毎日が夏休み
……もう夢は見なかった。
理由は分かっていた、この部屋を含め柚希との生活が、
ふわふわと現実感のない夢の中にいるようだからだろう。
カーテンの無い窓から部屋全体に朝の光が差し込み、
自然と目が覚めてしまった……
岬の突端を見下ろす高台、二人だけでは広すぎる建物。
広大な自然公園内に建てられているが、ここは私有地なので
外部の人間は入ることは出来ない、俺と柚希だけの時間が紡げる。
かすかに朝食の用意をする音が階下から聞こえてくる。
(……分かってると思うが、柚希を泣かせたら承知せえへんで)
萌衣ちゃんに釘を刺されたからだけでなく、
柚希と寝室は別にしてある、あんなに待ち望んだ同居なのに、
何故かお互いを意識して、ぎこちなくなってしまう……
「何だよ、夜八時就寝って、小学生か、俺は……」
思わず苦笑いになり、昨晩の事を思い返す。
自転車で買い出ししてきた食材で、初めての夕食を作った。
汚してしまった洗濯物は、午後の時間だけでは乾ききらず、
二階に続く採光部の吹き抜け部分に干してみた。
リビングから見上げると、そこだけ所帯じみた空間になり、
おしゃれなインテリアをぶち壊していた。
「私、こっちのほうが落ち着くかな……」
二階で洗濯物を干す俺に、リビングから柚希が笑いかける、
見下ろすとテーブルにはすでに料理が並べられ、
夕食の準備が整っていた。
「そうだな、借りている身で贅沢だけど、モデルルームみたいで、
何だか落ち着かないと思ってたんだ!」
かいがいしく用意をする柚希のエプロン姿、思わず見惚れてしまうが、
それを悟られないよう、努めて明るい返事をした。
オレンジ色のエプロン、胸ポケットには何かの刺繍がしてある、
ここからでは何の刺繍か分からない。
「何、柚希をじっと見つめてるの、
あ、もしかして、このエプロン?」
やっぱり見惚れていたこと、気付かれてしまったようだ……
「お裁縫して作ってみたんだ、でも私、ぶきっちょだから
あんまり近くで見ないでね、粗が目立つと思うから……」
頬を染め照れる彼女のしぐさが、愛おしく思えた。
そう言えばミシンの音が聞こえていたな、
階段脇の中二階に作業スペースがあり、そこにハンドメイドの
道具が揃っており、最初にそれを見た柚希が目を輝かせていたんだ。
「お兄ちゃんにおつかい頼んじゃってゴメンね、
買ってきてもらった仕立て用の布地、すっごくいい色だったよ」
俺が見惚れた理由もそこにあった、目の覚めるようなオレンジ色、
柚希にはオレンジがよく似合う。
「お安いご用だよ、買い出しのついでだったし……」
それは嘘だ、手芸店を何軒もママチャリでハシゴしたんだ、
男の俺には恥ずかしかったが、柚希の喜ぶ顔が見たかった。
「家から柚希の物、何も持って来れなかったから助かったよ!」
一瞬、荒れた室内が俺の脳裏にフラッシュバックしたが、
彼女の表情が曇らない事に、安堵の胸をなで下ろした。
「もうすぐ洗濯干し終わるから、近くでエプロンの姿見せてよ」
「まだ駄目! お兄ちゃん、洗濯物の干し方適当過ぎだよ、
もっと間隔を開けないと良く乾かないよ……」
そう言われて、手元の洗濯物を見ると確かに一つ一つの間隔が、
近すぎるようだ、こんな所で普段やらない事がバレてしまうな。
「……それに、近くでエプロン見られるの恥ずかしいな」
「何、良く聞こえない!」
洗濯物の間隔を綺麗に直し終わり、空の籠を抱え、
足音に気を使いながらゆっくりと階段を降りる。
カウンターキッチンの向こうに立つ柚希、
両手にキルトの鍋つかみをはめ、ちょうど鍋に手を掛けた所だ。
こちらに背を向ける彼女は、俺が降りてきた事に気が付いていない。
「近くで見てもいいかな、柚希!!」
細い背中に手を触れる、驚きで肩が震えるのが伝わってくる。
「お兄ちゃん、駄目!火傷しちゃうよ!!」
