二話 暗転
奈緒ちゃんという女の子は、わたしのお母さんの次に完璧な人物だと思う。
今まで倉田塾の中でしか関わりはなかったけれど、塾のテストはほぼ満点だし、いつも成績上位にいるし、見た目だって結構かわいい。なにより一番に、彼女はピアノの天才だ。
三歳で初めて鍵盤を叩き、彼女は当時九歳で世間からの注目を浴びた。大人にだって習得困難な曲を難なく弾いてみせ、九歳にして旋律に感情を乗せる技術を見い出していた。
わたしがもっとも奈緒ちゃんに注目したのは、あの小枝のように長くほっそりとした色白な指である。
演奏自体もそうだけど、テレビで奈緒ちゃんを見かけるたびに、彼女の手元に見とれた。奈緒ちゃん本人には言ってないけど、実はわたし、ずっと幼いころから奈緒ちゃんを知っていたのだ。
彼女と初めて塾で顔を合わせたとき、わたしは表では平常を装いながらも、内心どきどきしっぱなしだった。あの憧れの女の子のそばに居られるなんて。その日の晩は本当に、興奮して中々寝付けなかった。
ピアノの演奏会が終わって、わたしと奈緒ちゃんはゲームセンターでプリクラを撮った。奈緒ちゃんのママが「私も混ぜて」って言ってきたけど、奈緒ちゃんが、
「小夜ちゃんと二人っきりがいいの」
ってきっぱりと断ってくれた。
家に帰ってからも、わたしはずっと、奈緒ちゃんと一緒に撮ったプリクラを眺めていた。
奈緒ちゃんが、写真の中でピースしていたのである。
ピアノ経験者がピースをするとき、普通の人では見られないくらい、人差し指と中指が、ぐんっ、と特徴的に開く。奈緒ちゃんは身長こそ低いものの、その分、指は長くて筋肉も柔らかかった。
奈緒ちゃんの作るひどく鈍角なVサインを見つめながら、わたしはにやにやしたまま目を閉じた。目を閉じると、奈緒ちゃんの演奏が頭の中で流れた。もちろん、せわしなく動く両手の映像つきだ。あの素敵な指先が、あの素敵な演奏を創り出す。なんて尊く、なんて価値のある手なのだろう。
奈緒ちゃんが完璧じゃないと知ったのは、それから数日後のことだった。
わたしはその日、学校を終えて急いで塾に走った。授業が始まるまで、教室で奈緒ちゃんとゆっくりお話したいと思っていた。
教室に入ったけれど、奈緒ちゃんはまだ来ていなかった。他の子もほとんど居なかったし、わたしが早く来すぎただけなんだと思い、わたしはひとまずトイレで時間をつぶすことにした。教室内では携帯をいじっちゃいけないので、トイレの中で奈緒ちゃんにメールを打とうと思ったのだ。
しかし、わたしはトイレの入り口前で足を止めた。中から、奈緒ちゃんと他の子たちの会話が聞こえたのである。
そのときの彼女たちの会話は、今となってはもう、うまく思い出すことも出来ない。しかし、わたしの陰口を言っているのだということは、会話の内容自体より、身体の芯に響いてよく染み込んだ。だって、陰口の話題提供が、奈緒ちゃんだったからだ。
「笑っちゃう。あの子、チケット渡しただけで赤くなっちゃうのよ」
わたしってそんなに赤くなっていたかな、と首を傾げる。
「私、ただ自慢したいだけだったんだけどなぁ」
奈緒ちゃんって、これ以上なにを他人に自慢することがあるんだろ。
「やだぁ、やめてよ気持ち悪い。私、女なんかに興味ないわ」
わたし、そんなんじゃないのに。
「そういえば知ってる? あの子が公立に通ってるのって、中学受験の時期に精神病院に入ってたからなんだって」
それは内緒にしてって約束したのに、なんでばらしちゃうかなぁ。
「あ、ていうか。あの子がいくら頑張っても、私立なんか到底無理だったんだよね」
わたしは。
「あれだけ勉強して、未だに塾内で学力底辺だし」
わたし……。
世界が暗転して、何も考えられなくなって、それでも頭の片隅に、奈緒ちゃんの手があった。
暗闇の中で奈緒ちゃんの手の感触を思い出すと、わたしはいくらでも開き直ることができた。いくらでも大丈夫だと思えた。今まで怖いと思っていたものも、しだいに薄れていく気がした。
教室に戻ると、しばらくして青木先生の英語の授業が始まった。わたしはやはり授業など聞かず、教材のページに描かれた桃太郎の絵を眺めた。
鬼ヶ島から追放されてしまう悲運な鬼たち。彼らはしくじったのだ。鬼ヶ島さえ見つからなければ追い出されることもなかった。自分が鬼であるということを隠さなかったから、こうなったんだ。
わたしなら、もっとうまくやってみせる。
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