僕と彼女の二重螺旋
加香美ほのか
1.一
平成最後の夏は、かつてないほど暑い夏だった。そして僕にとっては、思い出に溢れてて、どうしようもなく忘れ難い夏だった。
茹だるような夏の日、エアコンの効きづらい安アパートの一室。観測史上初を告げるニュースキャスターの声を上書きする、窓の外のセミの声。そこにゆるっと通る、誰よりも愛しい人の声。
「ねぇ、もうこの関係終わりにしよう」
扇風機の前のベストポジションで、椅子にもたれてアイスをかじる彼女は、まるで今日の夕飯の話をするかのような気軽さでそう言った。僕は一瞬何を言われたのかよく分からないまま、読んでいた本から顔を上げて、数拍置いてから、自分が恋人から別れを告げられたことを理解した。
理解して最初に思ったことは焦りでも悲しみでもなく、『遂にか』という気持ち。遂にこの時がやって来たのか。
「今すぐ別れんの?」
尋ねると彼女は首を振る。
「ううん。そうだな……今年の、夏の旅行が終わったらにしよっか」
彼女がそう言うから僕は「そっか」と返して本を閉じる。
「じゃあ、平成最後の夏は最高の夏にしないとね」
パソコンの電源を入れながら言えば、彼女は吐息を溢すように、ふふ、と笑った。
いくつかウィンドウを開いて、良さそうなデート先を探す。山、神社、ショッピングモール、遊園地、博物館。数々の写真やレビューを眺めては画面を切り替えていると、後ろから覗き込んでいた彼女が「あっ」と声をあげた。
「ここ、懐かしい」
指差したのは海岸の写真。初めて二人きりで行った旅行先だ。
「あ、この階段、ハジメが蹴っ躓いたところだ」
「それを言うならここの見切れた防波堤はユイがビーチボール打ち込んだとこな」
瞬時にあの頃の思い出が蘇って、二人で顔を見合わせて笑う。
つい懐かしくなって近辺のスポットも幾つか開く。あっちは焼きそば食べた海の家、こっちは帰りに寄った日帰り温泉。そんな話をしていたら、無性にまた行きたくなってきた。
「せっかくだしさ、この海とか、思い出の地を回るのも良いかもね」
背後の彼女を見上げて提案すると、彼女は顔を輝かせて「いいね、それ」と両の手を合わせた。
夏のテーマが決まり二人で手帳を開いて日にちを合わせる。バイトの休みは元より合わせてあるから、トントン拍子で予定が決まった。
「凄い楽しみ」
そう言って嬉しそうに笑みを浮かべる彼女を見上げて、好きだなぁと心の中で溜め息を溢す。
***
平日朝の7時。財布と携帯と水筒と着替えを詰め込んだリュックを持って、アパートの階段を降りた。下ではバイクを道まで出したユイが早くと急かすように手を振っている。
駆け足気味に下りきると、彼女の手からヘルメットが弧を描いて飛んできた。慌てて受け止めようと数歩下がって、階段にくるぶしをぶつけてバランスを崩す。降ってくるヘルメットを何度か掌でバウンドさせて、無様ながらギリギリ落とさずキャッチすれば、けらけらとユイが笑った。
「おっまえなぁ……ここで怪我したら全部パーだぞ!?」
「はは、ごめんごめん。ハジメの運動音痴計算にいれるの忘れてた」
詫びれのない謝罪に「ったく」と後ろ頭を掻く。ヘルメットを被って、トップボックスにリュックを詰めていると、その隙にユイがバイクに股がってこちらを振り返った。
「ヘイ乗りな!」
「おい待て僕が運転手だろ」
ユイの腰を持ってずりずりとトップボックス手前まで引きずると、くすぐったいのか身をよじらせて、ひひひと笑う。
はらはらとヘルメットの隙間から溢れている黒髪が目に入り、ポケットを探ってゴムを出す。
「絡んだら危ないだろ」
「あ、忘れてた」
ユイは一度ヘルメットをとると手早く後ろ手に三つ編みを編んで、渡したゴムで括った。
「ハジメは素敵な彼氏さんだなぁ」
「当たり前だろ、お前の彼氏さんだぞ」
そう、僕はユイの彼氏。この旅行が終わるまで、僕はユイだけの僕で、ユイは僕だけのユイだ。
バイクに股がる。ユイの細い腕が僕の腰に回った。今日の最高気温は38度で、犬もエアコンの下で丸くなるような猛暑で、まだ朝だというのに既にじっとりと汗が滲む。
「合言葉はー」
「こまめな休憩!」
息ぴったりの掛け声を合図に、エンジンを吹かせた。
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