魔王と悪魔

 王子が王となってから一年が経とうとしていた。

 殺した民の数はとっくに千を超えた。

 城内には白い骨が積み上がっていた。

「毎日、毎日飽きもせず殺したと言うのに、余を殺そうという気概のある奴はまだ現れぬのか。すでに余は、海の向こうでは魔王などと呼ばれておるのだろう? 魔王討伐を志す勇者はおらぬのか。退屈でかなわぬ」

 王座に座り、肘掛けに頬杖をつきながら欠伸交じりに言った。

 王座のすぐ横には剣が立て掛けられている。

 王子が肌身離さず携えるそのつるぎは千の民の血を啜った。

 禍々しい輝きを放ち、妖剣になる日も近いだろう。

『ベリアル様は大分お強くなられましたからね。大抵の使い手では相手になりません』

「こうも殺し続けると、息をするのと同じように殺せるようになるのだな。数多あまたの書物を読んできたが、知らなかった」

『そうですね。私も知りませんでした。こんなに殺した人間を見たことがありませんでしたし』

「お前の永い生の中で余が初めての事例か? 悪くないな」

 珍しく愉しそうに弾んだ声音で王子は言った。

 悪魔の胸がぎりぎりと抉られたように痛む。

 その細い腕は殺すためにあったものではなかったはずなのに。

 思わずその場に跪き、その手を取っていた。

 王子にじっと瞳を射抜かれる。

「……随分と物欲しそうな目だな。余が欲しいのか?」

 驚く様子を見せるどころか、つまらなそうに一度だけ鼻を鳴らした。

『……さあ。生まれてこのかた、人間に対して心から欲したことがありませんので、自分でも戸惑っているところです』

「ふうん……」

 事実、悪魔は酷く戸惑っていた。

 普段の飄々とした表情は成りを潜めている。

 代わりに纏うのは、そわそわとどこか落ち着かない空気だ。

 王子は楽しそうに笑うと自身の上着を暴き、白い肌を悪魔の前に晒した。

「常日頃のお前の働きに褒美をくれてやっても良い。好きにしろ」

『……ベリアル様……』

 陶器のような、白く滑らかな肌に思わず喉が鳴る。

 悪魔はまるで壊れ物を扱うが如く、その白い胸に触れた。

 舌を這わせ、恐る恐る首筋に牙を突き立てる。

 その血を啜れば――ああ、酷く甘い。

 魂の満足度が最高値に近付いている証だ。

 王子は本来の望みとは別に、現状に満足を覚え始めている。

 空腹に堪える豊潤さ。

 悪魔は思わず夢中になって血を啜ってしまう。

「っ あっ……」

 王子の口からか細い声が漏れた。

 びくりと背が仰け反る。

 吐息に艶が混じる。

 悪魔は我に返り、唇を離した。

『も、申し訳ありません……!』

「……ふふ、殺してくれるのかと思ったのに……」

 恍惚が入り混じり、頬は薄紅色に染まっていた。

 しかし何より悪魔が見惚れたのは、王子の困ったように笑んだ顔で。

 そこには悪魔がよく知った王子がいた。

『ベリアル……さま……』

 悪魔は思わず力一杯抱き締めた。

 そして沈黙する。

 美辞麗句を並べることに長けた悪魔が、言葉を何一つ見つけられずにいた。

「――やっぱり……お前では駄目だね…………」

 かつての、優しい王子の声が悪魔の耳元に届く。

『……』

 幾ら強く抱き締めたとて、悪魔の冷たい腕では温めてやることができない。

「……ああ、早く殺しに来て……私の勇者様……」

 心ここにあらず。

 そんな態で呟かれた王子の言葉に、悪魔は眉間の皺をいっそう深くした。

 そして完全に認めざるを得ない。

 自分が王子を愛していることを。

 それ故に、死以外の幸せを与えてやりたいと願っていることを。

 このままでは確実に、王子がどこかの誰かである『勇者』に殺されるだろう。

 そして殺されることで正真正銘の魔王となり、その暁には満足するのだろう。

 勇者にとって魔王は必要な存在だ。

 魔王が存在するからこそ、それを倒した者が勇者に成れる。

 初めて絶対的に必要とされる存在に成り得て、王子はきっと満足してしまう。

 だが、それは余りにも人の営みから外れた境地だ。

 魔王として誰かに殺されるために生き続ける一生。

 何故、この美しい王子がそんな哀れな一生を過ごさねばならなかったのだろう。

 一番欲しいものは、彼の真の望みは、愛し愛されること。

 ただそれだけだったのに。

 そんなことは、人間として生まれついたなら誰もが当たり前に望むことで。

 全てを犠牲にしても手に入らないなどということはないはずだろう。

 なのにどうして、王子には与えられなかったのか。

 それは彼の瞳が深紅だったからだ。

 瞳が紅かったから。

 ただそれだけの理由に、悪魔は抑えがたい憤りを感じた。

 そして密かな後悔を―……。

 今となってはもう、王子が本当に心から望んだ願いは絶対に叶わない。

 魔王と畏怖される王子を形振なりふり構わずに愛する人間は現れないからだ。

 例え王子の真実が哀れで、誰よりも心優しい人間であったとしても。

 千の民を殺した罪に目を瞑ることはできないだろう。

 それに、王子だって自分自身を許せないに違いない。

 果ては与えられる愛を信じられず、相手の愛を試すだろう。

 試して、試して、試して――相手が壊れるまで試して。

 そして壊れてからこう言うのだ。

「ああ、やっぱり私を愛していなかったじゃないか」

 それだけ王子は心を踏み躙られ、壊されてしまった。

 猜疑心に取り憑かれた魔王に無償の愛を捧げ続けることができる人間。

 そんなものを見つけるのは困難、極まりない。

 砂漠で失くした指輪を探すようなものだ。

 だが、悪魔が落胆することはなかった。

 人間の中からそういった相手を探す必要は無いからだ。

 王子の罪を一蹴し、無償の愛を捧げ続けられる利己的な存在は確かに存在する。

 そう、ここに。

 魔王を愛せるのは、もはや悪魔しかいないのだ。

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