一話 鬼ヶ島

 早く終わんないかな、とわたしは思った。


 ホワイトボードにペンを立てながら、青木先生が大げさに英単語のジェスチャーをした。その発音がやけに耳障りで、わたしは授業を聞くふりをして、そっと英語の教材へと目を落とす。

 桃太郎の和訳問題だ。もう中学三年生の春なのに、どうして一年のときの復習なんかするんだろう。


「高校受験の対策前に、まず基礎を固めておきましょう」


 一週間前、青木先生がそう告げたとき、教室内が一気にしらけていくのが分かった。よもや、偏差値六十五以上の生徒が集まるこの倉田塾で、しかもそれぞれ親から高い授業料まで出してもらっているのに、それはないよ。

 基礎なんてたぶん、少なくともわたしの塾内の友達はみんな、じんましんや汗疹が出るまでやり尽くしたと思う。わたしだってその一人だ。


「おぅが」


 青木先生が口をとんがらせて発音した。いらいらして、思わずシャーペンをへし折りたくなったけど、私はぐっと我慢した。


 教材のあるページに描かれた赤鬼の絵を見つめる。桃太郎に追いかけられ、赤鬼は半泣きで金棒をほっぽり出している。

 そんな赤鬼の姿に、わたしは得も知れぬ不安感を抱く。どうして鬼は、鬼ヶ島から追い出されなくちゃいけないのか。どうして鬼は、鬼であるという理由だけで退治されなくちゃいけないのか。それを考えると、ほんとうに身も凍る思いだった。


 わたしはこの塾にいるあいだ中ずっと、この赤鬼みたいにならないよう、頑張ってきた。

 何故なら、鬼とはつまり、周りから外れた人物だからだ。周りから外れるというのは環境や条件によって様々だけど、この倉田塾においてはただ一点、鬼とは勉強についていけなくなった生徒のことを指す。


 鬼になった者は得てして迫害を受ける。実際、現代社会でそこまで露骨な迫害なんてあり得ないけど、言葉や行動で示さない迫害というのは確かに存在する。

 具体的に言えば、周りから見下されたり、それとなく仲間外れにあっちゃったりするわけだ。勉強が出来ないという事は、イコール駄目な人ってことで、いや、もはや人として扱ってくれないのかも。これは大げさなんかじゃない。だって、塾って学校とは違って、先生たちに義務や責任がない。出来ない子は、もういいや、はい、先に進みますよって。それでおしまい。


 青木先生の授業を受けていて、ふとわたしは、ある別の不安を抱き始めていた。

 この下らない基礎復習の間に、もし他の子に差をつけられちゃったら。

 わたしはページをめくった。どんどんめくっていって、やがて、高校一年の終盤あたりの頁まで到達させた。シャーペンを持って、うんうん唸ってみる。高校英語はやっぱりレベルが高くて、文法の応用も中学英語とは裾野が段違いだった。分からないところもいっぱいあったけれど、でも、自力でここまで頑張ってみせた。


 でも、どうだろう。わたしより頑張ってる子なんて、本当はいっぱい居るんだろうな。

 わたしはぎゅっと目をつむり、ネガティブな妄想を振り払うことに躍起になる。

 こうやって安易に他人と比べても意味ないよ。わたしにはわたしのペースが、


「えー、じゃあここ。三崎」


 名前を呼ばれ、ぎょっとして顔を上げる。青木先生がきょとんと首を傾げた。

「どうした、はやく訳してくれ」

 わたしは固まってしまった。だって、授業なんてぜんぜん聞いていなかった。そんなわたしの様子に青木先生は眉をひそめる。突然遠目になって、わたしが開く高一英語のページを舐めるように見た。

「お前だけじゃないか? そんなに焦って前に進もうとするやつは」

 わたしはしばし呆然としたが、すぐに顔を下に向けた。周りの子たちの、迷惑そうな視線を感じたからだ。これじゃあ、わたしを馬鹿にして笑ってくれた方がよっぽどましだ。


 なにごともなく授業が再開される。みんなの集めた視線の幻影が、瞼の裏に張り付くかのようだった。

 恥ずかしい、消えてしまいたい、純粋にそう思った。

 我慢できなくなって、わたしは先生の目を盗んで、そっと席を離れた。隣の席の子たちがわたしの挙動をまじまじと見てきたが、知らんぷりを決め込んだ。

 廊下に出て、急いでトイレに走った。




 外れるのが恐いばっかりに、なんて醜態をさらしてしまったのだろう。

 トイレの個室内でうずくまり、わたしは頭を抱えた。この塾にいる限り、いつもこれの繰り返しだ。焦りと先走りと自己嫌悪の連続。それで結局、わたしは何も身につけずに終わってしまう。このままじゃ、あのときと同じになる。

 中学受験のときみたいに、また墓穴を掘ってしまうんだ。


 そのとき、個室のドアがこんこんと叩かれた。無視したけど、ノックはしつこく鳴らされた。

 諦めてわたしはドアを開錠し、ドアノブに手をかける。

 開けてみると、そこに居たのは、なんと奈緒ちゃんだった。

「大丈夫? 小夜ちゃん」

 わたしは真っ赤になって何も言えなかった。奈緒ちゃんは肩をすくめ、呆れるような仕草をした。

「さっきのなんて、気にしない方がいいよ。悪いのは青木先生なんだから。今さら中一の復習でしょ。あれで焦るなっていう方がおかしいのよ」

「奈緒ちゃんもそう思う?」

 わたしはうれしくなって、奈緒ちゃんの手を取った。白くて弾力があって、わたしの大好きな奈緒ちゃんの手だ。

「私だってかなり焦ってるもん。小夜ちゃんほどじゃないけど、私だって勉強頑張ってるのよ」

 奈緒ちゃんがわたしの手を握り返してくれて、私はうれしさのあまり、立ちくらみしそうになった。それがばれないように足下をこらえて立ちなおす。

「そんな、わたしなんて……」

「謙遜しないでよ。小夜ちゃんは誰よりも努力しているじゃない。この前の模試は、私のまぐれ勝ちだったけど、あなたの頑張り具合は教室内でも恐れられているのよ」

 奈緒ちゃんはこうして、わざと話を大きくしてお世辞を言ってくる。それがうれしかったり、ときどき嫌味に聞こえたりするけれど、今のわたしの頭にお世辞なんて言葉は浮かばなかった。


 わたしはそっと、握られた手を見下ろす。奈緒ちゃんの、寒気を覚えるほど美しい指の形状を見つめた。


「そうだ、小夜ちゃんに渡したいものがあったんだ」

 奈緒ちゃんが手を離した。口惜しかったけど、彼女がポケットから出したものを見た瞬間、わたしの意識は完全にそちらに向いた。

「私が今度出演する、演奏会のチケット。小夜ちゃんのために、ママが委員会に掛けあって手配してくれたのよ」

 わたしは渡されたチケットを持ったまま硬直した。記載された座席位置が、最前列の待遇席だったのだ。奈緒ちゃんは照れ笑いをして、わたしの肩をぽんと叩いた。

「何を驚いているのよ。私たち、親友でしょ?」

 くさいことを言ったのが恥ずかしくなったのか、奈緒ちゃんはくるりと回って背中を見せた。絶対来てよね、そうつぶやくと、一目散にトイレを出ていった。


 わたしはチケットを広げたまま、しばらくその場を動くことが出来なかった。

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