鏡花水月

朝、目覚める度に、ただただ絶望していた。


自分の命の器が、近いうちに飽和して溢れ出ることを知ってしまっていると、この先、自分が渡っていくはずのレールが途切れていることを知ってしまっていると、こんなにも人生はつまらなくなるものなのか。



今思えば、私はずるい女だった。


人を騙して欺いて、それで偉いようなふりをしていた。


自分を知った気になって、満足していた。


それすらも、そういう馬鹿で間抜けな自分にすらも、自分で気づけなかった。



可能性はきっと生きていく理由の大部分を占めている。

それすらも失った私は、果たしてどうすればいい?


私にはもう何もない。だから何を得ることもなく、失うこともない。

こんな人生は、あって無いようなものだ。


だったら、何も知らないままでいい。何も分からないまま、静かに死んでゆきたい。



ずっと、そう思っていた。






「次の手術の日が決まった。」


彼は、神妙な面持ちでそう言った。


「そっか。……じゃあ次も、頑張らないとね」


私と彼の患っている病は、一度かかると治る見込みの無い不治の病だった。


普段の生活では特別何か目立った症状が見受けられる訳ではないが、逆にそういうところがこの病の恐ろしいところで、見つけた時には進行が大分進んでしまって既に手遅れだった、ってことがざらにある。

治療法は確立されていないが、投薬によって病気の進行を遅らせることは出来る。早期発見が重要なのだ。


ただ、私は生まれてから直ぐにその病にかかっていることが分かったため比較的進行は進んでいないが、彼の方は何年も経ってから見つかったため、確実に私よりも彼の方が、体を蝕まれてしまっていた。



