5、単独行動

 ハルのポケットで震えていたのは今の今まですっかり忘れていたスマホだった。

画面は知らない番号を表示している。

この際誰でも良い。

彼女は取り落としそうになる程震える手で電話に出た。


「も、もしもし!」


──あー、ハルちゃん? 俺俺、忍っス。今どこに居んスか?


 場違いな程に落ち着いた低い声が電話口から聞こえてくる。

何故彼が、という疑問も吹き飛び、彼女の目から涙が溢れだす。


「びょ、病院、っせ、世与のメディカルセンターです! 今追われてて人居なくてドア開かなくて空も変で……っ!」


 ハルはこれまで抑え込んでいたパニックを引き起こして泣き叫ぶ。

忍が冷静に励ましの言葉をかけるが、階段の方から「ハルさぁーん」と呼びかける竜太の声が聞こえ始めた事で彼女の気は更に動転してしまう。

竜太を模した何者かはもうすぐそこまで迫っているようだ。

コツ、コツ、と軽い足音が一階に響いてくる。


──今すぐスピーカーにして。


「え? あ、あの……」


──早くしろ。


 言われるがままに通話をスピーカーモードに切り替える。

忍の意図が分からない。

ハルは逃げる事も隠れる事も出来ず自動ドアの前で座り込んだ。

手も足もガクガクと震える。


 コツ、コツ──


「やっと追いついた」


 姿を現したのは顔の無い少年だった。

もはや化ける気もないらしい。

声や髪型はまだ竜太を模していたものの、背丈は本物の彼より大分小さかった。

ほんの十歳前後の小学生のようだが、可愛らしさは微塵もない。

黒い大穴の空いた顔は見ているだけで気分が悪くなってくる。

まるで悪意で出来たブラックホールだ。


「ねぇ、逃げないでよ、ハルさん。ボクのお姉ちゃんになってよ」


 少年は一歩、また一歩と近付いてくる。


「ねぇ、お姉ちゃん」


(もう、ダメ……)


『ハ ルお 姉ちゃぁアァぁ ァんん?』


 キンキンと甲高い声が耳をつんざく。

ここに来る直前に聞いた声だった。


「嫌、嫌! 来ないで!」


 少年は泣きじゃくるハルの顔を覗き込む仕草をする。 

至近距離で対面する直前、握りしめていたスマホからお経のものが流れ始めた。


「!?」


『ぅ、』


 忍の声ではない。

声は複数人分あり、全員バラバラの事を呟いている。

時折鈴の音や讃美歌のような歌も聞こえる。

恐らく録音した音源を流しているのだろう、という事位しか彼女には理解出来なかった。


 すぐに「音量上げて」と鋭い口調で指示され、ハルは音量を最大にまで上げた。

複数人の声が音割れしながら延々と流れる。

少年は耳を塞ぎ、もがきながら数歩後退した。


『な に、コレぇぇ、う るさい うるざいう゛るさい! やめでェぇ!』


 頭に響く甲高い悲鳴が読経らしきものと重なり、かなりカオスな空間だ。

建物全体がパキッパキッと木製住宅のように家鳴りし始める。


──数打ちゃは当たるか。それとも、全部が効果ありなのか……不思議なモンだな。


 騒音に紛れた忍の独り言は大音量のスピーカーのせいでやけにハッキリと聞こえた。


(どういう意味だろ……あっ)


 背後の扉がガタン、と揺れた。

もしやと思い、ハルは自動ドアを手動で開く。

それまでびくともしなかったガラス扉がスーッと両側に開いた。


(やった! 開いた!)


 思うが早いか、ハルは大音量を垂れ流したまま病院を飛び出し、黄色い世界に踏み出す。


『待 って、まっ てよぉ、オ姉ちゃ ぁあァぁんん』


 金切り声のような悲鳴を病院に残し、彼女は足がもつれるのも構わずに駆け抜ける。


(走って、ばっかり……っ!)



 くすんだ黄色とはいえ、外の世界は思った以上に眩しく目が痛い。

長時間いると目だけでなく頭までおかしくなりそうである。


「ゼェ、これ、からっハァ、どこに……行けば……っ!?」


──んー、とりあえずどこか目立たない物陰に移動して。落ち着いて話したいスから。




 病院から数十メートル程離れた辺りで読経らしき音声が止まる。

ハルは「まだ怖いからもう少し流して欲しい」と訴えたが、忍は無情にも「平気平気」と取り合わなかった。


「ところで、その、さっきのお経? みたいなのは一体……?」


──あー……同僚達の声っス。色んな宗教混ざってんで、人によっちゃ怒られるアレっスね。酔った勢いの音源なんで、使ってるのはここだけの秘密でお願いしますよ。


「は、はぁ……」


 結局よく分からずじまいである。

ハルは渋々スピーカーを普通の通話に切り替えて辺りをブラつく事にした。

依然として人の姿は見当たらない。

何かが視界の隅で蠢くのが視えてしまい、彼女の心臓が大きく跳ねる。


(やだなぁ、よく見たら変なのが結構居る……)


