⑤ 教育のためにはショック療法も必要だという提案


 翌日。今日はなんだか肌の調子がいい。心なしか笑顔になっている気がする。

 職員室で午後のためにちょっとした書類作成をしているときだ。


「斉藤先生、おはようございます」


 話しかけてきたのは石橋先生だ。俺はブラウスのボタンに向かって返事をした。


「ああ、おはようございます」


「なんだか、今日は楽しそうですね」


 石橋先生はそう言って「ふふっ」と笑った。朝からエンジェルに会えて俺は嬉しい。


「そうですか? そんなことないですよ」


「ふふ、でも良かった。先生、いつもちょっとしんどそうだったから」


 それは多分晩酌を引きずっているからだろう。エンジンがかかり始めるのはたいてい午後からだ。しかしそんな自分の不摂生が気遣いをさせてしまっていたとは。これは社会人として反省せねば。酒はやめないけど。


「すみません、ただ昨日はよく眠れまして、おかげでこの調子です」


 俺は肩の高さまで上げた右腕を折り曲げた。その二の腕は残念ながら隆起しない。


「元気で何よりです。では私は授業がありますので、また後で」


 先生はそう言って笑顔で職員室を出ていった。その胸に大切そうに抱かれた教材に、俺はなりたい。



 五月の中旬ともなると、十分に暑い。特に人が集う学校は顕著だ。生徒達の制服の衣替えもなし崩し的に行われているようだった。

 こうなると、着崩しだとかの校則違反が目についてくる。

 顧問を受け持つと、そこらへんの指導も求められるようになる。ゲーム部に所属する生徒の素行が悪いと、その顧問の監督責任が問われるわけだから、今までのようにクラスも何も持たず、授業だけをこなせば良かったのとは、責任のレベルが違う。

 これは愛をもって、あいつらに接してやらなくちゃな。

 しかし人間は不思議だ。睡眠不足が解消されるだけでこんなにも聖人君子的思考に傾いてくるとは。ビール片手にゲス顔でエロゲーをプレイする普段の俺とはまるで別人のようじゃないか。多分きっと別人だ。



 そんなことを考えながら部室の前に辿り着く。カギは既に開けられている。


「みんなおはよう」


 ガラッと戸を開けると、既に二名の生徒、櫻井美月と神崎悠珠が座っていた。

 夕方なのに「おはよう」はおかしくないですか、とかツッコミは要らない。


「おはよー、センセ」


「こんにちは斉藤先生、お疲れ様です」


 しかし、いや、案の定、二人には覇気がなかった。


「ん、どうした、二人とも、元気がないな」


 俺はわざとらしくそう言って奥の席についた。二人は心なしかゲッソリしている。アニメならその額に青いフィルターが掛けられていたことだろう。


「んー、そうかな、ははは……」


 美月は気だるそうに肩を揉んでいる。


「ところで、二人共、ゲームはやってきたか?」


 俺の発言に、二人の時間が止まる。


「ええ、やってきました。しっかりと、一時間……」


「うんあたしもー、ね、意外とすぐだったかなー……ねぇ? 悠珠」


「ええ? ええええ、面白いものですね、一時間なんて、本当、あっという間……」


 俺はニヤけそうな顔面を気合いで押しとどめる。


「そうか、思わずやりすぎて、睡眠不足になったりなんてしてないか?」


「睡眠は生徒にとって大切です。勉学に勤しむ者、そんな不摂生なことはしませんわ」


「そ、そうだよー。いくらあたし達だって、本分は勉強だもんねー」


 しかし次の俺の一言で、彼女達のその強がりはもろくも崩れ去る。


「……嫌な事件だったね……」


 その瞬間、美月は携帯を床に落とし、悠珠は肩を震わせ椅子が音を立てた。二人は凍りついたように動かない。


「ん、どうした二人共」


「……どうしたじゃないわよ……」


 弾けたように立ち上がって両手で机を叩きつけたのは美月だ。悠珠は頭を抱え込んでしまっている。


「何よあれ! ゲームって聞いてたからすっかり……。あああ! 騙された! あーそうよ、寝られなかったわよ! 言っとくけど怖かったからじゃないんだからね!」


「平和な話が続くかと思ったら、あんな恐ろしい展開が待っていたとは思いませんでしたわ。なんなんでしょう、あの感じ。怖くて今すぐやめたいのに、指が止まりませんでした」


「あんな胸糞悪い話だとは思わなかったよ!」


 俺は声を出して爆笑した。


『橙色の空、渡り鳥の君と』はその衝撃的な展開が話題となったノベルゲームだ。

 繰り広げられる萌え絵キャラの会話劇は、平和系日常ものを連想させるのだが、ある事実が判明すると、突如ホラーへとその様相を変える。豹変するキャラクター、次々と襲いかかる怪事件。そして謎が一つも解き明かされぬまま、プレイヤーは謎多き死を迎えるのだ。

