Time&Time&Time

高志千悠

立方体の愛

「私もあなたが好きです」

 一辺が六センチの正六面体。

 君の彼女はどんな子なんだいと問われれば、僕はそう答えるだろう。

 その正六面体は金属で構成されていて、表面は鈍く銀色に輝いている。金属の種類について明るいわけではないので、果たしてその金属が何であるかはわからない。アルミニウムでないことは確かで、素人目にはスチールのように見えるが、両手に持った質量はその小さな見かけにしては少し重たく感じられる。女性に対して重たいなんて表現を用いた日には非難の集中砲火を浴びること必至であるとは僕とて理解しているが、今この時ばかりは御容赦願いたい。なにせ当方は我がガールフレンドであるところの正六面体について説明を試みているのである。その困難さは筆舌に尽くしがたく、時に不適当といえる語彙を持ち出さずには、浅学であると自認する僕に、その任務を遂行することはかなわない。

 外面は金属で、質量もそれなり。だがその中身に何が詰まっているのか、僕はそれを知らない。彼女を構成する、というよりは彼女そのものである正六面体は正六面体というからには完璧に正六面体で、面と面どうしの継ぎ目が見当たらない。故にこの正六面体をこじ開けることは恐らく不可能で、それならば金切り鋸でも持ち出して六つあるうちの一面を切り落としてみれば良いではないかという考え方をする人も世の中には存在するのだろうが、彼女は僕のガールフレンドなのである。彼女の秘めたる内面を知るためにその身体を切り刻むとは、なかなかサイコなパスと言わざるをえないだろう。故に僕は彼女が自らその内側をさらけ出してくれるまで、慎ましくその外面だけを見つめ続けているのである。

 恥ずかしがり屋なガールフレンドの心の内より、君の頭の中身の方が心配だ、とするむきもあるだろう。だが安心して欲しい。僕の脳はいたって正常で彼女を切り刻もうとは決してしない程度には精神も安定しており、しかし彼女は正六面体なガールフレンドなのである。言いたいことはわかる。だが仕方ないだろう。仕方なくはないのかもしれないが、そこは惚れた弱みというものである。

 ひとつ皆々様の想像に訂正を挟ませて頂くとするならば、彼女はなにも、生まれながらにして金属製の正六面体というわけではない。冷静に考えてみてほしい。人間の母親の産道を通って生まれた赤ん坊が、一辺が六センチの正六面体だったらそれはもう世紀の大事件だろう。奥さんちょっと鉄分を摂り過ぎましたねぇHAHAHA、などと笑ってもいられまい。やめたまえ。それは人類史上初の事件だろうし、それだけ大きな事件ともなれば、ここでわざわざ僕ごときが何やかんやと説明しなくとも、僕のガールフレンドが正六面体であることなど、皆様にとっても既知の事実であるに違いない。だがそうでないということは、彼女が正六面体と成った――あるいはコレこそが彼女の本当の姿なのかもしれないが――のは、比較的直近の出来事なのだとお伝えしても、その前提条件に疑問を提示されることはそうないだろうと思う。

 では我がガールフレンドはいつ、かような金属製正六面体に姿を変えたのか。実のところ、正確なことは僕にもわからない。だが、ある日、ちょうど今から一年前のまだ桜の花が散りきらない頃、高校二年であった僕が学校に登校してみると、前の日まで彼女が座っていた教室の席に、この正六面体が鎮座していた。たかだか二百十六立方センチメートルの物体をして鎮座というのは仰々しく、より正確に言うならば、彼女はその日、可憐な乙女らしくちょこんと席についていたのである。そう、彼女は前日夕暮れ時に別れの挨拶をしてから翌朝僕が教室で目撃するまでのどこかのタイミングで装いを新たにした。だから彼女がいつ姿を変えたのかと問われると、大雑把な予測でしか返せない。だが目の前で起きた重大事に比べれば、そんなことはあまりにも些末であると思う。

 その時の僕の狼狽えようは尋常ではない。何かの冗談かと思わなくもなかったが、彼女の席に座る者が彼女以外の何者であるだろうか。彼女は彼女であるが故に彼女の席に座っていたのであり、彼女ならざる者が彼女の席に座っていることはありえない。故にこの正六面体は彼女なのである。

 評判の良い精神科を勧められる前に付け足しておくと、最初は僕も疑った。数日の間、仮称彼女との接触は極力避け、その動向を伺った。だが仮称彼女はそれまでと変わらずクラスの友人と楽しげに会話し、一緒に昼食を食べ、体育の授業では同じ更衣室に入っていくのである。参ったことに仮称彼女の行動は僕の彼女のそれと大部分において重なる。その姿形が人型かあるいは正六面体かを除けば。であるならば仮称彼女は彼女なのだろうか。眼前の現実の不可解さに煩悶する僕であったが、今こうしているように、校舎の屋上で二人きりになったとき、仮称彼女は僕に、彼女の声でこう言ったのだ。

「私もあなたが好きです」

 好いた相手にそう言われて、僕には到底為す術などなかったのである。


 あなたは私のどこが好きなのか。世の中には、好き合っている相手にそんなことを問う人間がいるらしい。それは恐らく、自分が好いている相手が、好き返されている自分のことをどれほど理解しているのかを問う抜き打ちテストのようなものなのだろう。あるいは好いている相手が自分の求める答えを正しく選択しうるだけの思慮に富んだ者であるかの選定の儀式であるとも言える。

 問われた側は少なからず苦慮することを強いられるだろうが、何らかの答えを捻り出してそれを開陳する。その様はさながら、神の子の前において懺悔する敬虔な子羊の姿にも似ているかもしれない。だがその者の名はユダである可能性も否定しきれない。

