貧乏長屋の事件帖

牡丹

第1話 女と金と厄介ごとと

 1.

「ふぁ〜ぁ……っと」

 遠慮のない大欠伸が、早朝の江戸の町に響いた。忙しなく行き交う商人あきんどやら駕籠かきやらに胡乱な目を向けられつつ、大欠伸の主——孫四郎まごしろうは頰をポリポリと搔き、フラフラした足取りで通りを歩いている。柄物の着物を着流しにし、総髪を後ろに流した姿は、朝の町では異彩を放っている。

「ったく、シケた場だったな」

 懐に入れた巾着の重さを確かめながら、誰にともなくぼやく。孫四郎は博打打ちだ。近頃は幕府の締め付けが厳しく、賭場がなかなか開かなかったり、客が少なかったりで思うように儲けられない。

「ま、でもこれでなんとか今月の店賃たなちんは……」

 賄えるな、と呟こうとした孫四郎の視線が、少し先の少し先にある木賃宿の門前に吸い寄せられた。


「あの……もし」

 楚々としたたたずまいの旅装の女が、おずおずと周りを見渡し、道行く人に声をかけようとしている。しかし、ただでさえ忙しい朝の町で、見ず知らずの女に構う人間などそうそういない。

 自分も同様に通り過ぎようと足を早めかけた孫四郎の視線を、女がしっかりと捉えてきた。

(う……しまった)

 面倒ごとの匂いがする。

「もし、そこのお方!」

 慌てて目を逸らしたがもう遅い。一仕事終えて緩んだ気がいけなかったのだ、と思うが、明らかに自分に向けて縋ってくる女を無碍にできるほど、孫四郎の心は強くない。

「……なんでぇ」

 せいぜいしかめっ面を作って振り向くが、意に介さず女は孫四郎に近寄ってくると、袖を掴んで畳みかけてきた。

「お頼みしたいことが、あるのでございます……! 不躾に申し訳ありませぬ、今朝江戸の町に着いたばかりで右も左もわからず、頼る相手もおりませんで、もうわたくしどうしたらよいやら……」

「なんだそりゃ、女の身ひとつで江戸まで出てきたってのかい。物騒だな」

「それが、その……いろいろと……」

 訳ありげに口をつぐみ、女はじっと孫四郎を見つめてきた。困り果てたような潤んだ瞳と、震える唇。

(おいおい、これじゃ俺が悪さをしてるみてーじゃねえか)

 ただでさえ、遊び人にしか見えない孫四郎である。このまま街角で押し問答をしていては、いかにも風体が悪い。

「訳ありか……ちょいと、そこの茶店にでも入って話を聞かせてもらうかね」

 話を聞くと言われ、女の目が輝く。自ら厄介ごとに首を突っ込んでいると知りながら、孫四郎は女を連れて茶店の暖簾をくぐった。

(店賃はまた次だな……)


 2.

「……で?」

「まぁその、なんだ……店賃ツケにしてくんねぇか」

 その日の午後。長屋に戻った孫四郎を待っていたのは、限りなく冷たい目をした長屋のおかみ、おみねの来襲だった。

「あんた、先月の店賃もまだ払ってないんだよ? いい加減にしておくれな」

「わかってらぁ。今日こそは払うつもりだったんだがなー」

「調子のいいこと言ってんじゃないよ」

「嘘じゃねーって」

「どうだかねえ」

 取りつく島のないお峰に、孫四郎は下手に出て頭を下げる。

「頼むよ。俺、三月みつき以上店賃をためたことはないだろ」

「三月ってねえ……うちは毎月毎月店賃いただかないとやってらんないんだけど」

 呆れた声でお峰がぼやく。その声から怒りの気配が減ったことに気づき、孫四郎はここぞとばかりに笑顔をお峰に向けた。

「頼む、な」

「まったく……」

 普段はどちらかといえば仏頂面の孫四郎だが、こうして笑うと八重歯がのぞいて存外可愛らしい表情になる。

(この笑顔に、どれだけの女がやられちまってるのかねえ)

 心の中でひとりごちて、お峰は長いため息をついた。

「来月。来月こそは必ず払ってもらうからね」

「そりゃあ、もう。もちろん」

 頷く孫四郎に呆れた眼差しを送りつつ、お峰は帳面に何やら書きつけをするとパタンと閉じた。

「じゃあ、来月。約定だよ。……で、今日払うはずだった銭はどこに消えたんだい」

「う……そ、それは」


 3.

