第2話
パリッとしたスーツへ身を包み、一人の青年が警視庁内を闊歩する。大股に歩くその様は、どう見てもベテランのそれではない。ダークブラウンの髪は歩くたびにふわっと揺れ、目元は切れ長。刑事らしからぬ甘いルックスに婦警がこそこそと黄色い声を上げるのにも、まったく気がついていないその人は、今日が初めての警視庁への配属だった。
彼の心の中にあるのは、刑事と言う仕事への期待と羨望。たったそれだけだ。
「失礼します!」
捜査一課のドアを開けて、大きな声であいさつをする。中で仕事をしていた刑事たちは、一度そちらを見るものの、さほどの興味もなさそうにまた仕事に戻っていった。
その中で、一人の若い刑事が、いやあ、すいませーん、と周囲へ軽く声をかけ、慌てたように駆け寄ってくる。細身だが精悍な顔つきで、よく鍛えていることが分かる。
「ええと、錦野蓮君、だったよね」
「はい!」
「いや声でかいね君……。きみが今日から配属されるのはここ、倉谷班」
連れられたのは、一つの島。5つの鉄製の机があり、新島は一番端の席を指し示す。写真立てが一つ置かれ、資料やノートが机の上に置いてあった。
「で、ここが君の席。ちなみに俺の隣」
「よろしくお願いいたします!」
「元気良いねえ。俺は新島一秀、よろしく」
「はい!」
錦野蓮、と呼ばれた男は新島の手をぎゅうっと握りしめ、何度か上下に振って熱い握手をする。新島は空いているほうの手で錦野の方をポンと叩き、なんとかその若くまぶしい挨拶から解放された。痛いのか熱いのか、握られたほうの手を錦野に背を向けてさすりながら、とりなすように言葉をかける。
「錦野くんは交番勤務だったんだっけ」
「はい。板橋の交番にいました。ずっと一課に憧れていて、やっと移動できました!」
「眩しいねェ……。そんな夢みたいなとこじゃないぜ、ブラックだよ、ブラック」
「そんなこと! ご期待に沿えるよう頑張ります!」
言いながら手を挙げて敬礼をしてしまう錦野に、新島は苦笑をもって返す。片手の手のひらを伸ばして額に当てる敬礼は警官がやるもので、刑事はその敬礼をしない。刑事は、体の上体を15度ほど傾け、軽く会釈する、それが挨拶なのだ。錦野もはっと気づいたのか、慌てて手を下げ、礼をした。
「気張らずね。それにしても、板橋か」
叱るでもなくただすでもなく、軽い励ましの言葉を新島が送りつつ、板橋という地名へ、どこか意味あるような言い方をした。錦野は不思議そうに首をかしげる。
「板橋が何か……?」
「うんにゃ、なにも。知り合いがあの辺に住んでんだ」
「へえ……」
あまり話したそうにしない新島の様子を、どことなく感じ取って、錦野はそのまま口を閉ざす。その時、一課のドアが開いた。
入ってきたのは、風格のある男。無精ひげにぼさついた黒髪。眼鏡の奥の瞳は黒くよどみ、いわゆる「刑事の目」をしている。
「おう、お疲れ」
「お疲れーっす。錦野君、こちら倉谷警部。ウチの班のリーダーね。あと、藤槙凌ってのがいるんだけど、いまは所轄と共同捜査だから、しばらく出張中。帰ってきたら紹介するから」
「宜しくお願いします!」
「おう」
周囲の刑事と同じように、さほど興味がなさそうに錦野へ返事を返す。顎を掻きながら、倉谷は新島へ目線を向けた。
「新島、ちょっといいか? すぐ終わる」
「ハーイ。じゃ、錦野くんはちょっと席に座って待ってて。マニュアルとか、読んでていいから」
「ハイ!」
乱雑に置かれた机の資料のなかに、どうやらマニュアルがあるらしい。刑事にもマニュアルっていうのがあるのかと、錦野は興味深そうに椅子へ腰を下ろした。
どうやら、この席は「誰か」の席だったようだ。写真立てには、黒髪の女性の写真が入れられている。写真を撮った人のことを、心から愛しているようにみえるが、その人がだれなのかは、分からなかった。
マニュアルを探して資料の山を探していると、一つの大学ノートがあるのに気が付いた。
「ん? 捜査ノート……? あんざい、ちあき……?」
先ほど一緒にいたのは、新島。紹介されたのが、倉谷。出張中なのが、藤槙。安西という名前は、出てきていない。
「そんなひと一課にいたっけな」
錦野は、興味のままに、表紙をめくった。
「それは、ありふれた事件でした。日本では年間千件以上の殺人事件が起こっています。その中でも猟奇的なものや狂気的なものはマスメディアの注目を集め、ワイドショーなどでも大きく取り上げられますが、この『事件』は決して、目立つそれではありませんでした。
ですから、これは、これから僕が生きていく上で、絶対に忘れない為に記しておく、いわゆる備忘録なのです。
その事件が起こったのは、今から一年前。二〇一七年、四月二十日、午後三時。僕が組対五課から捜査一課に移動になった、その初めての日の事でした。」
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