それでもこの冷えた手が
桝屋千夏
第1話 『下着泥棒』
もうすぐ深夜零時を示そうとする時計からそっと目を離す。
武者震い一つと大きな深呼吸をした。
築年数はそう古くはないだろうハイツを遠目に、物陰の漆黒に身を包んだ俺は浮き足立つ胸の高鳴りを落ち着かせる。
辺りはしとしとと雪が降り、すでに踝の高さまで積もっている。
真っ白な大地にそびえ立つハイツ。
その名は『城castle』
その三階が今日の目標地点。
俺はゆっくりと立ち上がり、ざくっざくっと雪の中を進んでいく。
******
彼女と偶然再会したのは丁度一週間前。
「みきひさ君?」
たまたま立ち寄ったコンビニで後ろから声を掛けられたのが事の始まり。
最初は誰だかわからなかったが、その純粋な瞳と特徴的な歯並びに俺の記憶が頭のなかでリプレイされた。
「さきちゃん?」
彼女は幼馴染みの『さきちゃん』
名前はおろか、顔もぼんやりとしか覚えていなかった。
なんせ高校を卒業して十数年会ってないので、忘れていても仕方ないのかもしれない。
小さい頃は家が近所と言う理由だけでよく遊んだが、高校生になる頃には同じ高校に通っていてもろくに話もしなくなった。
お互い別々のグループに属していたというのもあるが、俺の場合は彼女に幼馴染み以上の感情を抱いてしまい、側にいるのが苦しくなったからだ。
当時の俺は、彼女に恋心を抱いていた。
顔は忘れてしまっていても、それだけははっきりと覚えている。
だが、その気持ちを伝えることはできず何のアクションも起こさないまま卒業してしまった。
だが、その頃から俺の中で一つの趣味と呼べるものが誕生する。
満たされない気持ちを埋めてくれる、快感にも似た道楽。
策を練りながらも忍耐力と鍛え抜かれた身体能力、又、不測の事態に対する瞬時の判断力が不可欠で、困難をなし得たときのあの達成感がたまらない一種のスポーツのようなアドベンチャー。
その名は───『下着泥棒』
これこそ天が俺に授けし才だと当時の俺に疑いの余地はなかったし、その考えは今でも変わらない。
きっとオリンピックの競技に『下唇泥棒』が追加されれば、俺が金メダルを持って帰って来てやるのに……。
******
そして今宵。
数日間の尾行で判明した彼女の住居である『城castle』を眼中に捉え、一歩一歩近づいていく。
かつて恋心を寄せた女の下着。
これ以上に興奮するものがあるだろうか。
必ず彼女の下着を手に入れてやる。
******
彼女の部屋は三階。
真下の二階には居住者がいるようだが、一階はいないようだ。
俺は一階のベランダの手摺に手をかけ、一気にベランダの中へ飛び込む。
きっと作りは同じであろうベランダの配置を確認し、雨樋を掴み強度を確認する。
一度しゃがんでから勢いよく垂直に飛び上がり、まるでどこぞの蜘蛛男のようにベランダの手摺に飛び乗った。
そこから目標地点の三階を見上げる。
しとしとと雪が降り、俺の顔に乗っかっては、まるでどこぞの人間蝋燭のように溶けていった。
幸いにも二階の住居人は不在のようで、なんの問題もなく目的の三階へ辿り着く。
毎度のことながら、高鳴る鼓動を静めるのに深呼吸をしては、はやる気持ちを落ち着かせた。
ベランダの手摺にそっと飛び移り、ゆっくりと中の様子を伺う。
部屋から話し声が聞こえるが、話し方やその内容からどうやら電話中のようだ。
お目当ての品物は俺がたどり着いた場所とは反対側にあった。
ベランダに着地すると物音で気づかれるかもしれないので、俺は手摺の上をゆっくりとゆっくりと摺り足で進んで行く。
天井と外壁に手をやり、体を支えながらゆっくりとゆっくりと、まるでどこぞの蜘蛛男のように進んで行った。
きっとオリンピックの競技に『手摺歩行』というバランス競技が追加されれば、俺が金メダルを持って帰って来てやるのに……。
お目当ての品物の近くに来たとき、ふと彼女の声が耳に入った。
「みきひさ君のこと?やだーそんなんじゃないよー」
上機嫌に浮わついたその声に、俺は聞き耳をたてずにいられなかった。
「何年も会ってなかったけど、こっち越してきてばったり会うなんてね!これって運命なのかな?運命なのかな?」
彼女の声に俺の鼓動はどんどん速くなる。
俺は器用にその場にしゃがんで安定した姿勢を取った。
「でもなぁ、あれからあのコンビニ行っても全然会えなくて。次会ったらどうしよっかなぁ」
これは俺のことだ。
絶対に俺のことだし、話の内容からするとまさか『さきちゃん』は俺のことが……
いやいや、そんなことはない。
電話相手の話す内容がわからないので確信は持てない。
「え?次会ったらそのまま家に連れ込んじゃえって?」
話の内容が気になってその場から動けない。
「えーどーしよっかなぁ。みきひさ君がその気なら全然襲われてもいいけど。え?私から?んーそれもありかも」
確信した。
と同時に下着泥棒という行為が恥ずかしくなる。
もしかして俺のことではないのか?という疑問は、『さきちゃん』は俺のことが好きだ、という確信に変わった。
だとすると、今ここでこんなことをしてるわけにはいかない。
彼女とはリアルでいい関係を築けるのではないか?
