第22話 紹興酒の回し飲み

 路子はICレコーダーを右手で隠すように持ってロッカー室を出ようとしたとき、ドアの横のボックス棚に羽の扇子が置いてあるのを見つけた。

「あら良いものがあったわ、この扇子で顔を隠しましょう」

 それを持ってロッカー室を出ると店内に戻り、女性店員に近づく。

「お待たせしました、さあ行きましょう」

「お忘れ物って扇子ですか!?」

「ええ、まあ」


 路子の行動が気になっていた啓太は、二人が通路を歩いている所を見つけた。

「おほっ! ロコさまのチャイナドレス姿似合うじゃん。ありゃあ、また生足になってるぞ」

 啓太はチャイナドレスのスリットから見える路子の太ももを、口を開けたまま見つめていた。


 女性店員は数部屋並ぶ個室の一番奥の部屋の前で止まる。

「こちらのお部屋ですよ」

「どうもありがとう、ドレスを着替える時にまた声を掛けるわ」

「畏まりました」

 店員が去っていくと路子は意を決したように個室のドアをノックする。

 ――コンコン。

「失礼します」

 ドアノブを回して中に入ると、中央に大きな円卓がある。早川ともう一人の男が隣り合わせに座って紹興酒を飲みながら話をしていたが、話を中断して路子を見やる。路子は慌てて羽の扇子を広げ口元を隠した。

「君、もう食べ物は頼んだぞ」

「お客様失礼いたします。隣のお部屋のエアコンが壊れたものですから、このお部屋の空調も確かめさせてください」

「今大事な話をしているんだ、早く済ませてくれよ」

「はい、わかりました」

 早川の隣に座る男は路子に邪魔をされて少々イライラしている様だ、込み入った話をしていたのだろう。

 路子はエアコンを調節するパネルが設置されている壁に近づくと、それを調べるふりをして部屋の中を観察している。


 路子はテーブルに近づいて、男の横に置いてあった紹興酒の瓶を掴む。そして口元を隠していた羽の扇子をドレスの隙間に差し込むと、顔を見られないように早川の横に回り込む。円卓の上に置いてあったグラスを取ると、紹興酒の瓶の蓋を開け、次々とグラスに注いで並べていく。五個のグラスに酒を注ぎ終わると、今度は早川の背中の後ろに回り込んだ。


「お客様、この瓶は空になりましたわ。円卓を回しながら紹興酒の入ったグラスを勧めるのが香港で流行ってますのよ、おほほほほ」

 と言いながら、ICコーダーの電源を入れ空になった紹興酒の瓶の中に放り込んだ。


 その瓶を早川の手の届かない所に置くと、扇子を取り出して再び口元を覆う。

「大変失礼いたしました、どうぞごゆっくり」

 路子は目をパチパチさせながら会釈をして部屋を出て行った。


「ふーっ、ばれなかったかしら」

 路子は羽の扇子をパタパタと震わせながら顔をあおいでいる、自分の大胆な行動を振り返って顔が熱くなったのだろう。少し落ち着いてから啓太がいる席の方に目を向ける。啓太が手を振っているのが見え、モデルのランウエイのような歩き方を真似しながら近づいて行った。

