ネフィリオ星雲、東より来たりて
ソメガミ イロガミ
ネフィリオ星雲、東より来たりて
ネッドは、まだ眠たく瞼を開くことができなかった。だからもうずっと眠ったままでいようと思っていた。今日も日が昇るだろうが、目さえ開けなければそれを視認することはできまい。さすれば、夜も同然だ。目さえ開けなければ私の中の時間は止まったままなのだ。ネッドはそういう人間であった。
例え世界中の人間が空を見上げようと、ネッドは寝床についたままであるし、例え世界中の人間が毒ガスで死のうとネッドは眠ったままなのだ。
半月の夜のお話である。
裸でミケランジェロ像にまたがる男がいた。国立公園広場にて、犬とセックスしていたご婦人がそれを目撃したのだ。男は、石像の穴を探し逸物を入れようとしていたのだ。下半身を露出させて目を真っ赤に充血させながら息は荒い。街灯に照らされて映るその様子はまさに気が狂っているかのように見えた。まぐわっていた犬が吠えそうになる。ご婦人は犬の口を押さえ、男が去るのを待とうとした。裸の自分ではどうしようもなかったからである。だが…………………………
男のセックスはあまりにも美しかった。そして痛々しくあった。折れそうなまでに逸物を石像に押し当てている。苦悶が浮かぶ表情。だが恍惚ともしていた。気持ちの良さそうであり、解放されたかのように気持ちになれた。嗚呼天使が飛んでいる。まるで天使が飛び回っている!!三段ジャンプだ!天使がジャンプしてまぐわっている!両性具有の聖なる使者は男と石像を歓迎しているように思えた。
The new world……
婦人は思わず裸のまま草むらから出でて、ミケランジェロ像へとトボトボと歩いていった。
「ご婦人もお好きで?」
まぐわりながら、汗を噴き出しながら男は尋ねた。思わず息の荒くなる婦人も、嬉しそうな表情でたわわな乳を揺らしてうなづく。子供のようだ。
男はそれを見ると、大きな声で
「ならみていなさい!!」
こう叫んでまぐわりを続けた。
男は死んだ。
真冬の国立公園広場でやることではなかった。天使が迎えに来たのだ。婦人も、雪の上に倒れていた。犬はまるで呪縛を逃れたかのように足取り軽く何処かへと消えいった。
聖ミケランジェロ像には血が滲んでいた。
これは半月の夜のお話である。
聖ミケランジェロ像は、もはや雪とともに精にまみれており、もはや聖なるものかと言われると首を傾げざるを得ないものとなっていたと思う。もう昔のことであり、ネッドにはその記憶さえも曖昧模糊としていた。
ねっとりとしたその気持ち悪さだけは脳裏に焼き付いて離れなかったのだが。
ネッドはキャンディを舐めていた。何故起きたのかも覚えていなかったが、気まぐれだろうと自分を納得させる。ネッドはそんな男であり、それだけではない男だった。
彼はアパートメントに一人きりで住んでいる。数十部屋あるアパートメントだが、近頃宇宙より地獄が飛来するだとかなんとかの報道がテレビジョンから発信されていることを原因とし、多くの住民が退去し今やこのアパートメントには彼一人しかいない。だから彼は眠る。終わりを待っているのではない。終わりなど来るはずがないと信じているから彼は待っているのだ。
死の先にあるのは死だ、闇だ、新たなる生だと誰が言い出したか彼は知らぬ。だが、唯一、その先にはただ新たなる扉があるのだと彼は知っていた。だから彼は枕に頭を置くのだ。そして目を閉じるのである。
聖ミケランジェロ像には、男が死んで以来セックスレスな男女が付着するようになった。文字通りくっつくのだ。そして死んだように動かない。ただ体液を垂れ流すだけである。血、胃液、糞、小便、唾液、羊水、裂かれているのかわからないが様々なものがそこには流れていた。まるで川のようであった。そう、大河だ。
人間の大河だ。
これは新たなる何かの誕生としか思えなかった。
その頃のネッドは新聞記者で、煙草をくわえながらにその事件を追っていた。まるで世紀末のようだと思ったのを記憶している。毎日毎日新たなる人間が付着し、石像は肉塊へと変貌していく。そしてそこを基準として人間の大河…人間としての宇宙が展開されていく。
神々しいとさえ思った。
人はこんなに美しかったのかと。
やがて国立公園広場は人の海と化した。
ネッドのアパートメントからも人の海はよく見えた。だがその頃には神々しさなど失っており、ただただ異臭と惨さだけが残っているだけであった。
テレビジョンは叫ぶ。
『ネフィリオ星雲、東より来たりて!!』
どこぞの軍曹が会見場でそう叫んでいるという報道だ。気でも違ったのかとキャスターはいう。だが、本能として理解できた。気でも違ったのではない。
これが正常になるのだと。
数ヶ月後にはどの報道番組でも誰もが『ネフィリオ星雲、東より来たりて』と叫ぶようになっていた。その頃にはネッドはテレビジョンを見なくなっており、テレビジョンを見ていたものは気が狂うかビルから飛び降りるか二つに一つになっていた。
他の国がどんな調子なのかはさっぱり知らなかったが、自分の国だけがこんな様子だとしたらなんと滑稽なのだろうと彼は思っていた。
半月の夜の話である。
実際、日に日に空は赤黒く染まっていき、この世のものとは思えないマーブル色を描くようにさえなっていた。ネッドはその頃には完全なる睡眠法を自分のものとし、眠り続けるようになっていたが、俗世は違う。
性が飛び交い、死が共通通貨となるこの現代、テレビジョン、ラジオ、どの媒体でも『ネフィリオ星雲』を追求する。軍は最早空を見上げて空を絵に描きニヤニヤするかのようで、もはや論理的思考などそこには存在し得ない。
死に囚われた囚人たちの末路といえよう。
ネフィリオ星雲、東より来たりて
ネフィリオ星雲、東より来たりて
ネフィリオ星雲、東より来たりて
ついにはアパートメントにも星雲は達していた。
原理は分からなかった。
もはやそれは星雲とは言えないとはわかっていた。
アパートメントの最上階は押しつぶされていた。星雲が圧迫する。
日に日に国立公園広場の人間の海もその領域を拡大していき、異臭などもはや日常となり、もはやアパートメントの入り口まで浸食していた。
どこからも出れない。
アパートメントは匣となった。
最初ネッドは大笑いした。
そして彼は眠りについた。
波が揺れている。
人の波が。体液の海が。
ぐらり
ぐらん
ぐわん
ぐぅーん
どぁばーん
波打つ波打つ
どこ行くの?
人はどこへ行くの?
さぁ知らんよ、と波が言った気さえする。
ネッドはある日目が覚めた。部屋の扉が内側までひん曲がっていて今にも折れそうな様子から、その先に人の海が来ていることはわかった。扉の隙間からは血さえ入ってくる。
外に面するガラス窓の方も人の顔が押し付けられている。ため息をつくしかあるまい。
ネッドは時には、と思いテレビジョンをつける。電気は不自由なく通っていた。
テレビジョンにはあの時と同じように軍曹らしき人間ががらんとした会見場で叫んでいる。
『ネフィリオ星雲、南からも来たりて!!』
『ネフィリオ星雲、南からも来たりて!!』
あぁもう終わりだ、とネッドは笑った。
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