十六話 人として
話に一区切りをつけ、わたしはコーヒーをすすった。冷え切ったコーヒーは苦みをさらに増している。
隣を見ると、咲子さんが苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。やっぱり、変なやつだと思われちゃったかな。
吉村さんと目が合った。その瞳にはわたしが映っていた。合わせ鏡みたいに何重にも重ね、わたしの全てを知り尽くそうとするように。
彼の目に鬼が映っていないことを信じて、わたしは話を続ける。
お父さんを食べようとした話。
それは何でもない買い物の帰り道のドライブだった。
ヘッドライトが照らし出す夜道の先。お父さんの握るハンドルが、唐突に右へと切られたことを覚えている。
タイヤとアスファルトが擦れる音に心臓が跳ね上がった。前方に迫る巨大な塊。
バックミラー越しのお父さんの目は驚きに見開かれていたけど、口元の歪みまでは隠しきれなかった。わたしは悟った。
「お父さんは死ぬつもりだったんです」
視界が横倒しになり、かき混ぜられ、重力が未体験に傾く。走馬灯などは無く、全て一瞬の出来事。そんな中で頭をよぎったのは、自分がこの程度で死ぬはずがないということ。何故かわたしは、ここで死なないという自信があった。
「身体中が擦り傷だらけだったけど、わたしは生きていたし、目の前にはお父さんの一部がありました」
お父さんは死ぬつもりだったのかもしれない。だけど、わたしまで殺そうとはしなかった。だって現にわたしは生還していて、眼前には、献上されるようにお父さんの足が転がっていたのだ。きれいに、膝から下だけになった右足。
きっとお父さんも、お母さんと同じように、わたしに自分の身をささげてくれたんだ。そう確信した。
「どうすればお父さんの想いに応えられるか、それだけを考えました」
お父さんの右足を胸に抱き、誰も居ない場所へと駆けた。お父さんはてっきり死んだものだと思っていたから、お父さんはわたしに命を託してくれたものだと思っていたから、一切脇目を振ることなく、前だけを見据えて走った。
やがて川のせせらぎを聞きつけ、わたしはそれを目標に進んだ。風に揺れる夏草の河原。黒く澄んだ清流を発見すると、まずお父さんの右足を丹念に洗った。
泥だらけの上着も一緒に洗浄し、水を絞って右足を拭いた。赤ん坊を撫でるように優しく、宝石を磨くように丁寧に。
月光の薄明かりに照射されたお父さんの足は、青白く輝いて見えた。まだお父さんの体温が残っている。直前まで血が通っていた、もしくは命をたぎらせていた証拠。
冷めないうちに、はやく食べなきゃ。
「結局、一口も食べられずに、あえなく駆けつけた警察に保護されてしまったんですけど」
はにかんで笑う。反して吉村さんの表情は変わらなかった。
「その後、わたしは精神科病院に入れられてしまいました」
「それも、運悪く中学受験の時期と重なってしまった」
吉村さんは分かりきったことのように言った。今ばかりは、わたしが彼に苛立ちを覚えることはなかった。
「お医者さんは、たまにいい加減な診断をします。わたしを変人のように扱い、狂った獣を見るかのような目を向けて。こんなの、おかしいです。わたしの何を気味悪がるのでしょう。愛情のために両親を食べた、あるいは、食べようとしただけじゃないですか」
わたしは奈緒ちゃんの人生を奪った人殺しだけど、理由もなく彼女を殺したりなんかしなかった。
欲望のままに屍肉を欲するのが鬼なのだとしたら、やっぱりわたしは鬼じゃない。
「普通じゃないみたいに。人でなしみたいに。頭のおかしいやつみたいに。ひとを、病人扱いして……」
お母さんのことも、お父さんのことも、奈緒ちゃんのことも、簡単に言葉にできるような動機なんてない。一つの答えを出そうだなんて、わたしは、そんなに単純にはなれない。失望も羨望も感謝も好奇心も復讐心も支配欲も、全部全部、食べたいという気持ちに繋がった。人が持つ当たり前の思いを込めた食人ならば、だったら、わたしだって人間でいられるはずだ。
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