第2章 謎の偽毛連盟
「で、翌朝、約束どおり
そこには、グリーンバックと呼ばれる背景合成用の緑色のスクリーンが張られ、カメラマンやメイクさんがスタンバイしています。桂さんは用意されていた衣装――洒落たスーツでした――に着替え、メイクをしてもらうと、グリーンバックの前に置かれた、これまた洒落た椅子に座らされました。そして千田部長が持って来たウィッグ、つまりカツラですね、それを被せられ、ちょっとしたポーズを取るよう指示をされ、撮影が始まりました。
数十分掛けて何十枚も写真を撮られると、千田部長はまた別のウィッグを持って来て、桂さんはそれに換装して撮影は続きます。ウィッグは何種類も用意され、その中には、まさに〈カツラ〉と呼ぶに相応しい、時代劇に使う
初日の撮影は、ほぼ応募要項どおりだった午前十一時に終了しました。日当の三万円は、これも昨日の約束どおり、その場で取っ払いで支給され、次の撮影は明後日になると聞かされて桂さんは事務所を出ました。
桂さんが店に戻ってバイトに店の様子を訊くと、やはり午前中のお客は片手に余る程度しかこなかったそうです。この店の売上げが上がらない時間帯に、いいバイトを手に出来たものだと桂さんは喜びました。
二日が経ち、次の撮影日になったので、桂さんはまた〈ウィグリーグ〉事務所兼スタジオに出向き、前と同じように撮影に時間が費やされました。今度も時間は午前八時から十一時まできっかり。日当の三万円も貰い、次の撮影はまた一日置いて明後日に決まります。そんな生活が二週間ほど続いた、ある日のことでした」
私は「来たぞ」と思った。この事件(まだ事件化したわけではないのだが)が「あれ」のコピーであるなら、保志枝の口調が変わったここで、あの展開が来るはずだ。横目で窺うと、やはり何かを期待しているような表情の
「撮影日、いつものように桂さんはバスに揺られて〈ウィグリーグ〉事務所に出向きました。ところが、ドアはしめきりで鍵までかってあり、ドアの磨りガラスの中央に、小さな四角いコピー紙がテープで貼り付けてありました。桂さんが撮影したその紙の写真データをコピーさせてもらってきました。これです。まア読んでごらんなさい」
保志枝はそういって、携帯電話を操作すると、画面に画像データを表示させて私たちにさしだした。それにはつぎのごとく書かれてある。
ウィグリーグは解散した。20XX年 XX月 XX日。
この簡単な一片の発表書と、案の定訪れた予想を裏切らない展開に、私と理真は顔を見合わせると、こらえきれずに二人はドッとふきだしてしまった。
「『これは驚いた! 何がそんなにおかしいですか?』
私もこれを見せられたとき、理真先輩、
携帯電話をしまい、そのときのことを思い出したのか保志枝も、にやにやと笑みを浮かべてから、
「事務所はもぬけの殻で、そのビルを管理する会社に問い合わせたら、そのフロアは通販業者が仮事務所として数週間借りていただけだと言われ、契約書に書かれた社名も〈ウィグリーグ〉などというものではなかったそうです。登記簿を確認しようとしたのですが、そんな通販業者は存在せず、管理会社に残されていた連絡先もまったくのデタラメでした。当然、〈ウィグリーグ〉も存在しない、まったく架空の名前だったようです。〈ウィグリーグ〉は突然〈トンズラ〉してしまったわけです。〈ヅラ〉だけに」
やかましいわ。
「どうですか、理真先輩。このおかしな出来事、気になりません? 私が理真先輩と由宇先輩のもとを訪れたのはですね、この謎をぜひとも解き明かしていただきたいと、そういう思いもあったのですよ」
「
「えっ? 関越自動車道にあるサービスエリアの?」
「それは
「赤毛連盟」それは、名探偵界最大のレジェンド、シャーロック・ホームズの手掛けた余りに有名な事件の名前だ(「赤毛組合」などとされている翻訳もある)。
燃えるような赤毛を持つ質屋の男が、雇い入れている従業員に「赤毛連盟に欠員が出た」という知らせを教えられ、募集の新聞広告をもとに「赤毛連盟」の事務所を訪れて見事採用され、毎日午前十時から午後二時までの間、ひたすら『大英百科事典』を書き写すという仕事に従事するようになる。そんな生活が続いた八週後のこと、いつものように事務所に出勤した質屋の男は、事務所のドアに「赤毛連盟は解散する」と書かれた紙が留めてあるのを見つけ、連盟の関係者とも一切連絡が取れなくなってしまう。この奇妙な話の謎を解決してもらおうと、ホームズのもとを訪れるという話だ。
「なんですかそれ。まさに桂さんの身に起きた出来事とそっくりじゃありませんか」
保志枝は驚きを隠さない。偉大な大先輩が解決した事件にあやかるなら、今回のこれは「
理真が持つもうひとつの顔、それは素人探偵だ。巷間で起きる不可能犯罪に対して、警察に協力して捜査を行い解決に導くというあれだ。理真が探偵として事件に赴く際、ほとんどの場合、私も助手、つまりワトソンとして一緒に行動しているのだ。
「赤毛連盟」の話を保志枝に聞かせ終えた理真は、「その桂さんが経営している商店には、地下室はある?」
「そんなのありませんよ。二階建ての店舗兼住居です」
「だよね。でも一応、お店がどんなところにあるかも訊いておきたいんだけど」
