春義久志

 「火遊びでもしようか」

 入広瀬巡いりひろせめぐるが切り出したのは、夏休みの終わりも近づいた午後のこと。私の脳裏に浮かんだのは、幼いころに目にした火事の光景だった。

 小学校から帰る途中だった。日中で風邪を引いたわけでもなく、巡と一緒に目にしているから、多分土曜授業の週だったのだろう。

 通学路を少し外れた住宅街の方角に、赤い炎と黒い煙、すこしばかりの人だかりを目にした私達は、どちらからともなく寄り道をすることを選んだ。ちょっとしたお祭り騒ぎのようで、少しワクワクすら感じていた。

 近づくに連れて、鼻をつく刺激臭と、日常生活ではまず感じることのない熱気が私達を襲う。にわかな緊張で互いの口数も少ないまま、人だかりに紛れ込んだ。

 遠巻きに眺める大人たちの足元をくぐり抜けた先には、窓という窓から朱色の舌をちらつかせる2階建ての住宅があった。キャンプ場で見た焚き火やキャンプファイヤーなんて目じゃない大きさにその時の私は魅入られていた。

「危ないよ、アオちゃん」

 と、傍らに立つ巡が袖を引っ張らなかったら、そのままジリジリと近づいていたかもしれない。

 危ないから近寄るんじゃないと大人のひとりが私達に声を掛けたその時、家の中で破裂音がした。住宅の一部が崩壊し、熱波が人だかりを炎から遠ざけさせた。程なくしてサイレンが遠くから近づいてくる。消防士がポンプ車から放水を始めて、熱気が少しだけ弱まってくると、自分のしていた野次馬行為がなんだか恥ずべきことのように思えて仕方なく、逃げるように火事の現場から立ち去った。置いてかないでよぉと情けない声を出しながら巡が私を追いかけて来た。

 私の罪悪感は、週明けの月曜日にピークに達する。結局隣家を半焼させ、当然のように自身も全焼した住宅は、クラスメイトの自宅だったのだ。死人こそ出なかったが、クラスメイトの祖父が軽いやけどを負ったほかに、飼っていた兎が一匹焼け死んでしまったという。

 きれいだと感じた炎に人が焼き出されていたという事実は、暫くの間私を苦しめた。後ろめたさから家族に相談する気にもなれず、その間の慰め役は、言うならば共犯者でもある巡が務めてくれた。休み時間や放課後、ふとした拍子に気が塞いでしまう私のそばで、彼が服の袖を握って離さないでいてくれると、少しだけ気持ちが安らいだ。

 ともあれそれ以来私は、ガスコンロよりも大きな炎を敬遠しがちになった。好きだった町内会のキャンプ会にも出かけなくなったし、キャンプファイヤーのある林間学校も、仮病を使って行かなかった程だ。

 共犯者の巡も少し気遣ってくれていたようで、キャンプ会に誘うことも、花火に行こうと釣れ出すこともしなかった。

 二人の間で炎の話題は長らく禁句のはずだったのに、巡の口から“火遊び”だなんて言葉が飛び出した。最初こそ驚いたけれど、逆説的に考えればそれは巡にとって、とても重要なことに違いないはずだ。だから私も、未だに炎は怖いけれど、巡に付き合うことに決めたのだ。


 巡の指定した待ち合わせ場所が、繁華街の裏口でも深夜の住宅街でもなかったことに正直安堵はした。しかし久々に訪れた入広瀬家所有の裏山への道のりは、体育の授業と登下校以外には運動をしない人間にとっては中々堪えた。かつての私に、こんな山奥で―実際には言うほど深くはないのだが―巡と一緒に野山を駆けまわるだけの体力と気概があったなんて、自身のことながら到底信じられない。

 もしかすると、ほんとうは同じ人間ではないのかもしれない。巡とともに、野山に親しんだ私は、あの火事の日、巡に袖を引っ張られること無く燃える家屋に近づきすぎた結果、爆発に巻き込まれて命を落としたのだ。今ここに居るのは、死んでいる事に気づかずに現世を彷徨う亡霊か、さもなくばそんな亡霊に取り憑かれた哀れな女子中学生なのだろう。

 こんな益体もない妄想に耽ったのは、ここに来るまでの疲労でぐったりしていたこともあるが、それ以上に暇を持て余していたことが大きい。私は俄に不安になる。

 常日頃から運動部で練習に勤しんでいたとは言え、数週間に及ぶ入院生活を終えて間もないのだ。途中で体力が尽きて動けなくなったりはしていないだろうか。先に行って待っててくれという頼みは、他でもない私が断るべきだったのではないだろうか。

