グッバイ、トラベラーズ

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プロローグ

 春の小雨を思わせるような音を立てて若い麦穂がうねる。

 フードを攫うほどの風ではなかったけれど、私は反射的に襟元を押さえた。やがて足音だけしか聞こえない世界が戻ってくる。

 時折小さな民家や放牧地と出会すものの、景色の殆どはパッチワークのように広がる畑ばかりだ。構わず先へ進んでいくあの人の姿が無ければちゃんと進んでいるのか不安になっていただろう。それにしても歩調を合わせるくらいしてくれたらいいのに、と思ってしまう。恨みがましく背中に視線を投げかけてみるが、もちろん距離が縮まるようなことは起きない。諦めて不満を飲み込み、私は昼下がりの日差しをやわらかに受けて照り返す手元の地図に目を通し始めた。

 ――地上の台所と呼ばれる市場を持つ町・ノギ

 以前の町を発って一日が経った。日数と移動速度から考えるに次に一番近いであろう町はそこだった。街道沿いに南下していっているので地図によればそう遠くはないはず。ノギの町自体は平野部を越えた先の山間のふもとにある。この平野部一帯もノギの町に住む人たちが管理しているらしく、牧歌的な風景が目につくようになってきていた。だから向かっていく先におそらく間違いはない。けれど、ノギに立ち寄る予定はついぞ話題に上がらなかった。私は地図を畳み、代わりに付属の情報誌を広げる。これにはその町の歴史や伝統的な祭事が書いてある他に名物料理やお菓子なども記載されていて、これがまたすごく食欲をそそる絵と共に説明されているのだ。味を想像するだけでわくわくが止まらない。立ち寄らないとするにはとても心惜しかった。

 提案したらどんな反応が返ってくるだろう……?

 考えるだけでは何も始まらない。それに、このまま読み耽っていても距離がますます開いていくだけだ。大きな肩掛け鞄に地図と資料を戻すと、先よりもぐんとちいさくなった背中を見据える。歩調が緩んだ此方を全く構わない赤髪頭を睨み、唇と拳をきゅっと固く結ぶと後を追って駆け出した。背負った杖が手足に合わせて振り子のように揺れるので走るのはいつも一苦労する。

 やにわに追いつき私はそのまま横を駆け抜けると、息を整える間も無くずずいと眼前へと躍り出た。怪訝そうな視線をフード越しにひしひしと感じるが、ひと呼吸置いて私は話を切り出す。


「突然ですが勇者さま、ノギの町に立ち寄ってみませんか?」

「理由は?」

「食料も体力も十分といえ休める場所があれば休むというのも旅では大事なことではないでしょうか」

「……大層に語ってるが本音はどうせ大した理由じゃないんだろう?」

「むっ、美味しいものを食べたいということだって立派な理由になります!」


 むきになって言い返してしまったところで、先に言ったのが建前であることがバレバレだったことに気付いて口を噤む。そんな私を鼻で一笑すると勇者さまは目を伏せ、顎に節くれだった指を沿わせる。フードの陰から盗み見る勇者さまは垂れ目がちなのもあってか気だるげに見え、一見この提案に気乗りしていないようにも受け取れる。


「まあ、どっちの理由も確かに大切だろうな。……俺も食うのは好きだしな」

「ということは……」


 フード越しに伺う私に勇者さまは不敵な笑みを投げかけてくる。これは了承と受け取ってよいのだろう。恐らく、勇者さまのことだ。私のことをからかうためにわざと悩む素振りをして反応を楽しんでいたのだと思う。

 それでも嬉しいものは嬉しい。思わずやったーと声を上げて腕を上げてしまうが、その弾みでフードが外れてしまった。急に視界が明るくなったせいで目が眩む。私の目は淡い色をしているせいで人よりも光を眩しく感じやすいらしい。なので――本当は他にも理由はあるけれど――深くフードを被っているのだが、ふとした拍子によく外れてしまうのだ。慌てて被り直す前に、もう一度勇者さまの顔を仰ぎ見る。

 目が一瞬合う。鬱蒼とした森を思わせる目が緩く弧を描いた。そういう穏やかな笑い方は私の心臓に悪い。動揺したのを誤魔化すように私も笑ってフードを被り直した。そうする間に勇者さまは再び歩き始めていたので、急いで隣に並んだ。


「楽しみですね、勇者さま」

「ああ」

「どんなご飯が出ますかねぇ」

「ああ」

「……もう!」


 勇者さまの雑な返事に溜息をこぼしても私の胸は期待に高鳴っていた。胸元の揃いのブローチが光を受けてちかちかと瞬く。私たちの足はまっすぐノギの町へと向かっていた。

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