第11話 セットアップ!(後編)
「ハルト、とりあえず“目薬”をください」
イリスは自分でケーブルを外しながらそう言った。
「ほいよ。今後は勝手に使っていいよ」
僕は予め用意していた、液体の入った小さな容器を渡す。
彼女のいう“目薬”とはオートドールの眼球用の潤滑剤だ。
目薬のような容器に入っていて目薬のように使用する、だからそう呼ばれることが多い。
基本的に人間にそっくりなタイプはこれを頻繁に使用することが望ましい。
イリスが“目薬”をさす姿は人間そっくりだ。
「えーっと、水を飲んできていいですか?」
オートドールは食事をすることはできないが、機種によっては水を飲むことはできる。
これは飲む動作が目的なのではなく、ちゃんと使い道があるのだ。
「ああ、水ね。それぐらい用意するぞ」
「待ってください」
僕が水を取りに行こうとすると、イリスが呼び止めた。
「どうした?」
「せっかく身体を得たのですから、それぐらい自分でやります」
「わかった。まぁ、一応ついて行こう」
能力的には自分で水を飲むぐらい何でもないが一応見ておきたい。
台所に行くとかーさんが料理をしていた。
「まぁ、晴人にもついに彼女が……」
イリスを見たかーさんはとんでもないことを言った。
「はじめましてお母様、息子さんと不健全な交際をさせていただいておりますイリスと申します」
そして、その悪ふざけに乗っかるイリス。
不健全な交際ってなんだよ……。
「晴人の母の優花です。馬鹿な息子ですがよろしくお願いします」
本来なら所有者の息子を“馬鹿”とか言えないはずなのだが、とーさんのカスタマイズにより可能になっているのだ。
それにしても、かーさんはその変な体操服にツッコまないのか……。
「茶番劇はもういいか? ほれ水だ」
僕はイリスに水の入ったコップを手渡した。
「ありがとうございます」
それをぐびぐびと一気に飲み干す。
「ぷは~、生きてるって感じ~」
確かに“生きている感じ”はする動作だな……。
いずれは食事もできる時代が来るの……だろうなぁ。
それが近いか遠いかだけの違い。
「それじゃ、戻るぞ」
「は~い」
イリスは元気に返事をする。
心なしか声に潤いが出てきた気がする……。
目的を果たした僕たちは部屋に戻ってきた。
「これで冬は白い息を吐けますし、部屋を加湿することもできます!」
冬に息が白くなるのは湿っているからである。
だから気温が低くても白い息を吐くためには水分が必要なのだ。
オートドールを加湿器にするのは壮大な贅沢だが、できるといえばできるのだ。
「まぁ、今は春だから当分出番のない機能だな」
「ちなみに除湿もできます。時間をかければこの機能で水分補給もできなくはないです」
「それは……便利だな……」
愛玩用としてはおそらく使わない機能だが、軍事用としては意味があったのかもしれない。
「では、せっかくですので……」
イリスはニヤニヤしながら僕に近づいてきた。
そうして、唇に唇を押し付けて――。
「…………!」
「れろ……はむ……ん……ちゅる……ちゅるるる……」
舌が……入ってきている……!
そうして、ゆっくりと唇を離した。
「なななな……何するんだ?」
我に返った僕は動揺して少し後ずさった。
確かに、このいやらしい感触を表現するには水分が必要だ。
「せっかく身体を得たのですから存分に使い倒さないと」
イリスは見せつけるように舌舐めずりした後、ニヤリと笑った。
「あ、うん……。あまり無理させて消耗しないようにするんだぞ。修理代も馬鹿にならないからね……」
「やだ~、照れちゃって、カワイイ~」
イリスは僕の背中をバンバン叩く。
「AI相手に照れるか、ば~か!」
はじめてのキスは、ちょっとケミカルな味がした――って、何だよこの中途半端に恋愛小説みたいな表現は!