「次は、成功させるって先生が言ってた」



そんなわけがない。具体的な治療法はまだこの世に存在していないのだ。


その言葉は彼を案じて、気遣ってくれた言葉だということは重々承知しているが、あんまりにも根も葉もない事を言われるといい加減うんざりする。


そういう優しさは逆に人を傷つけるのだ。

それを知らずに易々と患者に、軽はずみなことを言ってしまうこの病院の人達に私は少し、侮蔑的な感情を抱いていた。


「応援してるから、また良くなったら一緒に本でも読もう」

「分かった、頑張るよ」



彼と私はこの病院で出会った。

同じ病に掛かった二人。まるで同じ痛みを分かち合うように、私達は恋人同士になった。


端から見れば、悲劇的運命に依存し合っていると言われても仕方がないかもしれない。

でも、私達にはそうするしか無かった。


家族は私に優しいから全くの不満も何もない。ただ、その過度な優しさが、どこか私から現実味を奪っていくのだ。


自分と同じ病に蝕まれた彼をそばで見ていると、なんだか自分を客観視出来ているようで安心した。


「ただ…、次が、本当に最後かもね」



彼はそんな縁起でも無いことを言った。

彼は出会った時と比べて見違えるくらいに痩せこけていたから、より説得力があった。


彼がそう言うのは、今に始まったことじゃない。けれど、本人の口から実際に発せられた最後、という言葉は少なからず私を毎回、少しだけ動揺させた。



「そんなこと無いよ。最後なんて、言わないで」



その瞬間、私に果ての無い嫌悪感が襲った。

ああ―、これでは、病院の人間と同じではないか。日常を取り繕うとする無責任な優しさが、一番残酷なのだ。


でも、人がこういうことを言うときは、少なくとも励ましの言葉を期待するはずだ。

勿論、私も手術は成功してほしいと思っている。

私は間違ってはいない。

私はそう、自分に言い聞かせて感情を押し殺した。


「ありがとう…、そうだ。手術の日は出来るだけ病室にいてくれないか?」

「良いけど…なんで?」

「良いから。」



そう言った彼は悪戯っぽい笑みを浮かべて自分の病室へと帰っていった。






彼の手術の日は、何か予兆があるわけでもなく、すぐに訪れた。




私は彼に言われた通り、自分の病室にいた。



彼の手術は初めてではないとはいえ、あの時の彼の、最後という言葉が、どこか私を急かすような、落ち着かせないような心持がして、そわそわとさせた。

いつものように過ごそうとして、読書や食事をするにも、何をするにも集中を欠いていた。

初めてのことではないのに、なんだか、私らしくなかった。




それから数時間経った昼過ぎあたりで、看護師が私の病室にやって来た。


「近藤さん、お届けものがあるわよ」

「え?」


看護師の抱えていたそれは、少し大きめの段ボールだった。

受けとると、見た目に反して意外と軽かった。看護師が部屋から出ていった後で、私は張り付いていたガムテープをべりべりと剥がした。




中身は――――花束のようにラッピングされた、一輪の、向日葵だった。


そして小さな封筒が同封されていて、そこに記してあった名は、彼のものだった。

あっと気づいて私は納得した。

そうか、彼が病室にいろって言ってたのは、この事だったのか。





その時、病室の外が何だか慌ただしくなったことに気づいた。複数人の大人らしき人々が廊下をバタバタと駆けているらしい。

いつもなら気にならないところだが、何せ今日は彼の手術のこともあって、その音に不安を抱かずにはいられなかった。


自分の病室から出て廊下を確認したが、既にその大人たちの影は見るともなく消え去っていた。


それから何時間も待ったが、手術を終えた彼が帰ってくる気配が無かった。

明らかに、いつもの手術時間を大幅に超過していた。

手術が終わったら、看護師の人に私に言いに来るよう頼んだはずなのだが、荷物を届けに来て以来、いつまでたっても看護師は一向に現れなかった。


彼の病室にも何度か見に行ったが、もぬけの殻のままで、彼はそこに居なかった。



再三訪れた彼の病室から帰ってきたところで、私はそうだ、と思い、向日葵と一緒に同封されていた彼からの手紙を読むことにした。


自分の病室のベッドに腰を掛け、手にした封筒を開いた。

そこには、こう書いてあった。










「ごめん」







ただ、手紙1枚の大きさに不釣り合いなその3文字だけが、そこに記されていた。



私ははっとした。

何? ごめんって、何?



一瞬、時が止まったようだった。

でも、次第に状況が理解出来てくるにつれ、自分の呼吸が少しずつ荒くなっていくのを感じた。

唐突に、頭を掴まれて深い水底に沈められるような、そんな感覚だった。




その時、看護師が私の病室に現れた。


夕食の時間の為に食事を持ってきたようだ。どうやら私が期待していた目的の為にここに訪れた訳ではないらしい。


私は配膳している看護師に聞いた。


「彼は、―――どうなったんですか?」

「――え?」


それを聞いた私を見つめる看護師の目が一瞬、泳いだのを私は見逃さなかった。



一種の、感情の揺れを感じた。



看護師は、よく私が彼と一緒にいるのを知っているはずだから、それがどういうことを意味をするかは分かっているはずだ。



しかし看護師は取り繕うように表情を変え、こう言った。


「きっと、もう少しで良くなるはずだから、近藤さんも応援してあげてね」


笑顔で、そう言った。


















嘘だ。






この女、今、私を騙しやがった。

白々しい、患者を舐めるなよ。

彼女には何の罪も無いのだが、彼女に対して、底知れぬ理不尽な怒りと憎しみを感じた。




分かっていた、はずだった。

もう彼はそんなに長くないこと、余命幾ばくも無いこと、次が彼が言った通り、本当に最後の手術なのかもしれないのだということ。


彼の命の行方がどうなったか、はっきりとはまだ分からないものの、その看護師の表情ひとつで、どちらにしろ彼があまり良い状況には無いことだけは、私には明白に感じられていた。



配膳を終えた看護師が出ていったところで、私は彼から贈られた向日葵を抱いて、静かに泣いた。

配膳された食事を、食べる気にはとてもなれなかった。





しばらく泣いてから、どうやら泣きつかれた私は眠ってしまったらしい。

目覚めたときにはもう日が沈んで月が上り、全く手を付けられていなかった食事は、既に片付けられていた。

代わりに、リンゴが剥かれて置いてあった。



ごめんなさいと、さきほどの看護師に心で謝って、リンゴを食べた。



私の周りにいる人は、優しい人ばかりだ。

我が儘を言っても、きつく当たっても、全部素直に優しく受け入れられてしまうものだから、そんなどうしようもない自分が逆にみじめに思えてくるのだ。


私は自分のことが嫌いだった。

誰も嫌ってくれないから、嫌いなことを教えてくれないから、自分で嫌うしかない。

間違ってるよって言ってほしい。嫌な自分を嫌ってほしい。けれどそれすら、それを言うことすら我が儘に聞こえてくるように思えて、自分の中でひたすら堂々巡りを繰り返していた。


