それでもこの冷えた手が

久藤さえ

それでもこの冷えた手が

 結香は掃除の手を止めて、ぱらぱらと門を出ていく生徒達を窓から眺めていた。

 ガラリと部室のドアが開く音に振り返ると、入ってきたのは部長の春菜だった。

「結香ちゃん、まだ掃除してくれていたの。他の一年生は?」

「ゴミ捨てに行って、そのまま帰りました」

「ひどいわね、一人に片付けを押しつけて」

「いえ、私が自分で残るって言ったんです。手をつけちゃった棚の整理があと少しで終わりそうだったので」

 結香は窓際の棚に目をやった。強豪と言われるこの演劇部が、様々なコンクールで入賞した際の盾やトロフィーがたくさん並んでいる。

「じゃあ、私も手伝うわ」

「そんな、春菜先輩にこんな片付けなんてさせられません。気にしないで先に帰ってください」

「二人でやった方が早く終わるでしょう。これは奥から並べればいいかしら?」

「はい……」

 スッとすぐ隣に春菜がやってきて、結香の心拍数は跳ね上がった。

 可憐な容姿とずば抜けた演技力を持ち、演劇部のみならず学校内でカリスマ的な存在である春菜は、いつもたくさんの友人や後輩に囲まれていて、二人きりで話したことは一度もなかった。

 初めて間近に見る、春菜の少し茶色がかった柔らかそうな髪や、頬に陰を落とす長い睫毛、細く白い指。たった二歳しか違わないのに、同じ学校の同じ部活に所属しているのに、先輩はまるで別世界の住人だと結香は思った。

 掃除をきりのいいところまでやろうと思ったのは本当だ。でも、部室に残っているのが春菜の鞄だけだと気がついて、もしかしたら、という気持ちが結香の中にあったのも本当だった。

 結香が必死で鼓動を抑えようとしていると、春菜が結香の顔をのぞきこんだ。

「結香ちゃん」

「は、はいっ」

「やっぱり結香ちゃんって、お姉さんととってもよく似ているのね」

「あ、昔からよく言われます。そっくりだって」

 よかった、変な子だと思われたんじゃなかった、と結香はホッとした。

 でも、なぜ先輩は急に姉の話を?

 結香と姉は、少し年が離れている。春菜先輩とも直接の知り合いではないと思うのだが。

 そんな結香の疑問を読み取ったように、春菜はほほえんで続けた。

「お姉さんもこの学校の卒業生で、在学中は演劇部に所属していらしたんでしょう。図書室の卒業アルバムで拝見したことがあるわ」

 そうよね、先輩は部長だもの、卒業生について色々と調べることだってあるはずだわ、と結香は心の中で頷いた。


 しばらく二人は黙々と棚の整理作業をした。その間も、結香の心臓は相変わらずバクバクしっぱなしだった。

 いったん取り出して埃を払った盾やトロフィーを、大きさごとに整理して、もう一度きちんと並べ直していく。

「うん、これでいいかしら」

「そうですね」

「ね、二人でやった方が早かったでしょう」

「はい。春菜先輩、ありがとうございました」

 夢のようだった二人きりの時間もこれで終わりか、と結香は思った。

 帰り支度を始めようとしたとき、春菜が言った。

「結香ちゃん、お願いがあるのだけど」

 その時、部室のドアがトントンとノックされた。

 はい、と答えると、ドアから顔をのぞかせたのは顧問の堤だった。

「有澤さん、ちょっといいですか。明日の練習のことなんですが」

 春菜はドアの方へ身を翻し、堤と練習についての相談を始めた。

 そんな春菜と堤の様子を見ながら、結香の脳裏には、校内での噂話がよぎった。

 演劇部部長にして、二年生の時から全ての上演作で主演を続けている春菜と、演劇部で上演する作品の脚本を手がけている顧問の堤。刺激の少ない小さな女子校では、美男美女の二人は格好の噂の的であった。

 二人が休日に一緒にカフェにいるところを見たとか、地元で知らない者はない名家である春菜の家で開かれたパーティーに堤が招かれていたとか、女子たちはそんな話を囁き合ってはきゃあきゃあと戯れていた。

