本篇17、杉、またパリへ行く。
増田朋美
第一章
杉、またパリへ行く。
第一章
その日、特に富士では何もなく、いつも通り通勤して、いつも通り通学して、いつも通り洗濯をして、いつも通りに勉強して仕事して、文字通りなんの変哲もない一日となった、はずだった。
ところが、
「わあー、地震だ、地震だ、地震だーあ。こ、こりゃ大変なことになるよーう。」
杉三と蘭がお昼の支度をしているところ、思いがけない地震が起きた。
「杉ちゃんそんなに騒がないでよ。とにかく揺れが止まるまで待たなきゃ。」
ところが、さほど大きな揺れではなかったらしい。すぐにストップした。なのでテーブルが倒れることもなく、窓ガラスが割れることもなかった。
「あー、びっくりした。さほどたいした地震ではなかったみたいだな。」
「そうだねえ。津波警報も何もないし、とりあえず大丈夫みたいだね。」
とりあえず、大きな地震ではなかったらしい。そのほか、津波警報が放送されたこともないし、避難指示も何も出なかった。最も、地震が起こるまでに自動的にテレビをつけて指示を出す、緊急地震速報も出なかったので、とりあえずよかったのかなと杉三も蘭もほっとした。
「震源地は一体どこだろう。ちょっと、調べてみよう。」
蘭が、タブレットを出して、先ほどの地震の震源地を調べてみると、
「かなり大きな地震だったようだね。震源は北海道だって。北海道の尻尾のぜんぜん名前の知られていないところが震源地だってさ。」
と、いうことはつまり、東北から関東まで巻き込んだかなりの大規模な地震だったのかと思ったら、意外にそうでもなく、青森で震度4程度、それ以外の場所でも震度4か3程度で、こちらのほうは比較的強い揺れではなかったようだ。蘭はとりあえずホッとする。
ところが、地震の揺れの強かった北海道は、かなり甚大な被害が出たようで、電波塔が倒れるとか、電車が不通になるなどが報じられていた。
「テレビがあれば、もうちょっと詳しいことがわかるんだけどなあ。杉ちゃんさ、こういう災害が起きたときに、どこで何が起きているかすぐわかるから、テレビはあったほうがいいよ。テレビ買わない?」
蘭は、これをきっかけに、テレビを買った方がいいのではないかと思ったが、
「いらないよ。テレビなんか。それに今回の地震だって、北海道なんて遠く離れたところだから、気にしなくていいのさ。」
何ていう返答がかえってきて、これでは杉ちゃんにテレビを買ってもらうのは、まだまだ先になるか、と肩を落とす蘭であった。
「さあ、ご飯の続きしよう。幸い火はつけてなかったから、火事になる心配もないよ。」
再び、包丁をとって、野菜を切り始める杉三だったが、
「本当にのんきだな、杉ちゃんは。関東大震災もこのくらいの時間に起きて、お昼の支度をしていたから、大変なことになったのに。ほんとに、防災意識がないんだから。」
暫く、蘭はご飯の支度を再開できなかった。
同じころ、製鉄所では。
「はあ、いきなり大揺れしてびっくりした。瓦斯コンロはすぐに止めたから、たいしたことはなかったけど、鍋でも落っことしたら、大変なことになるところだったわ。」
と、恵子さんが額の汗を拭いていた。庭を掃除していたブッチャーも、
「ああー、びっくりしました。庭を掃いていたら、木がメリメリという音をしたもんですから、ええーと思いましたが、幸いすぐに揺れは治まってくれましたねえ。しっかし、びっくりですよ。」
と、でかい声で言いながら台所に戻ってきた。
「ちょっとテレビつけてみましょうか。」
恵子さんは食堂に設置されていたテレビをつけると、電車が横向きに倒れていて、多数のけが人が運び出されている様子が報道されていた。ほかのチャンネルでは電波塔が倒れて、通行人がそれに巻き込まれたと報道されたり、また別のチャンネルでは、土砂崩れが起きて電車の駅が倒壊し、ホームで電車を待っていた人が巻き込まれるという報道がされていた。