下着泥棒で得られる興奮以上のものを彼女から得られるかもしれない。
即ち彼女自身を、つまり妄想ではないリアルな肉体的感触を俺だけのものにできるかもしれない。
……よし、帰ろう!
そして明日、偶然を装って彼女と出会うんだ。
俺はそう思い、引き返そうと立ち上がったその時。
ガラガラガラッ
いきなり部屋の窓が開いた。
そこにはスマホを耳に当てながらこちらをみる女。
そいつとばっちり目があった。
──誰だお前は!
俺は頭に浮かんだその言葉をつい口に出しそうなり、すんでのところで息を飲んだ。
まず眉毛がない。
生まれつきの病気なのだろうか?
それに薬常習犯なような切れ長の一重。
目が開いてるのか閉じているのかすらわからない。
他にも色々あるが、つまりは『ブス』だった。
到底『さきちゃん』とは似ても似つかない。
おかしい。
部屋間違えたか。
ひとまず逃げよう。
だがその時。
数日前に聞いた、あの懐かしい声が耳に入ってきた。
「みきひさ君?」
その声!
間違いない、『さきちゃん』だ!
あまりの顔の変わり様に吐き気が込み上げてくる。
俺の知ってる『さきちゃん』はこんなブサイクじゃなかった!
こんなブサイクなら俺は盗みになんて来なかった!
俺の知ってる……俺の知ってる?
その時、思い出せなかったかつての幼馴染みの顔が突然フラッシュバックした。
そうだ!
この顔!
目の前のこの顔こそ!
そう思った瞬間、目の前のブスとの繋がりを意識してしまい気持ち悪くなって足を滑らせてしまう。
藁にもすがる想いで、とっさにパラソルハンガーにかかったパンツに手を伸ばす。
が、掴んだところで俺の体重を支えられる訳がない。
『下着泥棒が足を滑らせ三階から落下。すっぴんブスに動揺か!?』
落下しながらも、とっさに浮かんだ記事の見出し。
明日の朝刊一面は俺がもらったようなもんだ。
ドサッ
雪の上に落下したのか。
雪がクッションがわりになったのか。
とりあえず死んでない。
死んではいないが、身体中が痛い。
痛いのはわかるが、どこも動かない。
目に映るのは真っ白な雪景色。
その中に着地した時に口から飛び出した血の赤が斑模様に映えて、新進気鋭の水玉模様の様だった。
でも、もうだめだ。
死にたい。
今、死にたい。
誰か殺してくれ。
なんでぎりぎり生きてんだよ!
全然体動かないし、口ん中は鉄臭いけど唾も吐き出せない。
見つかる!
野次馬がくる!
こんな恥ずかしい思いするぐらいなら死んだ方がましだ!
生きてたら社会的に殺される!
そんなのは嫌だ!!
誰か殺してくれ!!
こんなことになるなら……
こんなことになるなら……
なんとなく体が冷たいのは雪のせいなのか。
それとも血の気が引いたせいなのか。
ぐにゃりと曲がった右腕。
それがさっきまで自分の一部だったと思えば思うほど、俺は『嘔吐』しそうになったが体は何の反応も示さない。
吐き気と共に意識が薄れていく。
真っ白な大地が黒くぼやけていく中で、それでもこの冷えた手が、掴んだパンツを握りしめていた。
了
──先月同様、二話でふざけます。
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