第2章 クレイジーランナーズ

プロローグ

2-1 走り続けるおかしな奴ら

 マラソンをする奴らはイかれている。




 俺は初めてマラソンの存在を知ったときからそうとしか思えなかった。


 マラソンとは、己の二本の足のみを使って、ただひたすら走り続けるだけの競技である。


 山も谷もオチもなく、どこで盛り上がっているのかよくわからない、非常にシンプルなスポーツであり、ただ黙々と己との戦いを繰り返し続ける。



 俺が生まれ育った日本では、誰もがマラソンのランナーになることが避けられない。


 国民にはフルマラソンを完走する義務があるなんて話をしているわけではない。


 学校の「体育」の授業である。



 俺が通っていた小学校、中学校、そして高校ではマラソン大会があった。


 他の学校がどうなっているのかは詳しくは知らないのだが、おそらくは教育の一環として必ず行われているカリキュラムなのだろう。


 学生生活の間に、トータルで何十キロだか何百キロだかを走らないと立派な社会人になれない仕組みになってやがる。


 年齢を重ねるごとに、走らなければならない距離はどんどんと伸びていった。


 マラソン大会の前には必ず練習があり、数ヶ月前から校内の同じコースを永遠と走らされ続けた記憶がある。


 そして、俺はそんなマラソンをする間中、暇で暇で仕方がない時間の中で、ずっと同じことを考えてしまうのだ。


 俺は何のために走っているんだろうと。




 「走る」とは、目的地に素早く到着するための技術である。


 1秒でも早く走ることができれば、それだけ早く動くことができる。


 この技術は実生活においても決して無駄なものではない。


 目的地に素早く到着することができれば、それだけ時間を、人生を節約することができる。



 しかし、ほとんどのマラソンコースは何故か大きく曲がりくねっていて、あえて遠回りをするような道順になっている。


 走る距離を調整するためだろう。


 しかも、コースが決まっているために、ランナーは走る道順を自分で決めることができない。


 これでは、本当の意味での”マラソン”をしてはいない。



 俺は真のマラソンとは、出発地と目的地のみが決まっている競技であるべきだと思っている。


 道順はランナーが自由に決めることができる。


 どんな道を選ぶのかもそれぞれのランナーが思考することができ、1秒でも早く目的地へと到着するためのルートを選んで走っていく。


 「走る」とは、目的地に素早く到着するための技術であり、この技術を正しく使えた者が勝者となる。


 よって、走る距離は技術の修練度合いによって人それぞれになってくる。


 短い道順を選べれば選べるほど有利になっていく。


 これこそが現実に即していて、極めて実践的な”真のマラソン”だと思う。




 だから、”偽のマラソン”競技なんて最悪だ。


 あえて遠回りをしているバカなやつらなんかよりも、目的地を目指して一直線に進んでいく俺の方がよっぽど早くゴールをすることができる。


 俺より、足が速いやつがいようとそんなのは一切関係がない。


 世界記録保持者にも勝ってみせる。


 同じタイミングでスタートをして、ゴールでのんびりとコーヒーでも飲みながら優雅に待っていてやる。



 ”真のマラソン”で”偽のマラソン”に勝ってやるのだ。



 そして、”偽のマラソン”ランナーたちがいかに非効率なことをしているのか見せつけてやる。




 出発地と目的地が同一地点である周回コースのマラソンなんて、最悪を超えた最悪中の最悪である。


 何のために時間をかけて必死になって、走っているのかが理解できない。


 時間と体力、人生をただただ浪費しているだけであり、ランナーたちは何も手にすることができていない。


 出発点でボーとしていれば、そいつが優勝だ。


 記録は「0時間0分0秒」である。


 どんだけ速く走ろうと一歩でも走った時点で敗者であり、微動だにしなかった者が勝者となる。


 目的地から動いてはいけないのだ。



 しかし、現実社会でそんな主張をしたところで許されるはずがなく、俺は無用なトラブルを避けるためにも、結局はカリキュラムの言いなりになってチンタラと走っていたのだ。


 学生生活において全てのマラソン大会を休まず、サボらずに完走した。


 正しいマラソンを捨て、間違った方向へと自分を追いやっていた。


 俺は何のために走っているんだろう、と疑問を抱いたままで。




 大人になってからは「走る」義務がなくなった。


 当然、俺は走ることをやめた。


 「走る」とは、目的地に素早く到着するための技術であり、そのためには電車かタクシーでも使った方がいい。


 大人が「走る」とは「金」を使うことなのだ。




 しかし、大人になったのに「走る」のをやめない奴らがいる。


 奴らは、義務から解放されたにも関わらずに永遠と、狂ったように走り続けている。


 あえて大きく迂回をして目的地に到着したと思ったら、次の目的地に向かってまた走り始める。


 時間と体力を無駄にして疲れるためだけに走り、ボロボロになりながら、ときに体に怪我を負いながらも走り続けているのだ。


 健康によくはない。


 人間に許された運動の限度を超えてしまっている。


 健康に害するほどに、命を削ってでも走り続けている。


 ランナーズハイとか意味がわからない。


 ハイになりたいんならマラソンよりもドラッグの方がよっぽど健康的である。


 利益はない。


 失うものは列挙できる。


 こんな奴らのことを「イかれている」以外に表現しようがあるのだろうか。




 彼らに是非とも聞いてみたい質問がある。



 あなたは何のために走っているんですか、と。


 時間と体力を無駄にして、ゴールしたときには疲労困憊、得られるものは何もなく、タクシーや自転車よりも遅い速度であえて迂回したコースを選んでまでも、あなたは何のために走っているんですか、と。


 あなたが走ったところで、世界には何の変化も影響もないのに、何故、走るんですか、と。




 彼らはなんて答えるんだろうか?


 登山家のジョージ・マロリーと同じような答えでもするんだろうか。


 そこに「道」があるから、と。




 それとも、今日は何となくいい天気だから走るのか?




 全くもってバカげていて、イかれている。


 理由も根拠も何もない、間違った走り方だ。




 しかし、実直に走り続ける彼らを見て、俺は憧れの感情を抱いてしまうことがある。


 俺にもこんな人生があったのかもしれない、と。


 頭を使わずに、思考なんか巡らせずに、ただ決まったルールやルートに乗っ取って、己の二本の足のみを使って走り続ける。


 非効率であろうと、理由がなかろうと、そこに道がなくても、ただ走る。


 得られるものがあるかどうかなんて関係ない。


 イかれていると嘲笑してくる奴がいようとそんな奴のことなんてどうでもいい。




 ただ、走りたいから走るんだ。




 だから、俺はマラソンランナーになる夢を見てしまうことがある。


 例え得られるものが何もなかったとしても一度は己の力を振り絞って、全力でゴールを目指してみたい。


 人よりもタイムが遅いとか、優勝するとかなんて問題ではない。


 自分と戦って、自分に賭けて、自分に勝つんだ。





 走り切ることのみに全てを賭けた、実直な”クレイジーランナー”でありたい、と憧れてしまうんだ。

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