EP10 星の調べ
その日の夜。カディルは屋敷の庭に面した一階のバルコニーの椅子に腰掛けて夜空を眺めていた。今夜はよく晴れていて星がよく見える。今日連れ帰ったばかりの黒い子猫はカディルに喉を優しく撫でられて気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「…カディル様」
不意に背後から声をかけられてカディルは驚いた。振り返って、さらに驚いた。
「フィラ…」
そこには寝巻きにナイトガウンを羽織ったフィラが遠慮がちに立っていた。
「あの…みっともない姿でごめんなさい。少し部屋から出てみたらカディル様をお見かけしたものですから…」
「ああ…、いえ。」
カディルはそれしか言えなかった。
ひと月ぶりに見るフィラは月の女神のように美しかった。金の髪が月明かりで輝き、恥じらいを見せるその表情は純真で清らかだった。言葉を失うほどカディルはフィラに見とれてしまったのだ。
しかしそれも一瞬のことでカディルは我にかえると、フィラに椅子を勧めて穏やかに微笑んだ。
「お久しぶりです、フィラ。お加減はいかがですか?」
「カディル様…。」
そう言うとフィラは俯き、膝の上で拳を握った。
「フィラ…?」
どうしたのだろうとカディルは少しフィラの顔を覗き込む。フィラはとても申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「カディル様。ひと月もの間、屋敷に置いてくださっているばかりか、治療を受けさせてくださったり、お世話をしてくれる侍女までつけてくださり、本当にありがとうございます。…それなのに私は…部屋に篭りきりでカディル様が毎朝、毎晩気を使ってたずねてくださってもご挨拶すらせずに…本当に失礼なことをしてしまいました…。申し訳ありませんでした…。」
フィラはそう言うと立ち上がりカディルに深く頭を下げた。
「ーーー…頭を上げてください。」
カディルの声は暖かく優しい。フィラはゆっくりと顔を上げてカディルを見つめた。カディルは微笑んでいた。
「どうぞお座りください。ああ、ノエル達に聞いていた通り、本当にお元気になられたようですね。…良かったですよ。」
「ーーはい。ありがとうございます。」
カディルの横の椅子に座りなおしてフィラは微笑んだ。カディルはその時、フィラの背中にあった美しい翼がないことに気づいて青ざめた。
「つ…翼が…ありませんが…まさか、切り落と…え、ええと、いや、まさか、ですよね…?でも…」
カディルの困惑した姿に驚いたフィラであったが、次第にクスクスと笑い始めた。
「大丈夫です。ちゃんとあります」
そう言うとフワリと立ち上がりカディルの前に立って見せる。
瞳を閉じて祈るように手を組むと美しい金のオーラがフィラを優しく包み込む。
「ディアナ」
彼女がひと言呟くと、光の粒子が集まるように彼女の背中に光り輝く白い翼が現れた。カディルは目を大きく開いてその一部始終を見届けると、とても感心するように頷き、好奇心を抑えられずしげしげと翼を観察した。
「はぁー。なるほど。翼は出し入れが可能なんですねぇ!…ああ、本当ですね。折れていた右の翼も元通りのようです」
ノエルとエリッサの報告を思い出してカディルは満足そうに頷いた。
「はい、まだ飛べるまでには至りませんがお陰様でここまで回復致しました」
「そうですか。それは良かったです」
「ありがとうございます…」
フィラは照れたように頬を染めていたが急に真顔になり、カディルの前で姿勢を正した。不思議に思ってカディルは首を傾げた。
「どうしたのですか?」
「カディル様。お願いがございます」
「は…あ。私にできることでしたら」
「見ず知らずの私にここまで親切にしてくださったカディル様のご厚意に対して大変厚かましいお願い事なのですがーー…。もうしばらく、このお屋敷に置いていただけませんか…?飛べるようになったら必ず出ていきますので…。」
フィラの手が震えている。
カディルはそれを見ていた。
二度と自分の国に帰れなくなってしまった彼女は、このひと月の間、寂しさと不安と、これからのことをずっと考えていたのだろう。全てを受け入れて、王族である身分を捨てて一人で生きていく。その覚悟をする為にどれだけ苦しんだのだろうーー。
カディルは立ち上がり、フィラを見下ろした。少し冷えてきたのでカディルが羽織っていた衣をフィラにかけてやった。
驚いてフィラが顔を上げる。
「あなたは、何も心配することなどありません。あなたさえ良ければいつまでもここに居ていただいて良いのですよ。 」
「ーーーー…え…そんな図々しいことはさすがにできません…」
「私一人には広すぎる屋敷ですしね。部屋はたくさんあります。」
「信じられないほどの有難いお言葉ですが、そういうわけには参りません。カディル様の良い方からしたら気分の良いことでは決してありません!」
「良い方…?」
ボカンと呟いてその意味に思い当たるとカディルはつい笑ってしまった。
「お気遣いありがとうございます。ですが私には残念ながらそのような女性はいませんから、お気になさらず。」
「…そうなのですか。それは失礼を…」
フィラは失言とばかりに頬を染める。ニコニコと笑っていたカディルはそこでハッとした。これではまるで。
「ええと、フィラ。確かにですね、あなたにいつまでもここに居て構いませんと言いましたが、そこにやましい気持ちは一切ありません。変な意味ではありませんから安心してくださいね。」
カディルは慌てて弁解した。
フィラは瞳をまん丸くしていたがクスクスと笑い出した。
「大丈夫です。そんなこと思っていませんから」
ホッとしたカディルは照れ笑いをして、星を見上げた。先程より星が美しく見えるのが不思議だった。
「ーーゆっくりとここでお過ごしください。気兼ねなどいりません。聞きましたか?あなたがこの屋敷に現れたのは、天文学的確率なのだと。素晴らしい奇跡ですよね。ーーいつか、あなたがどこか別の場所に行きたいと願う時が来たら引き止めるようなことはしません。でもそれまでは我が家と思って自由にしてください。家の者は皆大歓迎ですよ。若い女性が家にいるだけで華やぐと皆言っています。」
「カディル様…。ありがとうございます…!」
フィラは安心したのか涙ぐんでいる。
それまで大人しく二人のやり取りを眺めていた黒い子猫がフィラの足にすり寄ってにゃ〜んと甘えた。
顔を輝かせてフィラは子猫を抱き上げた。
「可愛いオッドアイの子猫ちゃん。先程から気になっていたのです。カディル様が飼っているのですか?」
「あー。まぁ、そうですね。今日からですけども。お好きなんですか?」
「ええ。動物はみんな好きですけれど、猫はとくに好きかもしれません。柔らかくて暖かい…。安心します」
愛しげに子猫をほっぺたに当てているフィラを見てカディルは思いついた。
「良かったらこの猫を差し上げましょうか?」
「え、…よろしいのですか?」
「ええ。王子から譲り受けた猫なのですが、私よりフィラのほうが大事にしてやれる気がします。魔女猫の純血だと聞きましたよ。」
「魔女猫?」
フィラは子猫の脇を両手で抱えてまじまじと顔を近づけた。
「天使の役にも立つのではないか?と王子がおっしゃっていましたよ。」
「まぁ。」
子猫はフィラが貰い受けることになった。
可愛い友達ができたと喜んでいるその横顔を見てカディルもホッとしていた。
フィラは前向きに自分の人生を受け入れようとしている。カディルはその為に自分ができる全てをしてやりたいと思った。
夜が更けていくーー。
今夜は安心して眠りにつけそうな予感がした。
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