4-5

 雨音が不規則なリズムで僕の耳を打つ。窓には水滴の通った跡が複雑に交差して、奇妙な水脈を形成している。灰色の雲に覆われた薄暗い空を眺めていると、訳もなく気分が重くなる感じがした。

 つい数日前までは朗らかな春の日差しが降り注いでいたはずが、区切りも不確かなままに、いつの間にか嫌に湿った梅雨が訪れる。水分を含んだ空気はじっとりと肌に絡みつき、酸素が薄くなったような微かな息苦しさを覚える。耳鳴りのようにうねる雨音がいつまでも耳から離れなかった。

 雨水が染み込んだ靴のせいか、いつもより幾分か足取りが重い。焦っても仕方ないと諦めて、今日はのんびりとスタジオに向かうことにした。幸いなことに、昨日でここ最近のライブラッシュが終わって、来週末まで約二週間は小休止的な空白期間になっている。しばらくは忙しない日々が続いていたので、ちょっとくらいサボってもばちは当たらないだろう。

「あ、イツさん!」

 地面に打ち付ける雨粒を見つめながら歩いていると、後ろから僕を呼ぶ声がした。振り返ると、びしょ濡れになったアマネが鞄を傘替わりにしてこちらに走ってきていた。

「あれ、どうしたの?」

 様子を見るに、どうやらここまで傘を持たずに走ってきたみたいだった。絞れそうなほど全身水を吸っていて、服や鞄は色が変わってしまっている。僕は彼女の方に傘を傾けながら、一旦立ち止まって事情を尋ねる。

「誰かが私の傘を間違って持って帰っちゃったみたいで、帰ろうと思ったら傘がなかったんです。家帰るにもどうせ濡れちゃうし、ギターもちょうど昨日向こうに置きっぱなしにしてあったので、スタジオまで走っちゃえば大丈夫かなって思ったんですけど……」

 こんなになっちゃいました、と彼女は照れ臭そうにはにかむ。いつも歩いてはいるが、学校からスタジオまでは三十分以上かかるから決して近くはないし、雨の中傘もなく走って何とかなる距離ではない。僕らがいるのがちょうど半分くらいの地点だが、ここまで来るのでも相当大変だったはずだ。

「とりあえず一旦どこかで落ち着こうか」

 あまりにも彼女がひどい状態なので、屋根のあるところで少し雨宿りをすることにした。ちょうど僕がギターケースを拭くためにタオルを持っていたので、それを貸してあげる。焼け石に水ではあったが、髪の毛や服の表面は拭けるだろう。

「ありがとうございます」

 彼女はタオルで全身を拭きながら、長い前髪を必死に絞っていた。量が多いからかなり水を吸ってしまったみたいだ。真横にいる僕からだと、絞っている前髪の隙間から覗く彼女の顔が見えた。

 普段は前髪に隠れているので気付かなかったが、彼女は意外にも二重のくっきりした大きな目をしていて、茶色がかった澄んだ黒目が綺麗だった。目の下にはぷっくりと膨れ上がった涙袋を携えている。丸みを帯びた顔の輪郭も相まって、全体的な雰囲気は小動物的な可愛らしさを持っていた。

 そんな彼女の素顔を見ていると、彼女が同年代の女の子なのだということを思い出す。今まではずっと友人、あるいはバンドメンバーとしてしか見ていなかったけれど、彼女は女の子なのだ。しかもちゃんと見るとかなり可愛い。そうやって改めて認識してしまうと、何だかこうして彼女の横に立っているのが恥ずかしくなってきた。

「どうしたんですか?」

 彼女は僕の視線に気付き、その顔をこちらに向けて、不思議そうに僕の目を見る。頬に滴った水滴がゆっくりと地面に落ちていき、アスファルトにぶつかって静かにはじけた。

「顔に変なものでも付いてます?」

 僕は彼女と目を合わせているのに耐え切れなくなって視線を外す。何だか妙に胸がドキドキしていた。なんて単純なんだと自分でも呆れてしまう。

 やっぱりタオルはあまり役に立たなかったようで、シャツの襟元や肩はまだ湿って彼女の身体に張り付いていた。白いワイシャツは透け、肌の色が見えている。そして胸元には紺色の下着まで透けていて、僕は見てはいけないと思わず目を逸らした。