「ちゃんと仕事してきたわよ」

「いやあー、ロコさま素敵じゃないですかそのドレス」

「あらそう、似合う?」

 路子は左足のかかとを上げ、ひざを軽く曲げてポーズを取る。啓太の目はチャイナドレスのスリットに釘付けになっている。

「うひひひー」

「何よそのだらしない顔は、みっともないわよ啓太」

「あまりの妖艶な姿にめまいがしまーす」

「誉め言葉として受け取っておくわ、遊びじゃないんだから着替えてくるわね」

 路子は例の女性店員を探しに行った。


 路子は着替えを終えて啓太のいる席へ戻って来た。

「あー、少し緊張したわ」

 と言いながら水を一気に飲み干す。

「ロコさま、どうやって早川さんたちの話を聞くんですか?」

「ICレコーダーを仕掛けて来たのよ」

「何処に隠したんですか?」

「紹興酒の瓶の中よ」

「えええ、どうやって回収するんですか、その瓶」

「そこまで考えてないわよ。とにかくあの部屋から紹興酒の瓶が持ち出されるかどうか見張ってね」

「わ、わかりました」

 すると、さっきの女性店員がラーメンと炒飯を持ってやって来た。

「お待たせしました、ラーメンはどちらでしょうか?」

「私は暑いから炒飯にするわ、啓太はラーメンでいい?」

「僕はラーメンが食べたかったんです」

 店員がラーメンと炒飯をテーブルに置くと、路子に尋ねた。

「あの個室のお客様は、サプライズ訪問で驚かれました?」

「ええ、ありがとう。とっても喜んでくれました、おほほほほ」


 路子たちは食事が終わり、ジャスミンティーを追加で頼んで無駄話をしながら飲んでいた。啓太は時々早川たちのいる個室の様子を窺っている。

「あれ、ロコさま。いま男の店員さんが紹興酒の瓶を持って出てきましたよ」

「啓太、すぐにその瓶を回収して来て!」

「はい、わかりました」

 啓太は急いで立ち上がると、その男性店員に駆け寄る。何か話かけて両掌をこすったり腰を曲げて頭を下げたりしている。そうこうしていると、紹興酒の瓶を男性店員から受け取り路子の所に帰って来た。

「ロコさま、少し怪しまれました」

「何って言って貰ってきたのよ」

「僕の友達がお酒のラベルを収集してるからって」

「この銘柄は何処にでも売っているけどね。でも良くやったわ、彼らに見つからない内にさっさとここを出ましょう」

 路子たちは席を立ったのち食事代をレジで精算し、領収書を貰ってからレストランを後にした。

「ロコさま、経費で計上するんですか?」

「当然よ、さっきのサッカーのチケット代だって使うわ」

「それって通りますかね?」

「ちゃんと調査報告書に記載すれば通るわよ! 早く事務所へ帰りましょう、沢山仕事が残ってるんだから」

「とほほ、まだ仕事するんですかー」


 路子たちが満員電車に乗って宇都宮の事務所へ戻って来たのは、夜の八時を過ぎていた。路子は部屋に入って電気を点けるとすぐに、応接椅子に身を投げ出すように座った。

「あー今日は疲れたわ」

 啓太は荷物を自分の机に置き、紹興酒の瓶を持って路子の正面に座る。

「はい、紹興酒漬けのICレコーダー」

 啓太は瓶を応接机の上に置いた。

「早く瓶の中から取り出しなさいよ」

「はい、はい」

 啓太は右手で瓶を持って逆さまにすると、左手の掌の上にICレコーダーを載せた。応接テーブルの上にあったティッシュを取り出して少し濡れたICレコーダーの尻を拭った。

「あれ、電源が切れてますよ」

「電池が無くなったのよ、交換して」

 啓太はICレコーダーを一旦テーブルに置き、自分の机の引き出しからボタン電池を探しそれを持って再び応接椅子に座る。ICレコーダーのキャップを外しボタン電池を交換してキャップを閉めた。

「ロコさま、準備できました」

「早く聞きましょう」

 啓太は再生ボタンを押した。


▷▷ポトン,カチャ。


「大変失礼いたしました、どうぞごゆっくり」

――バタン。


「今の店員さん、何処かで見たような気がします」

「早川さん、ここのレストランに来たことがあるのですか?」

「初めてですよこんな高いお店に来るのは。ただあの女性の愛らしい目の印象が頭の片隅に残ってるんです……」

「そんな事よりも先ほどの話の続きですが、私の提案は納得していただけましたか?」

「黒岩社長さま、確かに良いお話だとは思いますが、従業員全員が残れる保証が無いのが問題となる可能性が高いと思います」

「しかし、今のお宅の会社の業績ではあと一年持つかどうかわかりませんよ。それに里中さんでしたっけ、あんなにできる技術者も辞めてしまうのですから。この先希望退職を募ったらできる人は皆いなくなりますよ」

「里中君は、会社に不満があって辞めた訳ではありません」

「いずれにしてもあなたの会社の経営陣では長続きしません。早川さん、協力してくれませんか」

「うーん、もう少し考えさせてください」

「わかりました、それでは飲みましょう。さっきの店員に言われた紹興酒の回し飲みでもしましょうか」

 ――ガラガラガラ。


「あらまあ、どうしましょう。肝心な所は喋って無いわ」

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