「やだわあ。どこもかしこも地震の話ばっかり。」
「そうですねえ。俺たちの住んでいるところは何もなかったようですが、北海道では相当ひどかったようですね。」
二人は、暫く地震の報道に見入ってしまった。いつもなら、この時間は面白いことで有名なお笑い番組が放送される時間なのだが、そんな番組を放送するどころではなくなってしまったらしい。
丁度そこへ、恵子さんのスマートフォンが鳴った。
「あ、もしもし。あ、りょうちゃん?はいはい、ええっ!学校が休校?それで今から帰るの?」
電話の声で、その女性利用者は、ちょっと落ち着かないような口調でこう答えた。
「そうなんですよ。うちの大学は北海道から通っている子もいますから、そのご家族の安否が確認できるまでは、授業を取りやめにして、自宅待機しているようにとの事です。あやちゃんと二人で今から帰りますから、急で申し訳ないですけど、お昼ご飯を作ってください。」
「ええっ待ってよ。午後まで帰ってこないと思ってたから、何も用意してないわよ。それに、学生食堂はやってないの?」
「はい、今日は、生徒は午前中で一斉下校なので、学生食堂は営業を取りやめです。」
せめて、途中に食堂があれば、そこへ寄ってきてもいいのになあと思うのだが、大学から製鉄所まで帰ってくる途中に、営業している食堂は全くなかった。せめて駅の食堂はと思ったが、駅が工事中のため、食堂は休止中である。
「じゃあ、すみません。お願いします。早くしないと、電車がもう来るので、一度切りますね。」
「ちょっと待って!」
と、恵子さんは言ったが、電話は切れてしまった。もう少し話せたら、恵子さんはコンビニで買ってきたらと提案するつもりだったのである。
「あーあ、もう。ご飯の材料何てまだ買いに行ってないわ。それに、今から作ったら、帰ってくるのに間に合わないわよ。どうしよう、、、。」
「恵子さん、何か出前したらどうですかね。」
悩んでいる恵子さんにブッチャーはすぐ提案した。
「あ、そうか。でも、今の時間だと混雑してないかしら?」
「いや、あるじゃないですか。ほら、あの時病院で知り合った、中国から来た人がやっているラーメン屋ですよ。」
「そうか、その手があった!」
恵子さんは、ブッチャーの提案にすぐに乗り、スマートフォンをとった。
「あ、もしもし、ぱくちゃん?あの、出前をお願いしたいんだけど。とにかくすぐに作れるラーメンを、五杯持ってきて。二人の利用者が地震のせいで急遽帰ってくることになったから。じゃ、よろしくね。頼むわよ。」
「はいよ、毎度あり。」
その返事を聞くと恵子さんはすぐに電話を切った。
「これでご飯は確保したけど、これだけじゃなくて、テーブルの準備とかいろいろやらなきゃ。あーもう、地震とかこういう災害は、こんな二次被害も出すんだから!」
そんな風にぶつぶつ文句を言いながら、恵子さんは、テーブルを拭いて、お茶を入れ、箸を出すなど食事の準備をした。
この時、玄関の戸がガラッと開く。
「おーい、持ってきたよ。とりあえず、すぐにできる塩ラーメンを持ってきたよー!」
「あ、ぱくちゃんだわ。悪いけど、ちょっと取りに行ってきてくれる?」
「はい。」
ブッチャーは、すぐに玄関先に向かった。
「あ、ありがとうございます。すみません、急なお願い聞いてくださって。」
「いや、かまわないよ。大量注文は久しぶりなので、気合を入れて作ったよ。」
こういうときも、にこやかに言ってくれるぱくちゃんは、ある意味人が良すぎるというか、のんびりしすぎているくらいだ。
「とりあえず、五杯と言われたけど、どこへもっていけばいいの?」
「あ、すみません。四つは俺たちが食べるので食堂へもっていきます。あとの一つは水穂さんに持っていきます。」
「わかったよ。じゃあ、僕も手伝ってあげるね。ブッチャーは、四人分持って行ってあげてよ。」
