十三話 ナイフ

 少しずつ状況が呑めてきた。同時にわたしはひどくいたたまれない気持ちになる。

 この二人は最初からわたしを陥れるつもりなんてなかった。むしろ、庇ってくれていたんだ。


 今思うと、わたしの犯行はなんて稚拙で杜撰だったんだろう。あのときはひどく気が動転していた。あのバッグの異変にも、わたしが所有していればきっと誰かに気づかれたかもしれない。

 わたしは今まで二人の動向に意識と気力を向け続けていた。犯した罪を振り返り、自己の罪悪感に囚われる暇もほとんどなかった。

 全ては吉村さんと咲子さんがともに行動し、カップルの振りをして吉村さんのマンションに入り浸り、わたしの注意を扇動し続けてくれたおかげだ。


 彼らに感謝することが正しいとは言えない。でもわたしは、二人に向かって深く頭を下げていた。

「ありがとうございました」

 奈緒ちゃんの手を返してもらえるなら素直にお礼を言わなければならない。これでわたしは、安心して奈緒ちゃんの手を愛でることができるのだから。


「まぁ、お礼を言われるほどじゃない、っていうか」

 吉村さんは何か気まずそうにして、声を小さくする。咲子さんが何か発言しようとしたが、彼はそれを手で制して黙らせる。

「小夜ちゃんには、実は謝らなきゃいけないことがある」

 ソファを立つ。咲子さんの前を横切り、テレビに近づく。


 テレビの後ろには、隠されるように小型の冷蔵庫が置いてあった。腰の位置にも届かないほどの小さなもの。それを引っ張り出すと、吉村さんはその上に手を添えた。

「ここに奈緒子ちゃんの手を保管していた。でも、咲子さんを呼んだ初日、カレーに使うお肉が無くてね。」

 それが何を指すのか、まだ何の予測も浮かんでこない。それなのにわたしの手は羽織ったパーカーのポケットに差し入れられていた。

「ちょっと拝借しちゃったのね。そしたらもうびっくり、これが案外美味しくって。さっきさ、最近毎日がカレーだったって話したよね」

 言うと、彼は取り繕った微笑を咲子さんに向けた。それに合わせるように彼女も薄く愛想笑う。

「食べちゃったんだよね。奈緒子ちゃんの手、全部」


 冷蔵庫上部の蓋が開かれる。そこには空洞があり、紅色の痕跡がうっすらと残っているだけ。奈緒ちゃんの手がそこにあったという生々しい空虚感だけが横たわっていた。

 全身が凍り付く。逆に、頭は熱でいっぱいだった。ナイフの柄を握る力が増していく。奥歯が折れそうなほど歯噛みし、掠れた声で訊き返す。

「食べた……?」

 奈緒ちゃんの手。尊く価値のある手。人としての品格すら切り捨て、食人鬼と化してまで勝ち取った憧れの結晶。

「うん、ごめん。でも美味しかったよ。それに、これで君のこともっと理解してあげられるしね」


 ――ふざけんなっ!


 悲鳴を上げ、わたしはデスクチェアを蹴った。ナイフを抜き、吉村さん目掛けて駆け出す。

 彼まであと三歩という距離、突如何者かにナイフを持つ手を捕られ、わたしの身体は瞬間的に宙を舞った。あっけなくナイフを手離し、まともに肩から落下する。痛み以前に、何が起こったのか理解できずに当惑する。頭を上げようとしたが、やはり誰かの手によって叩くように床へと押しつけられた。片腕を嫌な角度で固定される。暴れようとしたけど、曲げられた肘が痛くて無闇に抵抗できなかった。


「止めといた方がいいよ。咲子さん、馬鹿みたいに強いから。柔道三段に合気道ニ段」

「吉村くんには敵いませんけど」

 背中に重しがかかる。かすかに見上げると、すぐ目の前に咲子さんの横顔があった。

「吉村くんのこと信用するなって、さっき言ったばっかなのに」

 拘束が解かれる。咲子さんは立ち上がり、服の埃を払った。伏せたままわたしは吉村さんへと顔を向ける。彼は足元のナイフを拾い上げて申し訳なさそうに言った。

「手のことで君がどれだけ怒るのか、試してみたくて。まさかここまでなんて」

 嘘を吐かれたことへの怒りより、多大な羞恥心がわたしをおそった。奈緒ちゃんの手に対する執着をじかに見られて、恥ずかしさでこの場を逃げ出したくなる。わたしは人の肉を欲する人外的な生き物なのだと、自意識の醜悪さをさらけ出したようなものだったのだから。