 落ち着いてみると、もやもやした人影や目玉の集合体などが道路を歩いていたり電柱の傍に佇んでいる事に気付く。

こちらを気にしない者もいれば、珍しがるように遠くから様子を見ている者もいるようだ。

ここはいつもと同じように騒がず関わらず無視するのが正解だろう。


 ハルは適当に見つけた商店の陰に身を潜めた。


──で、何があったんスか?


「えと、竜太君と話してたら、変な声がして、急に足元が崩れて……目が覚めたら世与メディカルセンターの霊安室の前にいました。ニセ者の竜太君に連れ回されて、外に出られなくて……あ、今は出られましたけど。外は一見普通ですが、空が黄色い変な世界です。オバケばかりで、人はいません」


 落ち着きを取り戻した彼女は出来るだけ簡潔に状況を説明する。

話が終わると忍は「なるほどねー、把握した」と伸びをしたような声を出した。

彼の言葉遣いは丁寧さと荒々しさが混合しているが、聞いていると心が凪ぐ不思議な声をしている。

緊張感のない様子につられ、ハルも少しだけ肩の力を抜いた。


 そういえば、何故彼はこちらの電話番号を知っていたのだろうか──

それを問うと意外な答えが返ってきた。


──竜太に頼まれたんスよ。


「頼まれた?」


──あいつも、その黄色い世界とやらにいるらしくてね。俺にヘルプ要請が来たんス。で、もしかしたらハルちゃんも巻き込まれてるかもしれないから、助けてやって欲しいってね。


 まさか本物の彼もこの世界に迷いこんでいたとは──ハルは食い気味に電話口に口を寄せる。


「そんな、竜太君は大丈夫なんですか?」


──さあ? まぁ自分の事で手一杯だから俺に君を任せたんだろうし。そんなに心配要らないんじゃない? 一応この後かけ直すつもりだけどね。


 忍の口調では本心なのかハルを安心させる為の方便なのか、真意が全く読み取れない。


「じゃあ早く竜太君と合流しないと……」


──いや、場所が遠い。合流は諦めて、君には今から俺の言う神社に行ってもらう。


 忍は病院から近いという稲荷神社の名前を上げた。

今ハルが居る場所からだと普通に歩けば十数分で着くらしい。

知らない場所だった為、念入りに道順を確認する。


「……分かりました。えっと、神社に着いたら、帰れるって事ですか?」


──それは正直に言うと、分からないスね。勿論こっちでも出来るだけの事はするけど。


「そんな……」


 もう助かったも同然だと思い込んでいた彼女は愕然と項垂れる。

忍は「まぁ聞け」と話を続けた。


──神社に鳥居ってあるでしょ? 鳥居ってのは神域、聖域と人の住まう世を区画するものとされていてね。その分世界が曖昧になるから、出口がある、または作るとしたら、そこが最適なんス。


「? はぁ……」


──そもそもそういった場所は人の世とは違う場所に繋がりやすいんスよ。勿論例外もありますが……


 語られる話はハルには理解に苦しむ内容だった。

微妙な相槌しか返せない彼女の態度に気付き、忍は小さく咳払いをして誤魔化す。


──あー……理屈はさておき、まずは鳥居を目指しな。それで戻れなかったら、神様に頭下げてお願いしてみましょ。『帰りたいので、お力添えをお願いします』ってね。上手く行けば筈っス。


「分かりました」


 ちゃんと名乗るんスよー、と言われれば素直に頷くしかない。

苦しい時の神頼みという言葉が頭に浮かぶ。


(そんなんで本当に大丈夫なのかなぁ……)


 聞けば竜太も、今頃はナナサト床屋に程近い、あの白い鳥居の神社を目指している筈だという。

不安はあるが助かる道がそれしかないならやるしかない。


 竜太に電話をかけ直すという忍に礼を言い、彼女はスマホをポケットにしまう。


(もうちょっとだけ頑張ろう。大丈夫、きっと帰れる)


ハルは出来るだけ道ゆく影に目を付けられないよう、細心の注意を払いながら道路に出た。

風はない。

音もない。

寂しい世界だ。


 絶対に帰るという強い意思を胸に抱き、彼女は忍に教わった稲荷神社を目指して歩き出した。

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