ブッチャーは、そうすることにして、ラーメンどんぶりを二つづつ乗せた盆を両手に持った。力持ちのブッチャーには、ラーメンどんぶりなんて軽々だ。残りの一つはぱくちゃんが、四畳半に向けて持っていく。
そのうち、例の二人の利用者も帰ってきて、ラーメンを食した。二人は、これはラーメンというよりも、黄色いさぬきうどんでは?と主張して、恵子さんは説明に苦労したが、まずいという意見は出なかったのでよかったと思った。恵子さんたちが利用者さんたちと、楽しそうに食事をしていると、
「ちょっときて!ちょっと来て!大変、大変、大変だよ!」
鉄砲玉のようにぱくちゃんが飛び込んできて、何事が起きたんだと、皆驚く。
「何よ。どうしたのぱくちゃん。」
「いいから来て!はやく!」
ぱくちゃんに言われて、恵子さんとブッチャーは、急いで四畳半に行った。
それからしばらく、文字通り大変だった。まず、水穂をうつ伏せからあおむけに直し、口の周りにくっついた吐瀉物をふき取り、畳に付着した吐瀉物を雑巾でふき取る。と言っても、今回の汚れはいつもよりひどかったため、これでは畳屋さんへ電話しなきゃだめか、とブッチャーは言い、恵子さんに至っては、まったく、地震が起きた程度でこんなに派手にやらないでもらいたいものだわ、なんて愚痴を漏らす始末だ。まあとにかく、布団で寝ているだけの水穂には、それだけ恐怖心をあおった地震なのだろう。
薬が効いて、やっと眠ってくれた水穂を見て、ブッチャーも恵子さんも、大きなため息をついた。
「まあ、ぱくさんが連絡してくれたからよかったようなものですね。でも確かに、びっくりすると思いますよ。日本家屋ってのは、天井が丸出しになってますでしょ。天井の梁が折れてくるとか、ふすまが倒れてくるとか、そういう危険があるわけです。寝たままでしかいられない水穂さんには相当な恐怖だったのでは?」
とりあえずぱくちゃんが、現場の総指揮官として呼び出した、ジョチがそう解説した。
「そんなこと言ったって、うちの建物はみんなそうなってるわよ。そんなことで怖がっちゃ困るわ。」
「いや、そうはいってもですね、恵子さん。僕も経験あるからわかるんですけどね、寝たきりでいると、また違うものが凶器に見えちゃうんですよね。それは、おそらく経験者でないとわからないという。」
「確かにそうかもしれないな。電球が落ちてくることだって、ありますしねえ。」
ジョチの解説に、ブッチャーはちょっと納得するように言った。
「まあそういうことなんですが、問題はここからですよ。地震は一回だけでおしまいというものではないでしょう。今回、震源は北海道ということですけど、そこがまた揺れるかもしれないし、今回の地震に刺激されて、ほかの場所が揺れるということも考えられるので、もっと近いところが、という可能性もなくはない。だから、同じ恐怖を再び味合わせることになりますので。」
「だけど、うちには余っている部屋何てどこにもないわよ。みんなほかの利用者が使ってしまっていますから。だから、この部屋で寝ていてもらうしかないわよ。」
すぐに恵子さんは口を挟んだ。
「だ、だけど、こう何回も地震が来て、そのたびにこうされたら、畳が大変だねえ、、、。」
「そうだよねえ、ぱくちゃん。畳屋さんもいま人数が少ないから、北海道から畳の修理の依頼が来れば、大忙しってことになっちゃいますよ。ほら、この前の熊本地震の時もそうだったじゃないですか。熊本の旅館なんかが、張り替えてくれる畳屋さんの人数が足りな過ぎて、わざわざこんなに遠く離れた静岡の畳屋に依頼をしてきて大忙し、なんて言っていたでしょ。それに、被災地のほうを優先したいから、暫く待っててねと言われたこともありました。」
ブッチャーが、日本の畳事情を語った。確かに畳屋さんは廃業が相次いでいて、現在残っている職人は数少ない。なので、大規模災害が起こると、全国各地から張替のために集結することも珍しくない。
