必殺! 三日月蹴り

風来坊

第1話

 山田作之進は小用を済ませ、ロビーに出た。

 体育館の中は、今日の高校空手道県大会を応援するため来場した大勢の高校生や父兄で溢れている。

 空手着姿の作之進は一階の試合会場に入り、背後から声をかけられた。

「山田!」

 振り向くと、鬼山が立っている。

 鬼山恭一、県立北高校三年生。作之進のライバルで今日の県大会個人戦優勝候補筆頭と目される猛者だ。百九十センチの長身から繰り出される突きと蹴りは、脅威そのもので、鬼山と対戦の決まった相手は、KOを免れ、判定負けを心底願うと噂されている。

 鬼山は東大寺の仁王像のようなこわい顔に皮肉げな笑みを浮かべ、近づいてきた。

「調子はどうだ?」

「絶好調だ」

「決勝まで来れそうか?」

「もちろん」

「楽しみだな」

「ああ、楽しみだ」

「ところで」鬼山は腰を折り、作之進の耳元へ口を近づけた。「先週の日曜日、白鳥夕子とデートした。白鳥はおれと付き合うと言っている」

 作之進は暗闇の中でいきなり殴りつけられたような激しい衝撃に見舞われた。

 白鳥夕子は市内の私立女子校キリスト聖心高校三年生である。作之進の交際相手で、作之進と鬼山の中学三年時のクラスメートだ。

 中学時代から学内でも一、二と言われた美貌は、男生徒の憧れの視線を一身に集めていた。その美貌が高校に上がって、更に磨きがかかったとは、作之進だけではなく、中学時代の同級生皆の一致した見方だ。

 県立第二高校に通う作之進は去年の夏、友人と泳ぎに行った市営プールで三人連れで来ていた夕子と出会い、息継ぎのできなかった夕子ともう一人にコツを教えてやり、感謝された。翌日から三日間個人レッスンを頼まれ、それから夕子との交際が始まった。

「嘘だ! そんなはずはない」

 鬼山はネタを見詰める板前のような眼差しで、作之進をじっと見た。「嘘じゃない。彼女ももうすぐ来るはずだから、直接確認してみろよ」

「それも嘘だ! 白鳥は、今日は来れないと言っていた」

 五日前、応援に来てくれないかと誘った作之進に夕子は、その日は進研全国模試を受ける予定だから行けないと断ったのだ。

 鬼山は両腕を組み、つくづく同情に耐えないという風に首を二度三度と横に振った。

「来るか来ないか、自分の目で確かめるんだな」

 鬼山は作之進の肩をぽんと叩き、離れていった。

 作之進は暗澹たる気分になった。

 よりによってどうして野に咲く大輪の花のような白鳥が、鬼山とデートなんかしたのだ? それが信じられなかった。

 それのみならず、交際を受け入れたというのだ。あの鬼瓦みたいな仁王顔と。

 おれには応援に行けないと断っておきながら、今日ここに来るというのだ。誰を応援するために? おれか、鬼山か? 作之進は試合も何もかも全てを放り出して、蒸発したくなった。

 作之進は茫然自失の態で試合会場の隅に陣取った空手部員たちの元へ戻った。

 作之進たちの県立第二高校は、団体戦は午前中の一回戦で敗退したから、午後からの個人戦を残すのみである。個人戦には主将の作之進と親友で副主将の中村茂樹が出る。

 試合は顔面への突き、肘打ち、頭突きと急所攻撃、つかみ、投げ、かみつきを禁止したフルコンタクトルールで行われる。

 昼休みの休憩が終わり、試合場では団体戦の決勝が始まった。鬼山の県立北高と城北高との対戦だ。

 作之進は体育館の側壁に背中を預け、試合の様子を見るともなく見ていた。

「お前、顔色悪いぞ。食あたりでもしたのか?」

 隣に座った中村が作之進の横顔を覗き込み、心配そうに言った。

 中村は作之進と白鳥夕子の交際を知っている。中村の交際相手を加え、二度ダブルデートをした。作之進は正直に話すことにした。

「おれは死にたくなった。空手の勝ち負けなんか、もうどうでもいい」

 中村はそばかすの浮いた下駄顔で作之進を見詰めた。

「何があった? 言ってみろ」

「白鳥が鬼山とデートしたそうだ。鬼山との交際も承諾したらしい。今日、鬼山を応援するためにここに来る」

「誰が言った?」

「鬼山から直接聞いた」

「……本当かよ」

 中村はしばらく思案していたが、突然声を上げて笑いだした。ひとしきり笑った後、舌打ちした。

「お前は全くうぶで純情でばかなやつだな。はったりに決まってるだろうが。あの白雪姫みたいな白鳥が、仁王顔の鬼山なんかと付き合うものか。お前を動揺させ、試合に負けさせるための鬼山の策略だ。気にするな」

 中村は再び天井を見上げ、笑い始めた。そう言われてみれば、そうかもしれない、と作之進は思った。しかし、来るか来ないか自分の目で確かめるんだな、と言ったときの鬼山の表情はやけに自身ありげだった。

 はったりだと決めつけるには確証が必要だ。夕子が今日ここに来なければ、一つの確証にはなる。

 頼む! 夕子をここに来させないでくれ、と作之進は神に祈った。

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