榴槤

@maaumaaumaau

榴槤

 カーテンの隙間から差し込んだ朝の日差しが薄く開いた目の中に飛び込んで来た瞬間、このひと月の間に胸中に降り積もっていた不安や焦燥感がその重みに耐え切れず崩壊し、雪崩のように全身を圧倒した。少なくとも三十分間は布団から抜け出すことも出来ず、何とか体を起こす事に成功した私は「無理。」と声に出して呟いた。もう、何もかも無理だった。午前八時半、私は上司に欠勤の連絡を入れてからパジャマのまま朝食の目玉焼きパンを二人分作り、コーヒーを淹れ、同居する弟と一緒に無言で平らげた。朝食がお皿の上から消えてからも、私はくだらないゴシップ番組をぼんやり見ながらコーヒーを啜っていた。この世界はくだらないものの結晶が集合体となって構成されているんだ、そんな事を考えている間に弟はさっさと身支度を済ませ、「行ってくる。」と一言だけ言い残して大学へ行ってしまった。何も詮索しないのが彼なりの気遣いの方法なのだろうが、その距離感が少し寂しくもあった。



 さて、私は生きるのが辛い。これといったスキルもキャリアも美貌も豊満な肉体も何もなく、もたもたしていたらあっという間に三十路になってしまった。手取り十八万円の一般事務職には出世の見込みは無いし、私自身出世したくもなかったし、この仕事は次のステップ『作家』への単なる腰掛けだと思っていた。ただひたすら作家になるという夢にしがみつき、書いて書いて書きまくり、せっせとコンテストに投稿していた。同年代の人間たちが結婚し、子供を産み、家や車を買い、SNSや年賀状が幸せな家族写真で溢れかえっても、私は脇目も振らず小説を書き続けた。恋人も作らず、旅行にも行かず、毎日が職場と本屋と自宅の往復だった。そのささやかで静謐な生活に汚泥を流し込んだのが、ちょうど一ヶ月前の同窓会、梶原基子との再会だった。



 高校当時、私と梶原基子は文芸部に所属していたが、クラスも好きな文学のジャンルも異なり、また特別お互いの人間性に惹かれ合うような部分も無く、必要以上の会話をする事はなかった。私は純文学作家を目指していたが、梶原基子はハーレクインを読み「いつか恋愛小説家になる、全米が泣くような恋愛小説を書きたい。」と公言しており、私は心中彼女を見下していた。

 ところが、梶原基子は純文学作家としてデビューしていた。ちょうど同窓会の数日前に純文学雑誌『プレアデス』新人賞の発表があり、彼女の長編小説『レモンティー』が最優秀賞を受賞したのだ。同窓会当日、クリーム色の小ぎれいなスーツに身を包んだ梶原基子は大量のプレアデスを段ボール箱に詰めて持参し、旧友に配り歩いていた。そしてその段ボール箱を運んでいたのは文芸部の三嶋君で、私が淡い恋心を抱いていた美男子であった。文芸部時代には二人で太宰治について深いレベルで語り合ったものの、引っ込み思案な私は三嶋君の大学進学後の連絡先を聞き出すことが出来ず、高校を卒業してからというもの一度も姿を見たことがなかった。私はせっせと段ボールを運ぶ三嶋君を見つけると、何とか勇気を振り絞って声を掛けた。そして、今でも眩しいぐらいにハンサムな三嶋君の言葉が、私に引導を渡した。

 「あ、もしかして、石川さん?懐かしい!あまり変わらないね。今何やってるの?事務職?へえ。俺は会計士になって、事務所も持ってるんだ。と言っても、自宅なんだけどね、古い一軒家買ったの。住宅ローンの支払いが毎月大変でさ。あー、そうだ、実は俺、梶原と結婚したんだ。子供もいて、モトユキって名前なんだけどね、もう五歳になる。子供は可愛いよ、目の中に入れても痛く無いってのは本当だね。ああ、そういえばずっと住所がわからなかったから年賀状も送れなかったんだ。フェイスブックやってる?」

 胸の高鳴りは消え失せた。私は曖昧な返事をした後、静かに会場を去った。フェイスブックなんて、糞食らえである。

 そしてあの日以来、私は大好きなK書店からも遠ざかってしまった。以前は小説や歴史書のコーナーで小一時間を過ごしたり、動植物の図鑑や料理の本を眺め、給料日には外国の極端に厚い写真集を買う贅沢を楽しんだものであるが、今となってはコミックコーナーで漫画本の表紙を眺めて通り過ぎるぐらいが精一杯だった。敬愛する作家の小説を開いてみても、自分には決して辿り着く事の出来ない境地に圧倒されて涙が出た。また、絹織物のように滑らかに輝く言葉の美しさに目を激しく焼かれるようで、数頁を読み進めることすら困難に思えた。