「もうこれからしばらくはずっと雨みたいだね。嫌だなあ」

 僕は自分の頭からさっきの映像を消そうと、何度も激しく頭を振る。そして誤魔化すようにして、無理矢理大きな声で関係ない話題を口にする。白々しい口調になっているのが自分でもわかった。

「そうみたいですね。でも私は結構雨の日って好きなんですよね」

 彼女は手を止めて、屋根の端から覗くように雨雲が覆う空に目をやる。

「私は雨の日に生まれたらしいんです。だから名前も『アマネ』。安直だけど、実は結構気に入ってたりします」

 確かにいい名前だと思う。彼女の優しい温かさや芯に持つ力強さをよく表している響きだ。

「こうやって雨の音を聴いていると、落ち着いて静かな気持ちになれるんですよね。だから色々考えちゃって気分が沈むことも多いんですけど、その時間が私にとってはすごく大切なんです。そして雨が止んで空が晴れたのを見て、またがんばんろうと思えると言うか……。雨の日っていうのは、自分の人生にとっての雨宿りみたいなものなんです」

 彼女の言っていることは何となくわかる気がした。雨は世界をほんの少しだけ緩慢にして、僕らに小休止を与えてくれる。だから逆に焦ってしまったり、振り返って自分のいる場所がわからなくなったりしてしまうのだけど、そうやって自分を見つめなおす時間はとても大切だ。そして雨が降るとそういう時間に向き合うことができる。

 向かいの家の窓に、てるてる坊主が吊るされていた。重力に負けて力なく垂れ下がり、音もなくゆらゆらと揺れている。そのてるてる坊主が少し僕に似ている気がした。

「こうやって雨宿りをしてると、昔よく兄さんと公園にあったトンネルの中で雨宿りしたのを思い出すなあ」

 叔父さんや彼の家族と顔を合わせるのが嫌で家に居場所がなく、友達がいなくて学校にも居たくなかった僕らは、放課後はいつも近くの公園で時間を潰していた。雨の日は誰もいない公園を濡らす雨を見つめながら、遊具の陰に二人で肩を寄せ合った。五時のチャイムが鳴ると帰らなくてはいけなかったので、兄の手を握りながら、いつまでもこの雨が止まなければいいのにと思ったのを覚えている。

「イツさんは本当にお兄さんのことが好きなんですね」

 アマネが可笑しそうに笑う。

「兄さんは僕にとってヒーローなんだ」

僕は少し恥ずかしく思いながらも、思い出を振り返るように兄のことを話す。

「兄さんは内気で無口だし、気の強い人ではなかったから、敵をやっつけるとか、困ったときに助けに来てくれるとか、そういうヒーローじゃなかった。でもいつも僕の傍にいてくれて、手を握ってくれて、何も言わずに寄り添ってくれた。両親が死んで、世界から置いていかれた僕にとって、そんな兄さんはヒーローだったんだよ」

 兄の手の温もりを僕は今でも思い出すことができる。小さい頃は本当にいつも兄の手を握ってくっついていて、ちょっとでも離れると世界が暗闇に包まれたように途轍もない不安に襲われたほどだった。それがいつからか、僕が大人になるにつれて、兄との距離が開いていった。そして彼は今、どこか知らないところに行ってしまった。

「私は兄弟がいないから、そういうのに憧れちゃいます。また、会えるといいですね」

 アマネはそう言って柔らかく微笑んだ。そんな彼女の優しさに、何だかちょっとだけ救われた気がした。

「それにしてもどんどん強くなりますね」

 梅雨の長雨は当然止む気配などなく、むしろ時間を追うごとに激しくなっているように見えた。雨宿りをしたのは失敗だったかもしれない。もうしばらく様子を見て、収まる様子がなければスタジオに向かうことに決めた。