 もしも僕がそのような問いを投げかけられたとき、僕には懺悔の場で述べられるどのような言葉よりも、正しく真に愛から生まれいずる言葉を彼女に送ることができるという自負がある。僕は彼女の全てが好きである。一晩にして人から正六面体へと姿を変えた彼女を前にしてなお胸を張って言うのだから、何人と言えどそこに疑問を呈することを僕は許さない。

 好きと言うことはどういうことなのか、僕は考えてみた。その熱量は、時に相手の外見の善し悪しに比例して増大したり減衰したりすることがある。だが時に月とすっぽんが熱烈な愛に燃え上がるようなことも世の中にはある。相手の外見や生まれ等々なんぞ度外視して、その内面にこそ相手の美を見出したとき、すっぽんが空に昇るか、月が地上に落ちてくるかして二人は結ばれる。

 だが人間の内面などというものは本人でさえその地平の形を見渡すことができるものでなく、それが他人のものともなればなおさら未知の領域となる。人と人とが知り合い、意気投合し、時に結ばれるという奇跡は、多大なる妥協と譲歩の上に成り立っていると言わざるをえない。人間とは人類誕生以来それ自体が未開のフロンティアであり続け、宇宙をさえ凌ぐ神秘なのではないかと僕は考える。言うなれば、きっと個々の人間は未来永劫に個々の人間であり続け、その内面は宇宙の真理に等しく永遠の謎であるのかもしれない。有限個を無限個で割った数が事実上ゼロであることと同じく、どれだけ相手のことをよく知っているように感じていても、それは大きな錯覚で、自分という細胞の塊以外の存在はどれも一様に赤の他人と言うことができる。

 そこまで徹底して謎に包まれた他者という存在を好きになるということは、どれだけ凄いことなのだろうか。神懸かり的とはまさにこのことだと僕は思う。そう考えたとき、僕は僕の彼女がどのような姿形をしていたところで、やはり僕は彼女のことが好きなのだと確信に至った。本当の愛情とは姿形で左右されるのではなく、その内面で決まることですらないのである。ただ相手がそこに存在すること。それが愛なのではないだろうか。

 故に人は誰かを好きになるとき、たくさんの熱量をそこに注ぐのである。言うなれば未知という相手の輪郭を、自らの温度で描き出すのである。人が持ちえるものとは自らの体温以外にないのだから。相手に贈った温度のぶんだけ、相手も温もりというべきものを差し出してくれる。そのことを怠ると、人は自分が誰を好いていたのかさえわからなくなってしまう。それくらいに人の内面とは不可視なのだ。

 ここまで熱烈に惚気ていると金属塊相手に何を言っているんだと意見する人も現われるだろう。だがそうは言われても如何ともし難く僕は彼女のことが好きなのである。それが愛なのだと、僕は僭越ながら具申する。


「私もあなたが好きです」

 彼女は僕と二人きりになると、開口一番に必ずそう言う。今日も良い天気だねとか、今日も良くない天気だねとか、そう言った在り来たりな挨拶ではなく。そしてそれ自体が、彼女が僕を虜にしてしまう理由の大きな一つなのかもしれないと思う時がある。

 過去と現在と未来、連綿と続く時間の流れにおいて僕と彼女は無限に存在する。無限に存在するそれらの僕と彼女の中には、互いに互いのことを好いていない二人がいてもおかしくない。僕が彼女を一方的に好いている過去もあるだろうし、彼女が一方的に僕を見つめる未来があるだろう。昨日の僕は彼女をクラスメイトの一人として見ていたが、別の今日の僕は授業中に消しゴムを借りたことが切っ掛けで彼女に恋心を抱くかもしれない。また別の今日の彼女は僕に想いを寄せているが、明日にはその間抜け面に嫌気がさして百年の恋も永久凍土へ投げ込まれるかもわからない。僕が僕であり彼女が彼女であること以外、無限という時間の流れの中で一切は不定なのだ。

 宇宙の一切が不定であるなかで、しかし昨日の僕は彼女のことが好きで、今日の僕も彼女のことが好きである。何故そう断言できるのかと言えば、彼女が「私も」と言ってくれるからだ。それは昨日という過去に僕が彼女のことを好きであったという証拠なのだ。彼女の一言があるからこそ、今日という時間の流れが、昨日という時間の支流の先にあるものだと知ることができる。故に彼女のこの言葉がある限り、少なからず僕は過去から今に至るまでずっと彼女のことを好きでいられるのである。僕が彼女のことを好きであるという思いを、別の昨日の僕に横取りされることはあるまい。

 彼女の言葉が過去を決定して今に至るまでの僕を魅了するのならば、僕にできることは何だろうか。残念ながら僕は彼女ほどの魅力の持ち主ではない自信がある。そのような魅力に欠ける男に、未来を決定するだけの力があるのだろうか。甚だ疑問である。何故なら世界を救うだのなんだのして未来を決定づける人間というのは、その大概が美男美女揃いであると相場は決まっているからだ。

 昨日彼女を好きだった僕が今日も彼女を好きであるように、今日の僕が彼女を好きであるように明日の僕が彼女を好きであるための、それは細い細い糸を手繰るような作業だ。それを人は、祈りや願いというのではないかと思う。であるのならば、僕は一辺が六センチの正六面体であるところの僕の彼女を両手にそっと包みこみ、願うのだ。明日、明日の彼女が明日の僕にいつもと同じ言葉をかけてくれることを約束する意味も込めて。

「僕はきみのことが好きです」

 僕の体温を受け取った正六面体の彼女が、同じだけの温度でほんのり頬を赤らめた。そんな気がした。

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