そして、全くそんなわけがないのだが、実の両親が私を手放したのは、こんな何もできない私が嫌だったからなのではないか、と根拠の無い無意味な不安を心の底で密かに抱くのだった。



リンゴを食べ終えたところで、再び向日葵を手に取った。

すると、花束の底に何か固く小さな箱が入っていることに気づいた。


取り出して、開けてみた。






小さな、指環が輝いていた。

黄色く、小さな宝石が付いた綺麗な指環だった。

それからその箱にも一緒に、小さなメッセージカードが入っていた。


「先生に、この手術が今までで一番大きなものになると言われた。成功するかどうかはほぼ運らしい。

でも、僕はやると決めた。少しの可能性にでも掛けてみたい。」


「もし、成功したら、戸籍上だけでもいいから君と一緒になりたい。結婚しよう。

だけど、もし駄目だったらどうか、僕の事を忘れないでほしい。君の中でだけでも僕は生きられたら、それでいい。あまり僕にはお金が無いから、ダイヤモンドは買えなかったけれど、君に一番似合うものを選んだつもりだ。気に入ってくれたら、嬉しいな」









その時、さっきの手紙の事を思い出した。












「ごめん」








ああ―――、って思った。

この人はずるいって、私は思った。

この人をとてつもなく、憎らしく思った。




疑いが、確信に変わった瞬間だった。




分かっていたのだ。彼はこの手術で、自分の命が九死の危険に晒される事を。


そんなもの、自分で自分にとどめを刺すことと、さして変わらないではないか。



彼は恐らく私以上に、自分に対して絶望していたのだろう。

それがどれほどのものであったかはもう、私には知る術もない。



指環を左の薬指にはめて、月明かりに照らした。

きらきらと輝くそれは、どんなに高価なダイヤモンドとかよりも美しいと思った。




その美しさが反って、私には悲しかった。


滑稽な皮肉のようで、ぐちゃぐちゃと私の心を抉った。





また、涙が溢れてきた。

泣き終えるときには、うっすらと日が明けようとしていた。


もう二度と目覚めなければいいのに、って思いながら私は眠った。









「スポーツドリンク、冷蔵庫に置いとくから。また、何か欲しいものがあったら言って」

「うん、ありがとう。―そうだ、秋」

「何?」



自分の血の繋がらない弟に向けて、私は言った。


「私が本当に死にたくなったときは、あなたが殺してね」


弟は嘆息した。


「また、その話?何度も言ってるけど、そんなこと出来るわけないだろ」


くすくすと私は笑った。


「案外、そんなこと無いかもよ?人間みんな、嘘つきばかりなんだから。」


弟ははいはいと聞き流して、病室の机に散らかった菓子のごみを片付けていた。


「……じゃあ、俺は帰るから。次はいつ来られるか分からないけど。」


そう言って弟は立ち上がってから支度をして、ようやく帰ろうというところで、私は弟を呼び止めた。







「秋」

「………何?」

「次の誕生日、向日葵買ってきて」


弟は一瞬硬直して、それから何でもなかったかのように向き直って、

「分かった」と言って帰っていった。



私と弟は血は繋がっていないが、何だかんだで似たもの同士だと思う。自分の人生に大して期待もしていない、お互いに可もなく不可もなく穏便に過ごせればいいやって思っている。

