桶屋を儲からせる風は(桶屋5)

野良猫のらん

桶屋を儲からせる風は

注意欠陥多動性障害ADHD?」


 その一言に俺は首を傾げた。


「ああ。例えば……そうだね、今転がってきたこの紙切れなんかいいだろう」


 路地裏の暗がりから転がってきた紙切れを青年は拾いとる。


「普通の人ならこの紙切れを見て『ああ、ゴミだな』とか『お、何やら電話番号が書いてあるぞ』とかそれぐらいしか考えないだろう」


「ああ、俺もそんな風にしか思わない」


「だがADHDの者ならば、どうだ。『どうして電話番号が書いてあるんだろう』『路地裏に誰かいるとか?』『もしかして路地裏で秘密の取引があって……』『カレーのルーが欲しいだけの人が騙されて白い粉を買わされてたりとか!』『そして騙されたその人が怒って、相手の電話番号が書かれたを投げ捨てたに違いない』、こんな風にあっという間に思考の渦の中に飲み込まれる」


「それは流石に突拍子もなさすぎないか?」


 青年の口にした言葉の数々とその内容に少々呆れた。


「そんなことはないさ。例えば、こんな風に街中を歩くだけでもADHDの者には一苦労だ。俺たちならば街中を歩いていても、自分が何をしに何処へ行こうとしているのか、それだけを考えて歩くことができる。だがADHDの者は、街に溢れているありとあらゆるモノに思考を捕らわれる。例えば道路を絶え間なく通る車、遠くに見える看板、自転車を押して通り過ぎていく老人、神社の狛犬、私服の女子大生、スーツの男、ホームレス、エトセトラエトセトラ」


「それは俺たちだって多少は気になるだろう」


 大げさではないか。青年の言葉にそんな風に思う。

 今も笑い声を上げながら制服姿の女子高生が俺たちの横を通り過ぎるが、それが気になることを苦労と思ったことはない。

 車道を挟んだ向こうの歩道をランニングしているジャージ姿の男性も、歩きスマホをしていてそれにぶつかりそうになった女の子も。

 脳の容量を圧迫するほどの何かだとは思えない。


「そりゃ、『多少』はね。でもそんなの比ではないよ。ありとあらゆることが気になるこの特性は一種の才能を開花させることもある。君、例えばこんな推理をしたことはないか? ある男性が転んでその手荷物がぶちまけられた。内容はたくさんのじゃがいもやにんじん、何本かの牛乳、肉等々……。そしてその男性が一人暮らしであることは知っている。あれ、おかしいな。一人暮らしの人間が買う量か? ああ、この男はひったくりをしたんだなって。いや、そんな推理なんてしたことないだろうね! だって君は普通だから!」


 彼はこう言いたいらしい。

 ADHDの特性は名探偵を生むこともあると。

 確かに、普通の人間はそんなことまで気にならない。


 前方をぱたぱたと小学生が走っている。

 靴ひもが解けているのに気づいたのか、小学生がはたと立ち止まってしゃがむ。

 すると閉められていなかったランドセルの中身が地面の上にぶちまけられてしまう。何冊かの教科書、ノート、筆箱。

 もちろんそんなものを目にしたところで何の推理も思い浮かばない。

 俺は名探偵ではない。


「それで? 長々とそんな話をする意味はなんだ」


 俺はそんな話をするためにこの青年を尋ねたわけではなかったはずだ。

 さっさと本題を言えと暗に脅す。


「ADHDの思考というのはあの諺に似ているとは思わないか。ほら、突拍子もない事柄には実は繋がりがあるっていう」


「風が吹けば桶屋が儲かる、か?」


 我が意を得たりとばかりに青年は頷いた。


「ああ、そうとも! 僕は常々不思議だった。どうしてADHDの人間の脳を健常者へ近づける薬はあるのに、その逆はないのかって」


 青年の言葉に血の気が凍った。


「お前、まさか……」


「そうだ。僕の開発した『コクマロ』は気持ちよくなれるお薬として裏で流通し出してはいるが……繰り返し使っている内に、脳がADHDとそっくり同じ欠陥才能を持つようになる。嗚呼、僕は信じているんだよ。ADHDこそ人間の進化系だって。新人類だと。『コクマロ』によって全人類が空飛ぶ力士を見る日が来る! 素晴らしいことじゃないか、ははははは……!」


 青年の哄笑が道端に高く響く。

 その時、強風が吹く。

 まるで青年が強風を起こしているかのようだった。


「ああ、ああ、僕が『コクマロ』を使ってもADHD彼らと同じ思考になれないのが残念だね。だって僕は普通とも彼らとも違う、サイコパスだから!」


 こんな秘密、とてもじゃないが俺には抱えきれない。

 俺はただ単に最近裏で出回っている白い粉の開発者を突き止めただけのしがない普通の探偵なのだ。

 名探偵なんかじゃない。先週は家出猫のミーコを見つけ出したのが唯一の仕事だ。


「警察に通報するかい? いやいや、『コクマロ』からは違法な成分は検出されない。法的に何の罪も犯してない僕を逮捕することなどできないさ」


 青年は俺を振り返って、にこりと微笑む。


「分かったらさ、大人しく家に帰りなよ」


 そうするしかない。俺は大人しく踵を返す。


「ああ、そうだ!」


 まだ何かあるのか。


「この紙切れ、何処かに捨てておいてくれないか」


 青年は謎の電話番号が書かれた紙切れを、最後に俺に押し付けてきた。

 俺はその紙切れをくしゃりと握り締める。


 風が吹いて何屋が儲かるのかは知らないが、少なくともその風を起こしているのはこの青年なのだ。

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