スケッチ160629 牢の中の男性

トロンボーン入りハードケースを左手に持ち、「無印良品」で購入した黒のリュックを背負い、私は長野駅へと辿り着いた。

21:50あたりの電車を乗り過ごしてしまったので駅前近くのラーメン屋「るるも」に赴き、そこで背脂豚骨醤油脂マシを平らげた私のお腹はそこそこ満たされていた。


22:28現在、18:00頃に降っていた小雨も今は止んでいる。


右手には「NewDays」のレジ袋があり、両手が塞がっていた私は、松本長野往復切符を取り出すためにボーンケースを縦向きにして床に置いた。リュックの背中側のポケットから『ペンギン・ハイウェイ』を取り出し、栞がわりに332Pに挟んでいた松本長野往復切符の片割れ、復路の切符を取り出す。


と、そこで、一つの異変に気がついた。

自動改札機が並ぶ列の横にある窓から、駅員が体を乗り出しこちら側を覗いていた。しかも、一人ではなく、二人、三人と入れ替わりにこちら覗く。それは動物園でライオン鑑賞の順番待ちをする小学生のようだった。どうやら視線の先は私ではなく下の方にあるようで、私もその視線を辿る。

私よりも右側、一番窓に近い自動改札機の傍の床に、一人の男性が倒れていた。40歳半ばくらいだろうか、髪はほぼ全て白髪で、薄い青のシャツを羽織った役員風の男性だ。顔にはいくらか皺があるがまだ肌ツヤは失われていない。シャツにもいくらか皺があるが、これもまたハリが失われておらずツヤツヤしている。

彼は改札機横の格子にもたれかかるようにして寝ていたので、一目見たとき私は一瞬、彼が牢屋に閉じ込められているかのように見えた。それこそ動物園のライオンのように。「彼がいったい何をしたっていうんだろう」と不思議に思ったが、なんのことはなく、牢屋は私の幻覚で、男性はただ単に酔って座り込んでいるだけらしかった。しばらく様子を見ていると、やがて若い男性駅員がやってきて、男性をゆすりながらなにやら声をかけていた。例によって私はイヤホンをつけて嵐の「ファイトソング」を聴いていたので、会話の内容は判然としなかったが、やはり男性は酔っているだけらしかった。


私はトロンボーンケースを持ち上げ切符を改札機にスロットインし、男性の横を通り過ぎる。男性が気になり振り返ると、バッチリその男性と目が合った。思っていたとおり、男性の顔は少し赤らんでいた。男性が満面の笑みを見せたので、思わず私も微笑み返してしまう。その笑顔があまりにも純粋で赤ちゃんのようで、こんなふうに笑えるのなら酔うのも悪くないかもな、などと思考をめぐらせ、でも人に迷惑かけるのは嫌だからあんな酔い方はしたくないな、と思考を完結させた。


私は篠ノ井線のホームに行き、電車がやってくるまでの数分間、ボーンケースを縦向きに置いてリュックから『ペンギン・ハイウェイ』を取り出し読み耽った。

やがて電車がやってきて、私は向かいの扉近くの長椅子の端っこに腰を落ち着け、ボーンケースを縦向きに置いて足の間に挟み、また『ペンギン・ハイウェイ』を取り出した。電車が軋み、景色が左へ滑り出す。


そうして10分ほど経ったときだろうか、突然物音がして、周囲の人々の視線が動いた。その物音は、床に何かが倒れ込むような音がしてだったので、ボーンケースを倒してしまったのかと思ったが、ボーンケースは厳然として私の足の間に鎮座していた。そして私は人々の視線の収束点を探り当て、あっと声を上げそうになった。


そこに倒れ込んでいたのは、先程改札機横に座り込んでいた青いシャツの男性だった。青シャツの男性は相も変わらず床に倒れ込み、声を上げずに笑っていた。その笑顔には一つもいやらしさや疎ましさを感じさせるところがなく、私は感心してしまった。


青シャツ男性の向かい側に座っていた、会社員ふうの30歳ほどの男性が彼を助け起こしていた。放っておいても青シャツ男性は全く問題ないような気がしたし、実際、助け起こされたあとも、青シャツ男性は爽やかに笑っていて、顔の皺がなければ10歳ほど若く見えないこともなかった。


自動改札機で出会い、電車でもかなり近くの席に座っていた。私はその偶然の連続により、勝手に彼に運命のようなものを感じていたのだが、男性は篠ノ井駅で何事もなかったかのように降りてしまい、私は落胆した。すっと立ち上がって電車を後にした彼の横顔には、もはや笑顔はなくなっていたのだ。

もしかしたら彼は最初から酔ってなどいなかったのではないだろうか。私は少し寂しい思いになった。彼は酔ったふりをして笑顔の練習をしていたのではないだろうか。

彼のあの純真な笑顔を思い出し、私はそんなことを思い、また『ペンギン・ハイウェイ』を読み始めた。

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