でも――決定的に違うのは、弟にはたくさんの可能性があることだ。

その違いが、私と弟の人生の価値に大きく、明確に差を付けている。


私は、鏡写しにした自分より圧倒的に優れた鏡の向こうの自分を、弟によって見せつけられているようだった。


私は、弟の事が羨ましくて仕方がなかった。









だから―――、弟が私に、家族とは違った、不憫な感情を持っていることに気づいていたとしても、罰は当たらないはずだ。


私は多少、弟のことをそういった理由で弄んでいた。



あなたは私の事を少しは尊敬しているかもしれないが、私は実を言えばそういう奴だった。



ずるい女だ。

結局、この病院の人間と、死んでいった彼と何ら変わらない。






薄汚れた、汚い人間だ。












その日は、雨が降っていた。

私の誕生日だった。

別にだからと言って、何があるわけでもなく普段通りに過ごしていた。



看護師に、聞いた。



「彼は、元気ですか?」

「ええ、きっと向こうの病院で楽しくやってるわ」

「そうですか、良かった」





もちろん嘘だと知っている。

病院側としては、私に過度なショックを与えないよう、彼は手術後、隣町の大きな大学病院に移った、という体で通すつもりらしい。





馬鹿げた話だった。

でも、もう怒る気力も体力も私には残っていなかった。



弟が前に病室に訪れた数ヶ月後に、私は急激に容態を悪化させた。

一度集中治療室に運ばれ、なんとか一命をとりとめたものの、いつ、その時が来るかは分からない状況だった。

呼吸さえも、もう独りでに出来ないほどに、私の体はぼろぼろになっていた。





死の予感が、私にかなり近づいていた。



けれど私は不思議と怖くはなかった。

いっそこんな長い前フリなんかいらないから、一思いに殺してくれ、って思っていた。




もう私には何もない。失うものは全て失っている。






だから―――こんな何もない薄汚れた私に、何も求めないで。

私は、君が思ってるような人間じゃないよ。





私は弟に、何度も言った。

「人を信用してはいけない。きっと後悔するから。人と出会ったときはまず疑ってかかるの。いい?」




それを聞いた弟は分かっているような顔をしていたが、きっと、この言葉の本質に気づいていなかった。




弟は、私を疑う事をしなかった。薄汚れた私に気付かずに信用していた、気の毒な弟だった。












しばらく経って辺りが暗くなってからも雨は強くなるばかりで、止む気配は無かった。


私は虚ろな気持ちで、小さな箱から指環を取り出した。

始めに取り出した時と変わらずそれは、あの時と同じ輝きを放っていた。



それを、そっと握りしめて私は静かに眠った。







その時は、少しずつ近づいていた。

根拠は無いけれど、私には予感があった。

自分を蝕む病が私に、その足音を、予感させるのだ。


それが体感から来るものなのか願望から来るものなのかは最早、私にはどうでも良いことだった。







眠っているとふと、物音がしていることに気がついた。

その気配は私にゆっくりと近づき、そして私の手元に触れた。



私は何故か、驚かなかった。

その刺激で意識は覚醒し始めてたはずなのに、どうしてか、目覚める気力が起きなかった。

言うなれば、私の命の器が既の所まで溢れかけていたからなのかもしれない。





その時私はむしろ、やっと待ちわびたその瞬間がやって来るように思っていた。




口許の、私の命綱が外される感覚がした。

操り人形を吊っていた糸がちょきんと切られるような、やっと、自由になれるような、そんな心持だった。










そして同時に――これは罰だと思った。

これは私に対する神様からのお咎めだ。




私ははなから期待すらしないで、勝手に周りにも自分にも失望していた。

何にも向き合わず、逃げてきた、罰だ。




けたたましいアラームが鳴っていた。

さっきの気配はどこかに走り去って既に消えていた。

けれど私はもうその時点で、自分が助からないことを自分で分かっていた。

人工呼吸器を、私は手に取ってさらにずらした。

不思議なことに、思ったほど苦痛ではなかった。ゆっくりと意識が薄れるのを感じた。











微かに、青く湿った香りが鼻腔を擽っていることに気がついた。

どうしてか、黄色く、小さな花が下からこちらに向いていることが、分かった。






まあ、遠くに行ってしまった彼がまた、こうしてここに帰ってきてくれたから良いかと思い、私は彼と一緒に、再び眠りについた。










人生で初めて、孤独に恐れることなく安心して眠ることができた。

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