 そして何より、単行本として発行された梶原基子の『レモンティー』が平積みにされているのを見るのが辛くて堪らなかったし、『レモンティー』を読んでその軽薄さやトレンディードラマ臭に吐き気を催してからというもの、雑誌『プレアデス』への尊敬や愛情も消え失せてしまった。何故、こんな小説が最優秀新人賞なのか。

 そうして私の日常の中からは次第に本が、文学が、雄鶏の一声を聞いて立ち去る亡霊のように、色あせて消えてゆくのであった。



 午後三時。テレビを見たり、パソコンでネットサーフィンをするのにも飽きてしまったので、意を決し外に出てみる事にした。伸びきったTシャツを隠すためにヨタヨタのパーカーを羽織り、擦り切れたジーンズと一昔前に流行った外国製のサンダルを履き、財布だけをポケットに突っ込んだ。携帯電話はベッドの上に置き去りにする事にした、その方が身軽でいい。特にフェイスブックの通知なんて見たくもなかった。とにかくどこか遠くに行きたくて、逃げたくて堪らなかった。マンションの外に出てからは普段行かない方向へ無作為に歩き、大きな通りを避け、私道なのか公道なのかわからないような狭い道を抜けて当て所もなく彷徨った。「瞬きした瞬間、ここがヴェニスやオスロ、コペンハーゲンの街の中に変わっていたらいいのに。」と強く願ったが、何度瞬きをしても日本の都市の住宅街である事に変わりはなかった。ただ、新しい住宅やアパートの間にポツンと佇む木造住宅、古びた家に巻きついた蔦、打ち捨てられたような庭の中で無造作に寝転んだ錆色の猫を見つけると、少しだけ非日常の中に足を踏み入れたようで、そうしたものに出会えた喜びを感じずにはいられなかった。



 そうして歩き回るうちに、私は完全に道に迷った。もうそろそろマンションを出てから一時間以上になるだろう。新築物件が多数を占めていた街並みを歩いていたはずが、いつの間にか、古臭く小さな建築物がひしめく地域へと足を踏み入れていた。温い風の中に微かに線香やカビの臭いが混じっていて、懐かしい気持ちになった。「N区にもこんな場所があったなんて知らなかった。」と少し驚きながら路地を抜けた目の前に、奇妙な果物屋が現れた。



 その果物屋は二階建ての木造住宅で、路地まで張り出した緑色のビニールの庇の下には小さな赤い傘で覆われた白熱電球が吊るされており、台の上に積み重ねられた果物たちを煌々と照らしていた。両側を少し背の高い住宅に挟まれているせいか店自体は薄暗いもやに包まれているように見えたが、影の中に佇む店と輝く果物のコントラストがあまりにも鮮やかで、その印象は私の胸を強く打った。

 店の最前列に陳列された果物はスーパーや八百屋では見かけないものが多く、どうやら南国の果物を中心に取り揃えているようだった。色鮮やかで奇妙な形態をしており、どのようにして食べるものなのか全くわからなかった。それぞれの果物の山に小さな板が立てかけられていたので、果物の名前と値段が記載されているものだと思い近寄ってみたが、全て旧字体のような漢字で書かれていた。私には文字が表しているものが果物の名前なのか値段なのかも判別出来なかった。

 そんな果物の中に、一際異彩を放つものがあった。それはメロン程の大きさの楕円形の球体で、明るいキウイのような色をしており、表面には鋭いトゲが無数に生えていた。先程から店先に果物屋とは思えない禍々しい臭いが漂っていると思っていたが、どうやらそのトゲだらけの果物が悪臭の発生源らしく、近づくとより一層酷い臭いがした。私はその醜悪な見た目と芳香に魅了され、束の間言葉を失った。

 「これはタイのラウリン、果物の王様。一個二千円、三個で四千円。お買い得だよ。」

 店の奥から掠れた声が聞こえ、その後を追うように店主がのろのろと現れた。小さな皺くちゃの老人で、見た目からも声からも性別がわからなかった。

 「買う?買わない?」

 突然声を掛けられてまごついている私に決断を迫るように、老店主が畳み掛けた。「買わない。」と答えたらこの店が目の前から消えてしまうような気がして、私は財布をポケットから引っ張り出すと、五千円札一枚を取り出し店主に渡した。

 「ひと玉、ください。」

 「ハイ、お釣り三千円。」

 店主はシワシワになった千円札三枚を私に渡してから、手元にある真っ赤なビニール袋の束から一枚を取り、トゲトゲの果物『ラウリン』を入れた。ビニール袋は脆いらしく、すぐに果物のトゲが袋を突き破って穴を開けたが、店主は全く気にも留めず私にビニール袋を持たせた。ずっしりとした重みと強烈な臭いが、今この瞬間、私の所有となった。