「そうそう、水分があると虫歯になりますので、専用の洗浄液を買っておいてくださいね」
「虫歯? ああ、カビが生えるんだったな」
水気あるところにカビあり――。
オートドールの水タンクや腔内はこまめに洗浄しなければならない。
専用の洗浄液も売られている。
そういった液の特徴は人体への害が極めて小さいことである。
その必要性については――説明するまでもないだろう。
これが面倒でオートドールへの水分補給を禁止しているオーナーもいる。
逆にリアリティをアップさせるために粘性の強い専用の液体を使用することもできる。
「それに今のいやらしいキスでハルトの汚い
「本当にいやらしい言い方だね」
そうこうしている間に時間は経過して――。
「ところでハルト、そろそろ
「そうか、ケーブルを繋げれば充電されるぞ」
「そうさせてもらいますぅ」
イリスは椅子に座り、自らケーブルを接続した。
「しかし、これは暇ですね。休眠モードに入って充電時間を短縮します」
そう言ってピクリとも動かなくなった。
一気に静かになった室内。
機械の蝶の羽ばたく音が急に意識に戻ってくる。
休眠モードに入ったオートドールは、予め設定された条件を満たさない限り動き出さない。
基本的には音、振動、衝撃、時間などである。
さらに目を開けたまま休眠モードに入ることも可能であり、特定の視覚情報を休眠解除の条件とすることもできる。
現状のオートドールはあくまで電力で動作し、その電力も家電と同じコンセントから得ている。
未だに人間と同じ食べ物から十分なエネルギーを得るには至っていない。
あの
胸を開いてこっそりと食べたものを捨てるシーンは哀愁を誘う。
しかし、人間とて消化吸収にはかなりのコストを支払っている。
だからコンセントから充電したほうが圧倒的にコストパフォーマンスに優れることは確かだ。
それでも、食事を摂ることが人間らしさを表せるのなら、それを人々は求めるかもしれない。
ちなみに、大昔の漫画やアニメに登場するロボットは原子力で動くものが多い。
まだ原子力が多分に期待されていた時代だったのだろう……。
あ、そうだ! 仮想身体の方を起こそう。
イリスが休眠状態に入り、急に部屋が静かになったことで思い出した。
仮想身体の休止モードを解除すると、ホログラフィックディスプレイにイリスの姿が映った。
「やぁ、おはよう」
「ワタシ、イリスさん。今、PCの中にいるの」
復帰早々に謎のボケをかましてくる高度なAI。
「久々の実身体はどうだった?」
「何ていうか、万能感が湧き上がってきますね。わたし、なんでもできる、って感じ?」
「それはよかったな……」
AIにも万能感とか湧くだろうか?
仮にそうだとして、能力計算のミスだからバグと考えるのか、人間をマネているのだから仕様だと考えるのべきか。
「これからは『水を得た魚』に代わって『身体を得たAI』という表現を使うべきですね」
「そ、そうか……」
別にAIは実身体がなくても死なないけど……。
どちらかといえば、『水を得た魚』という表現自体がおかしい気がする。
類似の表現として『兎の登り坂』というものがあるけど、こちらの方が正しいだろう。
「でも、なんだか知能が下がった気がします」
「だから万能感とか湧くのか。まぁ、知能が下がったのは事実だけどね」
例えば、デスクトップPCよりノートPCの方が性能が低くなりがちなのと同じである。
*
その日の夜――。
僕が風呂に入っていると、突然ドアが開け放たれて、堂々とイリスが入ってきた。
もちろん裸で。
改めて見てもなんという美しさだ。
少なくとも〈ミロのヴィーナス〉には勝てるな。特におっぱい。
さらにそれが総天然色で滑らかに動くというのだから芸術性はカンストしているといってもいいだろう。
「さぁ、ハルト。お背中をお流ししますよ。知っていますか? 人間の肌を洗うのは人間の肌がベストなんですよ?」
これは新手のボケなのか……?