「ちょっとそこの若人よ。道を教えてはくれないか」

 そうして雨が弱まるのを待っていると、突然後ろの方から声が聞こえた。

「困ったことに迷ってしまってね。方向だけでも教えてはいただけないかな」

 顔に見覚えもなく、話から察するにどうやら通りすがりの人らしい。物腰は非常に丁寧な男性で、優しげで穏やかな顔をしている。歳は三十歳くらいだろうか。特徴的なのは、まげに着流し、下駄に和傘という、いかにも時代錯誤な服装をしていることだった。

「どこに行きたいんですか?」

 無視するわけにもいかないので、とりあえず行き先を尋ねる。この近辺であれば、ある程度案内はできるだろう。恰好が少し変ではあるが、悪い人ではなさそうだし、ギターらしき荷物を背負っていたので、できる限り協力してあげようと思った。

「『シモキタ』という街を探しているんだけどね。この辺りだと聞いたのだが、なかなかどうして見つからない。おまけにこの雨だ。もうすっかり参ってしまってね。心優しそうな君たちに尋ねたというわけだ」

「シモキタですか。だったらちょうど僕たちもこれから向かうところなので、一緒に案内しましょうか?」

 ちょうど適当なタイミングで出ようというところだったので、せっかくだから直接連れていってあげるのが一番いいだろう。アマネに目をやると、彼女もいいのではと頷いている。

「おお、それはとても助かるね。お言葉に甘えさせていただくとしよう」

 ということで、僕ら三人は降りしきる雨の中、シモキタの街へと歩き出した。

「私はツヅライと言う者だ。ギターを持って全国を練り歩き、旅をしている。ここへは旧友に会いに来たのだけどね。まあさっきも言った通り道に迷ってしまったわけだ。正直参っていたから助かったよ」

 ツヅライさんは『ござる』とでも言いそうな風貌だが、話してみるとまるで普通の人で拍子抜けしてしまう。しかも気さくで饒舌な人で、道中では自分の話を色々と語ってくれた。

「この辺りにはもう十年以上前に来たことがあったのだがね。当時も半ば迷うような形で辿り着いた場所だったし、何より街並みもずいぶん変わってしまっていてね。まあ私はいつも迷子みたいなものなんだが」

 彼は全国津々浦々、路上での弾き語りを主たる目的として旅をしているらしい。もうそんな生活を十五年近く続けていて、シモキタには昔にその道中で立ち寄ったのだと言う。彼には確かに長い時間の中で培った風格が滲み出ている気がして、同じ音楽を志す者として憧れを感じざるを得ない。

「でもどうしてそんな旅をしているんですか?」

 単純にそんな大変なことをずっと続けていられる理由が気になった。よっぽど強い意志がなければ、すぐに嫌になってしまうだろう。

「旅に意味などない。旅が意味を持ってしまったら、それはもはや旅とは言えない」

 しかし僕の考えは浅はかで、彼の中にはもっと底の知れない深さがあるように感じた。彼の言葉の意味は僕にはわからなかったが、その目は長年の旅で得た境地を語るような力強さが宿っていた。

「悪かったね。またいつか、次に会ったときにぜひ礼をしよう」

「いえいえ、こちらこそ色々お話を聞けて楽しかったです」

 僕らがシモキタに着くころには、雨はずいぶん弱まっていた。街の入り口で彼に別れを告げ、またどこかで会えたらいいと、少し期待が胸に残る。

「音楽とは、人生を旅する船だ。そのことを決して忘れてはいけない!」

 去り際に、彼は僕らの背中を押すように、少し遠くから大きな声でそんな言葉を口にした。僕らが音楽をやっていることを一言も言っていないのに、まるでそれを知っているかのような言葉だった。やっぱりよくわからない不思議な人だが、どことなく凄みを感じる。

 彼の姿が街に消えていくと、いつの間にか暗い雲の隙間から太陽が顔を覗かせていた。

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