 「こんなとこで寝たら風邪引くよ」

 妄想で朦朧とする意識を現世に留めさせたのは、ようやく現れた巡の呆れたような声音。

自転車に跨ったまま、ハンドルにうつぶせになるような姿の私を見て、眠りにつこうとしてると思ったようだ。

 「誰かさんがこうも遅くちゃ、眠たくもなるよ」

 人の気も知らないで。心配するだけ損だった。

 「親父や爺ちゃんの目を盗んで持ってくんの大変だったんだ。悪い悪い」

 言い訳をしつつも謝罪をするが、あまり誠意が籠もって無いように思えるのは私だけだろうか。

 こそこそと持参してきたという巡の荷物に目をやる。目一杯に詰められてぱんぱんのビニール袋が自転車の籠や荷台に乗っかっている。入りきらなかった分は、両手のハンドルに引っ掛けて持ってきたらしい。

 「よく見つからなかったね」

 「だから朝早くしたんだよ。親じゃないにしても見つけられたら色々と面倒そうだし。最悪、廃品回収ですなんて言おうかと思ってたけど、どうにかなった」

 パリッとして見える学校指定のジャージは、私のと違って卸したてだ。

 巡のいうところのこれに目を向けた。空のペットボトルに黄色みがかった液体が入っている。燃料、おそらく灯油だろう。よもや清涼飲料水ではあるまい。

「本当に持ってきたんだ」

「言ったろ、火遊びだって」

 遠くを見るように、巡は目を細める。

「全部燃やしてまっさらにして、もうくよくよなんてしないでいようって」

「別にくよくよしながら生きたって、良いんじゃないの?」

 正直なところを言えば、私はこれから巡がしようとしていることに反対である。

 巡が弱い人間だとは思わないし、かといって特別強い人間だとも思わない。ただ、そのどちらかでいなきゃいけないという義務感だけで、思い出の品々を焼却しようとしているなら、とても悲しいことじゃないか、それは。

 そう思ったところで、言ったところで、巡の決意が揺るがないだろうことは、わかっていたけれど。

 「再出発のための、大事な儀式ってことでさ、頼むよ」

 時折灯油を染み込ませながら、竈代わりのドラム缶に荷物をどんどん投入していく。鼻を突く油の匂いが、これから起こることを否が応でも実感させた。

 「あ」

 間の抜けた声を上げて、ポケットというポケットを探り出す。目的の品は見つからなかったようで今度は慌てて自転車やビニール袋を探っている。

 「大事な儀式なら、忘れ物しないでよね、メグ」

 溜息を付きながら、私はポケットからマッチ箱を取り出す。巡が忘れでもした時のためにと今朝のうちに仏壇から拝借してきたのだが、まさか本当に忘れてくるとは。

 燃えてほしくない、燃やしたくないと思いながらも私はそのための道具を忘れなかった。

 この”火遊び”は、巡にとっても、そして私自身にとっても、重要な儀式であるはずだったから。

 「途中で落っことしてきたんだ、忘れたんじゃないよ」

 不服そうに言い返した巡とともに、私はこれから火をつける。楽しさも喜びも怒りも悲しみも一纏めにして、入広瀬巡という男の子の残滓を灰にするために。


 「アオ、さっきはありがと」

 「メグのことだし、うっかり忘れてそうな気がしてたからね」

 「いや、そっちじゃなくて」

 上手くいくかどどうか、若干不安ではあったが、今のところは順調だ。黒い煙がいかにも身体に悪そうだったから、辺りに転がっていたコンクリートブロックに腰掛けて、遠巻きに炎を眺めている。

 「あえて意地悪く言うことで、背中を押してくれようとしたんだろ?」

 「別に。あれだって本心だよ」

 「だってその割にはちゃんとマッチ持ってきてたじゃん」

 「そこはほら、アンビバレンツな乙女心」

 「乙女とか、その風体でよく言うよ」

 可愛げもへったくれもないジャージ姿だ、否定出来ない。

 「今のメグだっておんなじでしょ」

 「まあの」

 巡が部活動中に突然意識を失ったという話を聞いたのは、梅雨明け宣言が出たその日だった。暑い道場内で熱中症にでも罹ったのかと最初は思ったから、焼き菓子と暇つぶし用の雑誌を持って見舞いに出掛けた。重病に付き面会謝絶だと看護師に言われた時は驚いたけれど、無事面会できた時に比べたらそれは些細なものだった。

 「あの大量のエロ本さ、自分で買ったの」

 「部活の先輩が押し付けてくんだよ。つか大量言うな。そんなになかっただろ」

 「なら、燃やさないで後輩にあげればよかったんじゃないの?」

 「いらないのはとうの昔にやったさ」

 「じゃあ今燃えてるのはいるやつだったんだ」

 失言を突いた私の指摘は、巡に完全に無視された。

 「それに、女子からエロ本貰うなんて、どういう罰ゲームだっつう話だ」

 「ご褒美だと思えばいいじゃない」

 「みんながみんな変態じゃないっつうの」

 同輩や後輩を庇って憤慨されてしまった。素晴らしい朋友愛だ。見習いたい。

 小さい頃―それこそ二人で火事を眺めた頃は、まだ私の方が背が高いくらいだったが、二次性徴のころには当然の如く逆転した。伸び悩んだ身長が150cm足らずのところで落ち着いた私に対し、聞くところによれば春の身体計測の段階で180は優に超えているということだった。