 結香はその輪の中に積極的に加わることはせず、曖昧な笑みを浮かべてごまかしていた。だって、堤先生は――


「……ではよろしくお願いします。有澤さんも高橋さんも、あまり遅くならないように帰ってくださいね」

 相談を済ませると、堤はそう言い残して部室を出ていった。

「結香ちゃん、待たせてごめんなさいね」

「いえ、大丈夫です。さっき先輩が言いかけたお願いって、何ですか?」

「あのね、台詞の練習に少し付き合ってほしいの」

 春菜が手にしている台本は、先日から稽古を始めたばかりの新しい作品だった。

「そんな、私はまだ雑用と基礎トレしかやってませんから、先輩の練習相手なんてつとまりませんよ」

「私も役作りの途中だから、読み合わせくらいの気持ちで台本を手に持ってやってくれればいいのよ。ね、お願い」

 そう言われてしまうと、結香に断る理由はなかった。


 堤が書いたその新しい作品のタイトルは「それでもこの冷えた手が」。

 舞台は中世ヨーロッパを思わせる架空の国。主人公であるその国の姫を演じるのが春菜である。

 姫はこっそりと城を抜け出しているとき、偶然に出会った若者と一目で恋に落ちる。秘密の逢瀬を重ねて、愛を育む二人。一時は密会を咎められて会うことを禁じられるが、二人は一生懸命に周囲を説得し、ついに姫の父である国王にも許しを得て結婚する。

 しかし、その幸せも束の間、姫は病に冒され、あっけなくこの世を去ってしまう。悲しみに暮れる夫。姫は思い残すことがあまりに多かったためか、霊として夫の傍に居続ける。夫には霊となった姫の姿は見えず、声も聞こえない。こんなに近くにいるのに、夫に触れることも話しかけることもできず、見ていることしかできないと苦しむ姫。やがて、夫は月日とともに姫を失った悲しみから少しずつ立ち直り、自分を献身的に支えてくれた女性と想い合うようになる。夫は再婚し、新しい生活を始めるが、姫は夫をただ見守り続ける……というストーリーだ。


 前半の最後、姫が亡くなる場面まで読み合わせを進めたところで、春菜は「少し休憩しましょうか」と言った。

 二人はいったん椅子に座り、喉を潤した。

 やっぱり春菜先輩の演技はすごい、と結香は興奮していた。春菜についていくのが精一杯だが、どんどん自分の感覚が研ぎ澄まされていくようだった。

「ねえ、結香ちゃんは堤先生の書く脚本をどう思う?」

 と、不意に春菜が尋ねた。

「ええと、あまり奇抜な設定や派手なお話はないのかなと」

「そうね」

「だからこそ、役者の演技でストーリーに説得力と深みを持たせないと、きちんとした作品にならないので、難しいと思います」

「今回のお話もそうよね。私はこの姫を理解して、観る人に伝わるような演技をしないといけない。役者に要求するレベルが高くて、でもその要求に応えられれば、役者を最高に引き立てる脚本。私はこれからも堤先生の脚本で、演技がしたいと思うわ」

 結香はその言葉に少しひっかかりを感じた。春菜は三年生で、次が最後の公演になる。

「結香ちゃん、そろそろ続きを始めましょうか」

 春菜はにっこりと笑った。


 後半の場面は、夫役の台詞が少ない。夫には姫の霊が見えていないことを表現するため、姫の台詞が続く。

「ああ、それでもこの冷えた手が、もう一度だけでも、あなたに触れ、あなたを抱き締めることが出来たなら」

 春菜は台詞に合わせて、夫役の結香をそっと抱き締める。

 そこで、結香の耳元に春菜が囁いた。

「ねえ結香ちゃん、私ね、堤先生が好きなの」

 結香は突然の告白に驚き、言葉を発することもできない。

 でも春菜先輩、堤先生は、堤先生は――お姉ちゃんの婚約者なんです。

 固まったままの結香から少し体を離した春菜は、微笑みながら両手を結香の首にかけた。

「今度、ぜひお姉さんと一緒に、うちのティーパーティにいらして下さらない?」

 結香は、春菜の手がひんやりと冷たいのを感じながら、はい、と答えた。

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それでもこの冷えた手が 久藤さえ @sae_kudo

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