、途中まで同行しよう。それにもう少しだけ、彼女のことを話さんと行かんからな」
井ノ瀬先生はこちらにウインクをする。何歳だよ、この人。ウインクする年じゃないだろ…。
僕らはまた旧校舎に向けて歩き出した。
「まず、今の彼女の住まいだがね、どこだと思う?」
「えぇ、いきなりですか。そうですね、この学校にはないですけどどっかの寮とか?」
「残念。まだ、シンキングタイムはやりたいが生憎時間がなくてね、割愛させてもらうよ。答えは私の家だ」
「え、一緒に住んでるんですか?」
少し意外だった。ということは、宇山自身も相当井ノ瀬先生を信頼しているのだろう。
「あぁ。まぁ、一人暮らしはさみさしいだろうしな。だから、色々と面倒と、用心棒はしてやるから住んだらどうだってね」
「せ、先生かっこいいっすね」
女だけど、少し先生の男気に惚れてしまった。僕もそんなセリフ言ってみたいものだ。
「あぁ、そうだろう。その代わりに、朝飯と弁当、夜飯は作ってくれといった。後、魚とブロッコリーは出来るだけなしってね」
前言撤回。なんだよ、魚とブロッコリーはなしって。料理するのは住まいの条件としても、魚、ブロッコリーなしはないだろ…。子供じゃないんだから。
僕は一つため息をついた。
「おや、どうしたのかね」
「いえ、なんでもありません」
「そうか」
僕らは階段を登り切り、また連絡橋に戻った。
「あぁ、そうだ、後、彼女はカンバスだ。大事に扱ってくれたまえ」
「また、いきなりなんですか」
「彼女には色も絵もなかった。そうだね?」
「えぇ、そうでしたね」
「つまり、まだなにも描かれていないということだ。多分、あの時の出来事で真っ白になったのだろう」
「なるほど。ですが、なぜカンバスなんです、画用紙とかじゃないんですか?」
「それは書き直しできないからだ。君も知ってるだろう。カンバスと画用紙の違いは圧倒的量が違う。画用紙は失敗すれば何度でも書き直すことは可だが、カンバスはそうとはいかない。特にいいカンバスはね。私があの出来事から今まで彼女に対してやってやれたことといえば、元の澱んだカンバスを捨てて、新しいカンバスを用意したぐらいだ。だから、ここからは君に任せたいということだ」
暑かったはずの連絡橋は強い風が吹いており、僕らの体を少し冷やした。
しかし、僕には、井ノ瀬先生のバトンをうまく受け取り、役目を全うすることができるだろうか。僕は少しだけ不安になった。
「君は今、せっかくの受け取ったバトンを失敗したらどうしようとか考えているだろう?」
「えっ、こわっ。なに、先生エスパー? 伊藤?」
「まぁ、君の考えていることなんか大体わかるからな。それに何年君を見てきたと思っているんだ」
「まだ、一年ちょっとですけど…」
なんなら、休みとか含めば、全体の半分も見ていないだろう。
「なに、私であれば、一人の人物把握など三週間もあれば十分だ。それ以上関われば、一日の行動分析まで可能のレベルだ」
怖い、まじで怖いですよ。なんで、そこまで把握できるの。まじで、この人ただもんじゃねぇだろ。
「まぁ、なんにせよ、そこまで気をつめなくていい。ふつうに接してやればいいだけだ。普段君が見ている日常、普段君が手にしている日常を彼女にも触れさせてやればいい」
「それだけでいいんですか?」
「あぁ、むしろ十分すぎるくらいだ」
僕らは長い連絡橋をようやく渡り終えた。ここから、少し進めば階段がある。多分、僕と先生はそこで別れることになるだろう。
僕はまだまだ彼女を知らないといけないような気がした。それといった、特徴もわからないままで、彼女に触れてもいいのだろうか。
「さて、もうすぐで別れだが、なにか質問はあるかね?」
「二つあります。まず、一つ目として、彼女はどのような性格をしていたのです?」
「とても優しい性格をしていたらしい。だが、それは私が過去の彼女を見ていなくとも、わかることだ。今の彼女もとても優しいからね」
「そうでしたか。では、最後に。どうして、僕に任せようと思ったのですか?」
僕は疑問に思っていた。確かに、僕と先生は美術部つながりで関係を持っている。だが、そんなのはあくまで露呈された関係に過ぎない。だれが、そんな人間を信頼してこんなことを任せられるか? 僕ならできない。だが、先生は投げやりになったわけでは決してない。それだけは僕にはわかる。
だとしたら、どうして先生は僕なんかに…。
「簡単だ。君がこの学校の中で最も精通している人間だからだ。私は君の物事の見方をかなり評価している。そして、その少し面倒くさい生き方もね。私は今まで職業上多くの人間を見てきたつもりだ。その中には多くのカテゴリーの人間がいた。人情のない人、とんでもない二面性を持つ人、人生を苦悩する人、正義感のある人。けどね、そんなのは全体の1割ぐらいしかいないんだ。ほとんどの人間がみんな普通で、通常なんだ。けど、君は少し違う。そんな9割に埋もれた人だけれども全く違う人なんだ。私にはこれ以上はこの言葉をうまく説明することは出来ない、けど君を選んだのは間違いなく君の素晴らしい人間性にあるからだ」
「…買いかぶりすぎですよ」
「そんなことはない。言っただろう、私は三週間もあれば人を把握できるって、私の頭は君を選べといっているのさ」
「灰色の僕をですか?」
僕は笑顔で問う。
それに対応して、先生も少年的な笑顔をつくって言った。
「あぁ、そうだ。灰色の君をね」
こうして、長かった僕らの会話に幕が下りた。
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