 ——女と茶店に入ったあとのこと。

 ひとまず茶と、菓子なんぞを頼み、落ち着いたところで女はおもむろに話を切り出した。

「申し遅れました、わたくし、麻と申します」

「おあささんか。俺は四郎兵衛。四郎と呼んでくれ」

 何とは無しに本名を伝えなかったのは、孫四郎の癖のようなものだ。

「で、なんでまたあんなところで立ち往生してたんだ」

「それが……その、わたくし、兄を探しておりまして」

 ほらきた厄介ごとだ。という内心を隠し、孫四郎は眉をあげて話の続きを促す。

「兄は三年前から、伊勢は亀山、石川さまの江戸屋敷にご奉公に上がっていたのです。お仕えしてしばらくは便りをくれていたのですが、ここ半年ほどなんの音沙汰もなく……こちらの便りも届いているのかわからないようなことで、いてもたってもおられずに訪ねてきてしまったのです」

「なら、そのお屋敷に聞いてみりゃいいじゃねえか」

「一度はそうしたのですが……お屋敷の門番に聞いても、そのようなものは知らぬ、と門前払いで、まったく話にならぬのでございます」

「……妙な話だな」

「それで、どなたかそのお屋敷のご主人をご存知の方がおられないかと、藁をも掴む思いで……」

「そういうことなら、俺じゃ期待外れだな。見ての通り、お偉いお侍さんなんかにゃ縁がねえ」

 とっとと切り上げようとした孫四郎が腰を浮かすと、お麻は慌てて孫四郎の着物の袖を掴んだ。

「お待ちください!」

 急に袖をぐっと引かれ、体勢を崩した孫四郎に、お麻が顔を近づける。お武家のお嬢様にしてはいやに大胆に抜かれた襟元から、白くたおやかなうなじがのぞき、孫四郎は思わず息を呑んだ。

「おい……離してくれ」

「あ……! つい」

 お麻は顔を赤らめて手を離したが、縮めた距離は離さない。半ば孫四郎の胸に顔を埋める勢いで、震え声で訴えてきた。

「こんな無理をお頼みしては、いけないとは存じておりますが……、四郎さま、わたくし他に頼める方がいないのです」

(んなこたぁ、ねーだろーよ!)

 ……と、声に出して言えないところが孫四郎の甘いところで。

「わかったって……ま、ちと聞き回ってみるから。くれぐれも期待はしないでくれ」

「あ、ありがとうございます……! この御礼は、必ず……!」

 またもすがりついてきたお麻を、さりげなく振りほどくと孫四郎は今度こそ体勢を立て直し、改めてお麻に向き直る。

「じゃあ、お兄さんとやらの風体を教えてくれ。それと、何かわかったらどうやってあんたに知らせたらいいんだい」

「あの、今朝の宿はもう引き払ってしまったので、できれば十日後、同じ刻にまたこの茶店でお会いしたいのですが……」

「……わかった」


 4.

「……って、あんた」

 話を聞いたお峰は、今度こそ呆れ果てた声で孫四郎に詰め寄った。

「明らかにおかしい話じゃないか、だいたいなんで自分の居場所も教えないんだいその女は!?」

「まあ、俺もおかしいとは思ったんだが……なあ」

「十日後に茶店で、って、まんま逢引じゃないか。どうせまた女の色香にやられたんだろ……それで厄介ごとに巻き込まれるなんて、世話ぁないよ」

「そういうんじゃねえ、ただその……宿まで聞いちまったらそれはそれで面倒そうだろ」

「そりゃ、そうかもしれないけどねえ……」

 しかも、当面の路銀が尽きたと泣かれ、なけなしの稼ぎをいくばくか渡してしまったというのだから呆れ返る。

 まったく女に甘すぎる……という言葉を飲み込んだお峰が天を仰いだところへ、背後からぬっと入ってきた影がある。

「どうした、孫四郎どの。何かお困りごとかな」

「ややこしいのがもういっちょきたよ……」

 ひょっこりと孫四郎の長屋を覗き込んできたのは、隣に住む浪人の五郎左衛門ごろざえもんである。白髪混じりの総髪を大雑把に後ろでまとめた姿は、一見年老いた剣客のようにも見えるが、これでお峰や孫四郎よりも年若いというのが驚きだ。

「五郎左衛門の旦那か、ちょうどよかった。あんた石川家の江戸屋敷に、知り合いはいないかね」

「む? 生憎知らないが、何だね?」

「ちょいとあんた、五郎どんまで巻き込む気かい」

「俺よかまだ旦那の方がお侍さんには伝手があるだろうよ」

「ってより、本気で調べる気かね?」

「うーむ……」

 お峰に改めて聞き返され、孫四郎は渋面で顎をさすった。正直怪しげな話に関わりたくない気もするが、話を聞いてしまった行きがかり上やや興味もあるし、儲け話の芽がないわけでもないだろう、といったところだ。

 話が読めず、目をパチクリさせている五郎左衛門を後目に、お峰と孫四郎の視線の静かな戦いが続き……先に折れたのは、お峰の方だった。

「仕方ないねえ……まったく」

 一息ついて立ち上がり、ぱっぱと裾を払うと長屋を出て井戸の方へ向かう。

「長話になりそうだし、後であたしんとこに来な。夕飯でも食いながら話そう」

「おう、そうだな」

「待ってくれ、話が全然わからん」

「まあいいから、五郎どんは水汲み手伝っておくれ」

「うむ……?」

 要領を得ない顔のままお峰に引っ張られていく五郎左衛門を見送り、孫四郎は軽く吐息をつくと畳にごろりと横になった。

「俺も、夕刻まで一寝入りするとするか……」

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