 「また来てね。」

 店主は聞こえるか聞こえないかの声で呟くと、店の奥に引っ込んでしまった。まいどあり、とか、ありがとうございますなどとは、死んでも言いたくないようだった。しかし、果物の王様を手に入れた私には、もう店主の態度などどうでも良かった。私はお釣りのお札をポケットに直接押し込むと、赤いビニール袋を宝物のように抱き、果物から立ち上る臭いを何度も何度も嗅ぎながら街を放浪した。そして誰もいない小さな公園を見つけると、ベンチの上に果物を置き、色々な角度からそれを眺めた。果物の頭が見えるようにビニール袋を半分押し下げると、その剥き出しになった果物の半身から、ビニール袋を突き破った無数の棘から、私は果てしのないエロティシズムを見い出す事が出来た。私はその美しい愛に満ちた光景を写真に収めて永遠に自分のものにしたいと思ったが、携帯電話を自宅に置いてきたことを思い出し激しく後悔した。今この瞬間、この光景と芳香をどうにかして脳裏に焼き付けるしかない、そう思った私はひたすら果物の王様を愛でた。



 しかし、恍惚の時間は長くは続かなかった。空模様が急に怪しくなり、ポツリポツリと雨が降り始めた。私はパーカーのチャックを閉めるとお腹の中に果物を隠し、出来るだけ大きな通りを目指して再び歩き始めた。散々濡れてしまったところでようやく見覚えのある建物がいくつか見え始め、自分の現在地を把握する事が出来た。どうやら隣町の駅付近まで歩いて来てしまったらしい。ということは、このまま道なりに進み、焼き鳥屋の角を曲がって信号を渡ると……。

 私は灰色の雨の中、蛍光灯の明かりを周囲に撒き散らすT書店の巨体を見つめていた。私はT書店のチェーン展開によって小さな本屋が苦境に喘いでいるというニュースを耳にした事があり、心理的な抵抗があったので今まで入店した事がなかった。だが、何か不思議な焦燥感に背中を押され、今こそこの店の中に入らなければという気持ちになった。雨のせいか、迫り来る夕闇のせいか、何かはわからないが、とにかく私は店の自動ドアの前に立ち、ポップソングの流れる異界へと足を踏み入れた。



 店内は思ったよりも眩しくはなく、併設のカフェからコーヒーの香りが漂っていた。私はパーカーの下の果物の臭いの事を思い出し、なるべく人のいないコーナーへふらふらと足を進めた。馴染みのない本棚の間をあっちへ行き、こっちへ行き……そうして気が付いた時には、私はお馴染みの作家名、作品名に囲まれていた。純文学コーナー。そして、目立たないコーナーながらも、そこには平積みにされ、ポップがつけられた梶原基子の『レモンティー』があった。瞬時、私は息を飲み、心拍数が上がるのを感じた。果物屋から続いていた恍惚感や幸福が急速に萎んで行く。どうにかしないと。全てが消えてしまう、またあの絶望の中に絡め取られ、奈落の底へと落ちてしまう。

 「そうだ。」

 その時、高圧電流を通したかのような衝撃が脳髄の中心に生まれ、閃きが私の肉体を震わせた。周囲の人目の確認は必要がなかった。何故なら、この時間と空間が「そのためのもの」だという事が、私にはわかっていたから。私はパーカーの中から赤いビニール袋を引き出すと、果物の王様を『レモンティー』の山の頂上に、そっと置いた。果物は不安定な形状ながらもそこから転がり落ちる事なく、薄いコーヒーの香りが漂う小洒落た空間に、トレンディードラマのような小説が印刷された気取った装丁の本の上に、生ゴミのような腐臭の粒子を放出して獰猛に侵略を開始した。まるで、醜い異形の王が洗練された異民族の都市を残虐に征服したかのような、鮮烈で生々しい光景であった。私は深い満足感を得、久々に心から微笑んだ。そして、決心した。

 「よし、このまま出て行こう。」

 私が果物の王様を置いた様子が監視カメラに録画されているかもしれないが、それが何だというのか。この人生で失うものなど、もう何も無いのだ。あの果物がこのまま誰にも気付かれずに熟れてゆき、果肉の中で腐ったガスが出口を探して炸裂してしまったら……澄ました顔の『レモンティー』の上で爆発したら何と面白い事だろう。そうしたら、『レモンティー』は純文学の世界に仲間入り出来るだろうし、私も梶原基子を純文学作家として認めよう。



 私は一度も後ろを振り返らぬまま書店を出ると、お気に入りのケーキ屋を目指して歩き始めた。ショートケーキを二つ買って帰り、弟と一緒に食べるのだ。そして話そう、あの果物の事を。




※榴槤……ドリアン。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

榴槤 @maaumaaumaau

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る