スタンドマン
三糸 理一
第1話 スタンドマン
ふと、あの日のことを思い出した。
単なる会社員から❝スタンドマン❞になるきっかけとなったあの日を。
ガソリンスタンドに就職して、ちょうど1年が過ぎるころだった。清々しい春の晴れた日のお昼時、、、たしか休憩室で一人、コンビニ弁当をほおばっていたような。
その時はまだ気づいていなかったが、まさに職場が戦場に変わった日だった・・・
『じゃあ、撮りますよー。 ハイ、チーズ!』 カシャッ!
私は、北村勇気 25歳。両親が勇気のある人間になって欲しいという思いでつけてくれた名前だ。自分では普通過ぎてあまり好きではなかった。
普通の高校を出て、2年間はバイトをしながらバンド活動をやっていた。昔から、バンドやって暮らしていけたらなぁと甘い考えを持っていたが、もちろんバンドも趣味の範囲を出ない程度のものだった。その後、普通に就職して3年ほど正社員として働いた。退職した理由は残業の多さと人間関係だ。これもいたって普通だ。
そして、去年から今の職場で働いている。たまたま学生時代にバイト経験のあったガソリンスタンドのスタッフだ。いわゆる『スタンドマン』だ。
ガソリンスタンドというと正社員は1人か2人、残りは全てバイト。というのが当たり前なのだが、学生時代のバイト経験だけで正社員採用してもらえた。それはすでに奇跡に近かった。構成としては、60代の店長と20代の副店長。あとは20代~40代のスタッフが4名だ。絵に描いたようなメリハリのない職場だった。長年営業しており、近隣店舗に比べるとガソリンの価格を安くしていたこともあり、そんなお店の割にはお客さんは多く、非常に忙しい店という印象があったことを覚えている。忙しいさに追われているからなのか、店長もやる気がなかったからなのか分からないが店舗の清掃や片づけも行き届いておらず、休憩室はよくあるタバコのヤニで黄色く染まっている状態だ。一言でいうと『汚い』。ただ、1年ほどそんな環境の中で仕事をしていると不思議なもので自分もその環境に慣れてしまっていた。
スタンドマンの仕事って思っているより奥が深い。お客さんが車でやってくる、ガソリンを給油する、窓を拭いて、お金をもらって送り出す。表面的にはそんなものだろう。確かに、おおまかな流れはその通りなのだが。ひと昔前まで、ガソリンスタンドっていうのは、ガソリンさえ売っていれば利益が出ていたのだ。しかし、セルフ方式のガソリンスタンドが登場し、ガソリンの価格競争が激しくなってくると、ガソリンを販売するだけでは利益が出なくなってきたので、ガソリン以外の商品を販売して利益を出す必要が出てきた。そのころから、ガソリンスタンドの営業スタイルは大きく変わった。ガソリンはディスカウントストアの店頭に並んだ特価品のトイレットペーパーのようなもの、つまりお客さんを呼び込む為の商材になったのだ。現在では当たり前となっているが、車の販売や車検、自動車保険、オイル交換とうのメンテナンス、洗車やコーティング等を販売することが利益の中心となる。われわれのスタンドでは『油外収益』と呼んでいた。この『油外収益』をどれだけ上げられるかが重要であり、スタッフに求められるものも、たくさんガソリンを給油することではなくそれ以外の商品を販売することなのだ。
そうは言いつつも、私が入社した当初のお店では、ただただ給油と洗車に追われており計画的に何かに取り組んだり、こちらから商品を販売するためのセールスも行っていなかった。なので、当然ながら私自身もその辺のセールス方法については教えてもらうこともなかったし、後になってわかったことだが、店は赤字続きだったらしい。まあ、何にも戦略的に行っていないのだから、それも当然といえば当然だろう。
暑い夏が過ぎ、厳しい冬の寒さを何とか乗り越えて日に日に春を感じるようになってきた頃だった。珍しく、朝一でオーナーがやって来てスタッフを集めた。頻繁にゴルフに行っているからか、いつでもきれいに日焼けしている。
『正直に言います。』
オーナーは低いトーンで切り出した。スタッフはみな一様にうつむいていた。
『この店は、今赤字が続いています。みなさんが頑張ってくれているのはわかっていますが・・・』
ここまでは、いつものことだなといった雰囲気があり、店長をはじめスタッフも表情は変えずに聞いていた。しかし、今日はまだ続きがあった。そこから急に空気が変わっていくのがわかった。
『そこで、この店を立て直すためにある人物を雇いました。いろんな赤字の店を立て直してきた実績のある人です。いわゆるヘッドハンティングってやつです。
ただ、“厳しい”ですよ。改革には痛みを伴います。今までのような生ぬるい気持ちではついていけないと思いますので、気持ちを引き締めて業務にあたってください。以上です。』
オーナーは表情を変えることなく、淡々と話し終えた。あまりに突然の発表に反応が追い付かず、みな茫然としている。しかし、店長は違っていた。少なくとも自分の店が赤字であることは自覚していたのだろうか、突然の発表にも驚いた様子はなかった。表情を変えないまま、店長はオーナーの顔を見て言った。
『その方はいつからこの店に来られるんですか?来月ですか?』
何とも言えない張り詰めた空気がその場を包んでいた。しかし、みなの甘えた気持ちと得体の知れない不安、そしてその場の微妙な空気を断ち切るようにオーナーは口を開いた。
『 今日です。』
私たちには、闘いへの心の準備をする時間は残されていなかった。
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