「知ってるけど、おまえのどこに人間の肌があるんだよ!」
「ソースは『ターミネーター』です!」
映画『ターミネーター』に登場する人間そっくりな殺人マシーン〈T―800〉の皮膚は人間の生体細胞を使用している。
だから、小さな傷なら人間と同じように自動的に治癒する、という設定だ。
なお、どうやって栄養素を得ているかは不明らしい。
「おまえのはそうじゃないから! めっちゃケミカル素材だから!」
「でも、これだけ人間っぽいのですから、だいたい人間と同じはずですよ」
「その理屈はおかしいが……。まぁ、いい……むしろ僕がイリスを洗ってあげよう」
「あー、ハルトのえっちぃ」
「オーナーにはメンテナンスをする義務があるんだ。ほれ、そこに座れ」
「はーい」
オートドールは自分で自分を洗えるし、イリスとかーさんで洗い合えばさらに完璧なのだが、今回は僕が洗ってみよう。
人間と同じボディソープやシャンプーでも使えないことはないが、せっかくかーさんのがあるので使わせてもらう。
イリスの長い髪にお湯をかけたあと、シャンプーを手の平で泡立て、洗っていく。
現状、そこまで汚れてはいないので軽くでいいだろう。そもそもオートドールは代謝しないし汗もかかない。
お湯をかけてシャンプーを落としたら、今度はコンディショナーを馴染ませていく。
さらに再度お湯で流したら、邪魔にならないようにタオルを巻く。
「頭はこんなもんかな……」
続いて身体の方だが……。
「あん……ハルトの手付きいやらしい……」
想像していた通りの反応が返ってきた。
……………………。
…………。
やっぱり素晴らしい感触だな。
いつまでも触っていたくなるが、そういうわけにもいかない。
「ほれ、終わったから、さっさと出て髪を乾かせ」
「えーっ、わたしも湯船に入る~」
「狭いからだめ」
「やーだやーだ。ワタシも入れろ♥」
やはりイリスは駄々をこねた。
「しょうがないにゃあ……。頭は沈めるなよ」
この実身体は完全防水仕様だから大丈夫なはずだけど、念の為。
「はーい」
風呂から上がると、ドライヤーでイリスの髪を乾かす。
「さて、服だが……とりあえず僕のものを着てもらう」
僕は普段自分が着ている服を渡した。
タータンチェック柄のシャツに綿パン、つまりは典型的なオタクファッションである。
「えー」
イリスはあからさまに不満そうな反応をする。
「おまえ用の服はおいおい買いに行く予定だ」
「おいおいですか……」
「おいおいだ」
「わかりました、しばらくはハルトのダサいオタクファッションで我慢してあげます」
そんなことを言いつつ、僕の服に袖を通す。
着終わった姿をまじまじと見る。
「しかし、オタクファッションって美少女が着るとかわいいよな」
これで僕のファッションセンスは悪くないことが証明された。
ありがとう、イリス!
いや、結局自分が着たときにどうかが問題なのだ……。
しかし、これ以上最適な服装はほぼ存在しないだろう。
それが僕たち陰キャオタクの宿命なのだ。
「美少女は何を着ても美少女なのです!」
イリスは胸を張り、ドヤ顔で言う。
結局、そうなんだろうなぁ。それが世界の真理!
「じゃあ、服は僕と共有でいいか」
「それはダメです。ハルトはそれでは満足しません!」
イリスは僕が十分に満足しているわけではないことを見抜いているのだ。
「ただいまー」
1階からとーさんの声がした。
いつも通り帰宅は遅い。
イリスと下に降りてみる。
とーさんはかーさんと抱き合ってぐるぐる回っていた。
奇妙だがよく見る光景である。
「お、おかえり……」
「おお、ハルト。そのカワイイコはどうした?」
早速、イリスについて尋ねてくる。
「買ったんだよ」
「おまえもついにオートドールのオーナーか!」
「うん」
実身体はとんでもなく高額で、通常子供が買えるものではないが、とーさんは事情をよく知っているので、そこを追求してくることはない。
「中身はイリスか?」
「はい、お父様」
とーさんはイリスをじっくりと見つる。
「一般に出回っている製品じゃないな……。軍事用か?」
「なんでわかるの?」
「足音がね。体重が不自然に重い。業界では〈
「さすがプロだね」
この後、遅くまでとーさんとオートドールについて語り合った。
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