「典型的な小さな町の商店街の一角ですよ」
「近くに銀行とか、美術商とか、何か現金や高価なものを取り扱ってる場所なんかはない?」
「そんなのもありませんでしたよ。両隣は和菓子屋さんとクリーニング屋さんで、裏は駐車場です。道路を挟んだ向かいは本屋さんでしたね」
どうやら、理真が現地まで赴いて、ステッキで道路を突いてみる必要はなさそうだ。
「……何なんだろう?」理真は顎に手を当てて、しばらく考え込んで、「ねえ、琉香ちゃん、そもそも、桂さん――仮名なわけだけど――には、どんな用事で取材をしたの?」
「……ですからそれは言えないんです。そんな簡単に取材先の情報を漏らしたら、記者としての
「それは分かるわ。でも、この変な出来事が何かしら犯罪性のある事件に繋がっていないとも限らないわよ。もしかしたら、桂さんの身に危険が迫ってるという可能性も」
「えっ? まじですか?」
「ゼロじゃないでしょ。私も、もちろん由宇も、絶対に誰にも喋らないから、桂さんのことを教えて」
「うーん……」今度は保志枝が腕組みをして考え込んだ。難しい顔をして、頭が床に着くのではないかというくらいに首を傾げた保志枝は、「分かりました。他ならぬ理真先輩と由宇先輩の頼みです!」
振り子のように頭を振り戻した。
神奈川県の保養地に居を構え、いくつもの会社を所有する、さる老齢の資産家が先日病死した。
その資産家は生涯独身であったが、若い頃に家に住み込みで働いていた同年代の家政婦と恋仲になっていた時期があったという。だが、彼の家は代々続く資産家であり、未だ異様に家名を重んじるような旧態然とした家風に支配されていた。そのため、次期当主と家政婦という身分違いの恋を実らせることは出来るはずもなく、いち早くそれを察した家政婦は、資産家に何も告げないまま彼の前から姿を消したのだった。
彼にはひとりの弟がいた。この弟というのは、商売の才覚では兄に劣るが、とにかく法に触れるすれすれのことにも平気で手を染めるというタイプの男で、それが理由で兄弟の仲は険悪なものがあったという。資産家は生涯妻も子も持たなかったため、彼が亡くなれば当然、その財産は弟が相続することとなる。
が、資産家が亡くなったその日、彼が懇意にして信頼を置いていた弁護士が弟の前に現れ、「お兄さんから預かっている遺書がある」と告げた。そこには、
「若い頃に自分は、恋仲になっていた家政婦と別れる直前に肉体の関係を持った。そのため、家政婦と自分との間に子供が生まれている可能性がある。それが確認出来れば、自分はその子供を認知して、彼女とその子供を遺産相続人とする」
という旨が書かれていた。同時に弁護士は故人から依頼を受けており、彼が死亡した瞬間から、その家政婦の行方を探り、資産家との間に出来た子供の有無を確認することになっていたという。
ただ、その家政婦は当時の主人――資産家の父――だけに挨拶をして逃げるように辞めており、それからすぐに、恐らく資産家が彼女を追うことが出来ないよう、名前も変えさせられ、さらには、当時の家政婦仲間にも彼女の生まれ故郷を知るものはおらず、行方を追うための手掛かりが極めて少ない状況なのだという。
弁護士は数名の探偵やフリーライターを雇い、家政婦の足取り、さらに子供の有無を調査させた。その仕事を受けたライターのひとりが保志枝によく仕事を廻してくれる先輩で、保志枝は「孫請け」として先輩の仕事を手伝うことになったという。そして、その家政婦の息子という可能性のある男性が、新潟で小さな商店を営んでいるという情報を入手した。だがそれは、幾分か信憑性のない噂レベルの情報であったため、先輩ライターはその男性の調査及び取材を下請けの保志枝に任せることにし、保志枝は新潟へ飛んだのだった。
「で、琉香ちゃん、結果はどうだったの?」
「桂さんに訊いた話によれば、桂さんのお母様は、故郷はおろか、過去のことを息子である自分にほとんど話してくれないまま、数年前に亡くなってしまわれたそうです。母ひとり、子ひとりで、随分と苦労して桂さんを育ててくれたため、満足な親孝行も出来なかったと桂さんは悔んでいました。まあ、その話は置いておいて、お母様と桂さん自身の年齢を聞いたところによると、年代的にはほぼぴたりと合うんですよ。しかも、お母様は関東方面、とくに神奈川の地理に詳しかったそうです。ですから〈要継続調査〉ということで先輩に連絡を送っています。もし他に有力な候補が見つからなければ、弁護士さんが派遣する法科学チームが桂さんを訪れて、本人承諾のもと頬の内側粘膜の採取させてもらって、DNA鑑定に掛けてみるそうです。繊細な問題のため、かなりの確証も持てないまま、あまり不用意に桂さんに協力を要請するのははばかられるということで」
「DNA鑑定……」
理真は右手人差し指で下唇に触れた。これは彼女が考え事、それも極めて真相に近い段階での考え事をするときに見せる癖だ。
「琉香ちゃん」黙考から復帰した理真は、「桂さんの本名と住所を教えて」
「えっ? どうしたんですか?」
「警察に保護を求めるわ。桂さんが危ないかもしれない」
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