鍋を持ったままの彼女が、抗議の声を上げた、
俺にとって両手が使えない今がチャンスなんだ。
鍋をコンロの上に戻すのを見届けてから、掴んだ肩を優しく引き寄せた。
「あっ、宣人お兄ちゃん……」
掌に収まるほど華奢な柚希の肩、じんわりと彼女の体温が伝わってくる。
「不意打ちなんてズルいよ……」
急激に俺の体温も上昇する、決して暑い調理場たからだけじゃない。
小学生の頃みたいに、安易に彼女に触れた事をいまさら後悔した。
自分で自分の行動に照れてしまった……
俺の固唾を飲み込む音だけが、静かなキッチンに響いた。
妙に柚希を意識してしまう、自分で見えないが、
俺の頬は真っ赤だったはずだ。
「お料理、冷めちゃうといけないよ……」
柚希がぽつりと呟く、お互い無言のまま、リビングに向かい、
差し向かいでテーブルに着いた、ギクシャクとした時間が流れる。
柚希の作ってくれた料理は美味しかった。
地の新鮮な野菜中心で作った品々、肉巻きのピーマン、
味付けも絶品で白いご飯に合う、ミニトマトを和えたサラダ、
栄養バランスを考えてくれたみたいだ。
「……美味しい!!」
俺の感想に、緊張していた柚希が相好を崩し、
やっと笑顔を見せてくれた。
「良かった、お兄ちゃんに喜んでもらえて……」
やっぱり、困った顔じゃなく柚希には笑顔でいて欲しい。
「そう言えば、お前の作ったエプロン、何の刺繍してあるの?」
照れ隠しに、思い出したふりで話題を変える。
エプロンの話題になった途端、ニコニコしていた柚希の表情が固まる。
「どうしても見たいの?」
「うん、見たい!!」
隠されると見たくなるのは男のサガだ。
「仕方が無いな……
本当に笑わないって約束してくれる?」
何故、エプロンを見せることに抵抗するんだろう……
訝しがる俺の前に、エプロンを持っておずおずと現れる柚希。
オレンジのエプロンを身に着ける彼女、何だ、縫製も上手じゃないか、
この出来なら恥ずかしがる事ないのに……
胸ポケットの刺繍が目に入る、管理人さんで言えばピヨピヨの位置だ。
「んっ!?」
俺の目に飛び込んできたのは、牙を剥いた恐竜の刺繍、
恐竜の頭には何か虫みたいな物体、一体、何の刺繍だ?
「……柚希、恐竜の刺繍、上手だね」
分からないけど、とりあえず褒めておこう。
「違う、恐竜じゃないよ、宣人お兄ちゃん……」
柚希の顔色が瞬時に変わるのが分かった。
「だから見せたくないって言ったのに……」
がっくりと落胆する彼女、俺、何か不味いこと言ってしまった?
「えっ、恐竜と虫の刺繍じゃないの?」
「柚希の刺繍がド下手だから、お兄ちゃんに分かって貰えないんだ……」
何だか地雷を踏んでしまったみたいだ、そして俺は大変なことを見落としていた。
彼女の指先には、いくつもの絆創膏が貼られていた事に……
料理が得意な柚希が怪我をするわけない、そしてミシンでもない、
あの刺繍で悪戦苦闘して指先を針で怪我したんだ。
そこまでして俺に刺繍を見せたかったのかもしれない。
「ご、ごめん、柚希……」
「宣人お兄ちゃんが謝る事じゃないよ、
へたくそな刺繍をしたのは柚希だから……」
その後は気まずい空気が流れて、夕食の片付けをしてから、
お互い、別々の部屋に戻った。
昨晩、早く寝てしまったのはそのせいだ……
このままではいけないな、今日は仲直りしなければ、
何か、いい方法はないんだろうか?
しばらく窓の外を見ながら思案してみる。
この部屋からは岬の公園が良く見渡せる位置だ。
「そうだ、これで行こう!!」
岬のある風景をみて妙案を思いついた、そのまま部屋を出て、
朝食の用意をする柚希に、二階の吹き抜けから顔を出し、
息を弾ませながら声を掛ける。
「おはよう!! 今日一緒に出掛けないか?」
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