「本当のことを言えば、奈緒子ちゃんの手は他の場所に保管してある」

「他の場所……?」

「恐らく君も、そこに保管しようと考えたはずだ」


 彼の言葉は確信に満ちていた。とてもはったりを宣っているように思えない。でもどうして、吉村さんがあの場所を知っているんだろう。

 咲子さんはソファで新しい飴を口に含んでいた。吉村さんも彼女の向かいのソファへと腰掛ける。ナイフがテーブルの中央付近に置かれた。

「好きなところに座って。もう少しだけ、君から聞き出したいことがある」

 おずおずと身体を起こす。肘の痛みはほとんど残っていない。それがちょっと不思議だったけど、わたしは大人しく咲子さんの隣に座った。


 しばらくの沈黙の末、吉村さんが口火を切る。

「実は小夜ちゃんのこと、色々と調べさせてもらった」

 意表を衝かれ、抗議しかけた口を閉じる。彼らがわたしの考えた保管場所に検討をつけ、そこに運んだということは、もう全てに気付いているのだろう。

「表沙汰にはなっていないみたいけど、君のお母さんはニュースキャスターをやっていたそうだね。それも全国的に有名な、半分、タレントのような活動まで兼ねていた」

 ゆっくりとうなずき、肯定する。

「しかし七年前のある日、彼女は忽然と姿を消した。それも、そこに居たという形跡すらないほど鮮やかに」

 それ以上の核心に触れず、吉村さんは閉口する。わたしのそばにコーヒーのマグカップが寄せられる。咲子さんからだった。まだ口つけてないよ、と彼女は言う。


 吉村さんが次の事実確認を取る。

「次に、君のお父さんのことについて。不躾なことを訊くけど、君のお父さん、事故で片足を失くしたんだってね。一般車道で車を運転していて、大型トラックと前面衝突したって話だけど」

 黙って首を縦に振る。

「君もその車に乗っていたというのは?」

「たしかです」

「だったら不可解だ」

 吉村さんは太ももに両肘を乗せ、両指を絡ませた。真剣な目でわたしを見据える。

「君が保護されたのは、事故現場から二百メートルも離れた河川敷の一角だったそうじゃないか」

 どうしてこの二人がそのことを知っているのか、わたしとしてはそちらの方が不可解だけど、事実は事実なので否定できない。わたしは今まで通りの常套句で回答する。

「事故があってすぐのことで、当時のわたしは幼かったし、ほぼ無傷の状態だったし、その場に居るのが怖くなって逃げただけです」

「普通に考えればそうだね」

 普通に考えれば、たぶんそう。だけどこの二人は連想づけたのだろう。八年前のお母さんの失踪と、五年前のお父さんの事故とを。


「この二つの件について、咲子さんが面白い推理を立てていてね。僕のような想像力の乏しい者からすれば、怖気のするような推理だけど。残酷だけど、君が話してくれないなら、咲子さんから語ってもらうよ」

「結構です」

 わたしは咲子さんの無表情を一瞥し、きっぱりと言い放つ。

「二人の想像は間違いなさそうなので、それならこの際、わたしが本当のことを話します」マグカップを傾け、息を整えて続ける。「ただし、このことは口外しないでもらえると、ありがたいんですけど」

「もちろん、三人だけの内緒にする。分かった? 咲子さん」

 吉村さんに同意を向けられ、咲子さんは当然というようにうなずく。


 わたしはもう一度コーヒーを飲んだ。強烈な苦みの中に、ほんのりとシロップの甘味がする。ぜんぜん違うけど、味わいとしては若干あれと似ている。

 鈍色の光を放つナイフへと視線と落とし、わたしは口を開いた。

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