 それが今や、その差は10cmと無いだろう。私としては高学年くらいの頃を思い出してやや懐かしい程度だが、変化の当事者からすれば、20cm超の視界の変化はとてつもなく大きいだろう。

 「火葬だね、まるで」

 私は呟く。

 「火で葬る方?」

 誰が今ここでコスプレを引き合いに出すというのか。

「男の子のメグがもういなくても、その一部は今朝まで形が残ってた。それを燃やして灰にして、大地に還そうっていうんだもの」

 これは葬式なのだろう。入広瀬巡という少年を弔うための、二人きりの葬式。

 なるほどなあと、意外にも巡は感心しているようだ。てっきりそういうつもりで今日この場に呼ばれたと思っていたが、私の考えすぎだったか。

 「男らしく、ケジメをつけたかったんだよな」

 誰に言うでもなく、しいて言えば昇っていく黒煙に向かうように巡も語り出す。

 「学ランも道着もエロ本も、多分もう二度と来たり使ったりしないものなんだってわかってた。だけどそれを全部、ビニール袋に詰めてゴミ収集車に乗っけてハイサヨウナラじゃ、どう切り替えていいかわからない気がして。

 「目の前で全部燃え尽きる瞬間を見届けられるなら、ケジメもきっと付けられる。そう思ったら、居ても立っても居られなかった。それだけなんだ」

 ただただ燃やそうってことだけ考えたからなあ、葬式だなんて思いもしなかったけど、たしかにそうだな、うんうん。

 一人で納得している姿は、すこしばかり危うく思えて仕方がない。

 上昇気流に当てられて、燃えていた黒い布切れが巡の前に落ちてきた。火バサミで摘んでそれをドラム缶に再度投入しにいく巡。戻ってきた彼女に私は尋ねる。

 「飛んできたの、なんだったの」

 「学ラン、だったもの。多分」

 「ちゃんと、燃えるといいね」

 巡のケジメがきちんとつくように。何もかも灰にして、後腐れなく前に進めるように。

 昇っていく煙をふと見上げた時、隣りに座る巡が私の肩に頭を預けてきた。

 「そのまま、顔を上げたままでいて」

 隣を向こうとする前に釘を差されてしまった。

 「メグの方が大きいんだし、重いんだけど」

 「ちょっとだけ、ちょっとだけだからさ」

 「卑猥な物言いはやめなって」

 精一杯の戯けが痛々しい。

 「なら、ちょっとだけだかんね」

 「ありがと」

 返事をしなかった私の隣で、巡は静かに嗚咽を漏らす。涙だけは見られまいとするのは、最後の意地や誇りなのかもしれない。

 あの日、幼い私を包んだかもしれない炎が、ある少年の残滓を燃やし尽くしていく。ならば今、隣で震えている少女は、彼の亡霊か生まれ変わりか、それとも何なのだろうか。私にはわからない。

 唯一わかっていることは、入広瀬巡という少年は、只の一度も私に涙を見せること無く、この世を去ったという、ただそれだけの事だった。

 

 当初の目的どおり、炎は巡の残滓を全て燃やし尽くした。泣きつかれた巡と、首を上に上げ続けた私。ふたりともへとへとのまま山を降り、ふたりとも家に帰った途端家族からこってり絞られた。無理のない話である。

 数日が経過し、煙を多少吸って痛めた喉も回復した私は、再度一人で山への坂道を登った。前回と違うのは、巡と約束をしていないということである。

 きっかけは自分でもよくわからない。単に暇を持て余していたからなのか。運動不足を少しでも解消しようと思ったのか。

 「似合ってるかな」

 という件名で女子用制服を身に纏った写真が巡からのメールで届いたからなのか。どれかかもしれないし、どれでもなかったのかもしれない。

 とうに火が消えていることはわかっていながら恐る恐るドラム缶に手を触れる。熱くない。よかった。ドラム缶を横に倒し、溜まっている灰を掻き出す。

 あの”火遊び”が、私の考えたように、巡が賛同してくれたように火葬だったのなら、最後はお骨を拾うのが筋だろう。その思いつきだけで山を登ったのだ、これでは燃やすことばかり考えていた巡のことを笑えない。

 灰の山の中に指の先ほどの固形物を見つけ、手にする。

「ああ」

 思わず声にならない声が溢れる。熱で変形しているし、灰やらタールやらで黒ずんでいる。それでも少し手で擦れば、かつての金属光沢が甦る。巡の男子用制服に付いていた釦の成れの果てに違いない。

 土や灰でジャージが汚れることも気にならず、私は地面に崩れ落ちた。いつか、巡自身の手から受け取りたかった、彼の心臓に一番近いところにあったかもしれない釦を両手で握りしめながら、私は泣いた。女の子になった巡の姿を直に見た時も、二度と戻れないと知った時も、隣で巡が泣いていた時ですらも流れることが無かった涙が、ようやく私の頬を伝った。

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