 その非情な展開と明かされない謎にゲーマー界隈のコミュニティーが沸いた作品で、テレビアニメ化されると、その知名度は一気に高まった。

 しかし、この世代の子は知らないのだ。


「いやーすまん! 悪気はなかったんだよ」


「嘘つき! 絶対悪気あった!」


 そのとおり、嘘だ。オオアリでした。


「私達は先生を侮っていたようですわ。思えば、帰り際のあの笑顔は、何かを企んでいた表情だったのですね……」


 楽しみにしていたのは事実だが、そんな陰湿なものではなかったと思いたい。


「まぁまぁ、待て、俺はさすがにそこまで性格悪くないぞ。あくまで素敵なゲーム体験をしてもらいたかっただけなんだ」


「信じない!」


 美月は唇を尖らせて、ぷいっとそっぽを向いてしまった。大人びた雰囲気に対して、ところどころの行動は幼いのだった。そりゃそうか、つい先日まで中学生だったのだし。


「本当だって。考えてみてくれ。もし俺が、このゲームはホラーゲームだと伝えていたら、プレイしたか?」


 二人ははっとする。


「もし先の展開がバレていたら、あんなにワクワクしなかったんじゃないかな。予想だにしない展開に驚き、恐怖し、しかし先へ先へと指を運ぶ……。気がつけば深夜になっていた、なんて体験はできなかったんじゃないか」


「確かに……」


「そう言われると、そうかも……」


「大切なのはその数時間の密度だ。お前達は、俺がたった一文を読み上げただけで、ゲームの内容を鮮明に思い出した。それに比べて勉強はどうだ。授業で習ったことなんてすぐ忘れてしまうだろう? そうならないために予習・復習して、テストで確認して。それでも忘れ、応用がおぼつかない。だからそれを何度も反復する。でも、たった一度しかプレイしていないのに、ゲームの内容は鮮明に覚えている。ただ読み進むだけなのにもかかわらず、だ。この差はなんだと思う?」


 二人は黙りこくっている。

 そう、それこそが俺が伝えたかったことなのだ。


「その差はな、好奇心だ。人は好奇心を持って接したことはなかなか忘れない。ゲームはエンターテインメントだ。人の好奇心を煽るための工夫がされているから、同じ読み進めるだけの教科書とこれだけの差が出るんだ。これから先、争うことになるゲーム強豪共と渡り合っていくには、より質の高い体験をして吸収していかなくちゃならない。だから今回、こういう仕掛けをさせてもらった」


 全国の高校がゲーム部を立ち上げている。偏差値もまちまちで、それこそ勉強そっちのけのゲーマー共が集まる学校もあるだろう。長時間のプレイ経験を持つそんな連中を打ち負かすには、彼らより濃密かつ質の高い練習で経験値を上げる必要がある。


「俺はゲームを勉学と同じ目線で捉えてほしくなかったんだ」


 これはゲーマーとしての本心だ。


「先生のおっしゃることはわかりましたわ。しかし、具体的には何をすれば良いのでしょうか……」


「好奇心を持てって言われても、関心をコントロールするのって難しくない?」


 それを最も容易に実現する方法を俺は知っている。


「楽しめばいい」


 二人の純粋な瞳に、美しい彩りが宿る。


「ゲームはあんな素敵な体験をさせてくれるものなんだ、と、好意的に捉えてくれればそれでいい。そうやって楽しんでゲームをプレイしていれば、自ずと好きになってくる」


 若かりし俺を支えてくれたのもゲームだった。

 ゲームによる体験は人の心を豊かにする。俺はそう信じている。


「なんか、先生っぽい……」


 美月が頬を赤らめている。

 さすがにちょっとクサい演出だったかな、と恥ずかしくなった。やはり今日の俺はどうかしている。


「斉藤先生」


 立ち上がったのは悠珠だ。


「私、感動しました」


 胸の前で自分の手を握りしめる悠珠には謎のキラキラが纏わりついている。小動物みたいだ。


「正直なところ、生徒会長に頼まれたときは気が重たかったのです。勉学、生徒会、その上部活まで並立させられるのかと。でもこれなら私、続けられそうです。それも、楽しく!」


 なんと教師を持ち上げるのが上手い子だろうか。おじさんは感動して涙が出そうだ。出ないけど。


「これからもよろしく頼むよ。頑張ろうな、櫻井、神崎」


 二人の元気な返事が教室に響き渡った。

 もしかしたらこれは俺が教師として初めて味わう、教師としての喜びなのかもしれない。



 そんなときだった。


「すみません、誰かいますか」


 ノックとともに聞こえてきたのは、覚えのある男子生徒の声だった。


「はーい」


 そう言って立ち上がったのは美月だった。第二ボタンを留めるよう指導するより前に、美月は勢いよくその戸を開け放った。


「えーっと、ゲーム部の部室って、ここで合っていたかな」


 立っていたのは、イケメンだった。


「あ、斉藤先生。よかった、間違えてたらどうしようかと思って」


 その男子生徒の名は井出琢磨いでたくま。俺の担当する授業に出席している、学内屈指の爽やか系イケメンで、テニス部のエース。

 ―だった男だ。


「井出じゃないか。どうした?」



 後の競技ゲーム甲子園において、その甘いマスクで多くの女性ファンを獲得した生徒がいた。スポーツ、勉学、ゲームの並立を証明したその生徒は全国の男子を敵に回すことになる。


「僕も入部させてもらいたくて。ゲーム部に」


 ―小足こあしの貴公子。

 冷静沈着に相手の弱点を突くそのプレイスタイルで、多くの女子が憧憬を、男子が怨恨を持って呼んだ通り名だった。

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