スケッチ160512 姨捨線景

三両編成の列車は、田んぼの中を走っている。


光は窓の形に切り取られ、電車につられて柔らかく揺れている。

腕を組み、外を眺めている老人がいた。


丸眼鏡の向こうには何が見えているんだろうか。白い帽子、薄茶のズボン、白いスニーカー、黒い靴下、全体的には白い。


僕の目の前に座る茶髪の女性は、その老人を避けようとでもしているのか、長座席の端にぴったりと身を寄せて座り、スマホをいじっている。デニム地の上下。固めの布のバッグ。白いスニーカー。化粧が濃すぎて、いっそすっぴんの方がマシなのではないかと思うほどだ。


大きくカーブを描くレールを両輪で掴み、列車は平地を尻目にぐんぐん山を上っていく。青空と真っ白な雲が目に美しい。


白い老人が車掌を呼び止めなにやら質問していた。私はベートーベンの交響曲第一番を聴いていたので、会話内容は聴き取れなかったが、老人の質問は「この列車はどこへ向かうのか」だろう。老人が指さした、レールの先には山しかない。

なるほど不安になるのも頷ける。


交響曲第一番は最終楽章へ。姨捨駅で白い老人は立ち上がり電車から出ていった。ということはあの老人は鉄ちゃんなんだろう。姨捨駅からは平野を一望できて、実際かなりの絶景である。鉄ちゃん界隈では有名な話だ。

目の前の女性が小さくため息を吐いた。


今度は全身黒の壮年男性がやってきた。黒いバッグから黒い一眼レフカメラを取り出し電車を降りていく。バッグは開け放されたままで、その不用心さに感心する。姨捨の絶景は、バッグの中身よりもよっぽど価値があるのだ。


やがて壮年男性が戻ってきて、目の前の女性の真隣に座った。女性は呆れ返ったように小さく口を開けて、またため息を吐いた。


車両後方の窓を見やると、たいていの窓には白い遮光カーテンが下ろされていた。地元民からしてみれば珍しくもなんともない姨捨の絶景は、ひとときの眩しさに勝つことはできなかったらしい。


姨捨を出たとき、結局、あの白い老人は戻ってこなかった。彼は姨捨の絶景に心を奪われすぎて、列車に戻るのを忘れてしまったのではないだろうか。

しかしまあ、それはそれで、幸せなことだろう。


交響曲第一番は、万雷の拍手とともに終わりを告げた。

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