リアクト

第1話 7月30日

　アスファルトの上に座り込み、空を眺める。信号機の光は消えていて、堂々と車道を歩く人の波音の中に、警察官の声が拡声器を通して聞こえている。車道のアスファルトは、昼間の気温を十分に溜め込んでいるせいでまだまだ熱く、接している手と尻を温めてくる。座り始めた頃まだ明るかった空も、一時間以上も経つとすっかり暗くなってきて、しかしそれに反比例するように街の街灯がつき始め、景色はオレンジ色だった。

　その時一つ、ボンと音がした。そして立て続けに二つ三つと音がした。

　それは爆発音だった。

　車道に座り込む何百、何千という人々が、その音がした方の空を見る。

火薬の匂いが鼻先を掠める。

　その空に見えたのは、夏の夜の木漏れ火だった。

　右隣に座る千尋（ちひろ）を、彼女に気づかれないように少しだけ見る。浴衣姿の千尋は、同じ所に一秒と焦点を合わせてられないほど眩しくて、その整った横顔には、空に上がる花火の光が淡く反射していた。

「綺麗……」

　千尋が独り言のように呟いた。

「うん。でもあの木が若干邪魔だね」

「だね」

　俺らの見る方向には、街路樹があって、そのせいで低めに上がる花火はその陰となってしまっていた。けれど、木のシルエットと花火の組み合わせは、絵画を思わせる美しさがあるように思えた。

「でもさ、花火の木漏れ火ってなんか乙じゃない？」

　同じことを考えていたのが嬉しくて、ついにやけてしまう。

「そうだね……」

　その後さらに会話を続けようと思ったが、気の利いた言葉が思いつかないので、やめて花火を見ることにした。

　東京で最大規模のこの花火大会は、毎年七月の終わりに開催される。テレビ中継もされるため、これまで画面越しで見たことはあったが、実際に参加するのは今年が初めてだった。

　最初は部活の皆で来ることになっていたのだが、諒太（りょうた）と姫（ひめ）ちゃんの予定が合わず、千尋と二人きりで来ることとなってしまった。まあ、あの二人が余計な気を使った可能性もあるが、ヘタレな俺にこんなチャンスは勿体無いというものだ。

「あ、あれめっちゃ綺麗」

　千尋が言ったのは、空中で弾けた花火から赤、青、緑の光が飛び出し、それらが一瞬空中で止まった後、一気に放射状に加速するという変わった花火だった。

「凄いね」

　そんなことを言いながら、俺は心の中で、アイアンマンみたいだなと思っていた。

　今年もこの時期が来たか。

夏の夜空に花火を見ると、人々はそう感じると思う。それは、能動的に花火大会に行った時もそうだろうし、たまたま外を歩いていて受動的に花火を見た場合もそうだろう。

　つまり、花火は一年のサイクルを感じさせてくれる、もっと言えば、日常を感じさせてくれるものなんだと思う。

　けれど、街は、車道を一部通行止めにし、そこに人々が座り込み、信号機は消灯し、警察官が人の波を誘導している。ビルの合間には煙が立ち込め、あたかも霧に包まれたかのようになる。いつもの何十倍もの人が通りに出て、皆が一様に空を見上げる。

　その光景は、日常というよりも非日常だ。ＵＦＯか何かが地球に攻めてきたら、きっとこんな様子になるのだろう。

　しかし、その非日常こそが人に日常を感じさせてくれる。

　繰り返すだけの日々には、人に日常の平和さを感じさせる力がほとんどないのだ。

　そんなことを考えていた時、ひときわ大きな音がした。その音から予想された通り、空に咲いた黄金色の花は、これまでの花火よりもずっと大きかった。咲き終わった花火は火花となり、雨のように降り注ぐ。それは流星群のようで、つい、その一つ一つを目で追いたくなってしまう。ほとんどの火花が空中で消えていく中、他のより少し明るく見えた火花だけは、消えずに向こうのビルの陰に落ちていった。

「今の凄かったね」

　千尋がそう言いながら、こっちを向いた。

「うん。最後も綺麗だった」

　花火の感想には「綺麗」と「凄い」しか使ってはいけないルールでもあるかのように、俺たちも、そして俺たちの周りの人も、口に出す言葉は「綺麗」か「凄い」だけだった。

　そんなルールに乗じて、千尋に「凄く綺麗だね」と言ったらどうなるんだろうか。

　花火は上げてみないと分からない。どんな色でどんな形になるのかは、打ち上げてみてからじゃないと分からない。そしてそれは一瞬で消え、残らない。

　千尋の反応は、そして返事は、言ってみなければ分からない。でも、言わずして分かることができたらどんなにいいだろうか。過去にとらわれるなとよく言うけれど、俺らが本当にとらわれてるのは未来なのではないだろうか。正体不明の未来にとらわれて、自由に生きられなくなっているんじゃないだろうか。

　少なくとも俺はそうだ。だからこそ、俺は千尋に何も言わず、ただ黙ってまた空を見上げることしかできないのだ。