「そうですね。一度でここまで派手にされちゃうと、相次いで張り替えるとなれば、後回しにされる可能性もありますよね、、、。まあいずれにしても、少なくともあと十回は、余震があるのではないでしょうか。」
「ええー、そんなに?日本は地震が多いねえ。もうちょっと少ないところって、ないの?」
「いや、ないんですよ。ぱくさん。何処へいっても一生に一度は大地震という言葉がぴったりです。」
たしかに。何処の都道府県を探しても、大地震がなかったところなんて、どこにもないだろう。
「じゃあわかったわ。どっかよそのうちで暫く預かってもらうしかないわね。こういう日本家屋じゃあ、少なくとも水穂ちゃんにとっては安全ではないでしょうし。例えば、そうね、曾我さんのお宅で預かってもらうわけにはいかない?」
恵子さんが素っ頓狂な提案をした。みんなも、これが一番の方法ではないかと思った。
「そうですね、僕もそうしたいんですが、あいにくうちの店はテレビを撤去する作業が始まってしまうので、あまり快適に療養できる環境ではないかと。」
「え、テレビを撤去するんですか!」
ブッチャーは、驚いて思わず言った。
「そうですよ。ほら、うちに来るお客さんって、こんな言い方は失礼ですが、障害のある人が多いでしょ。一応、店の中にテレビは置いてあるんですが、これから先、地震の放送が暫く続いてしまうと、それを流したままにするのもかわいそうですからね。ほかの災害の時もそうでしたけど、一月くらい災害現場の中継ばかりして、コマーシャルも流さなくなるでしょうから。幸い、今回は津波の心配はないようですけど、津波の映像やら、土砂崩れの映像やら、道路が崩落した映像ばかり流されて、パニックを起こしたお客さんも多かったんです。お客さんばっかりじゃないですよ。うちでは従業員も事情がある人ばかりですから、こういう報道にはできるだけ触れさせないほうがいいということになりまして。」
確かにそうだ。大げさに報道されてしまうと、健康な人でさえも気分が悪くなることがあるが、障害のある人はもっとつらい思いをするだろう。
「せめて一つの放送局だけでいいですから、どこかでお笑い番組をやってもらいたいものですね。それで救われる被災者も少なくないんじゃないでしょうか。外国では、よくある話らしいですが、日本では、倫理観が強すぎて、無理なのかなあ。」
「もうさあ、どこか安全なところに避難させてあげたらどう?これじゃあ、あまりにかわいそうだもん。日本以外の、地震が少ないところってないの?いつものんびりしている、穏やかなところ。」
ぱくちゃんの言う通り、それしか方法はなさそうだ。これから先、テレビも政府も、教育機関もみんな地震の話ばかりになるだろうし、そこを避けて安全な生活をすると言ったら、間違いなく日本から出るしかない。どうも、個人主義が浸透してきているとは言っておきながら、災害の時にはお国のために戦おうという傾向が、日本ではまだ強く残っている。
「それしかないかもしれませんね。僕の知人でアメリカのカリフォルニア州に住んでいる人がいましたから、問い合わせてみましょうか。あそこなら、一年中暖かいところですから、少なくともここほど寒くないと思うので。」
「どうですかねえ、ジョチさん。俺、アメリカは犯罪の多い国家ですから、あんまり落ち着いていられないと思うんですよ。それに、最近当選した政治家があまり好きじゃなくて、、、。」
ブッチャーはジョチの提案に反対した。恵子さんまで、
「そうよ。あの変わり者の大統領はあまり好きじゃないわ。少なくとも、のんびりしているんだったら、ヨーロッパに行った方がいい。冬は寒いけど、そのくらい何とかなると思う。こっちより静かだし、地震の少ないところだし、暫く静養させてあげたら?」
という始末。そういうわけで、水穂を再びヨーロッパに出すことは決定的になった。そのまま飛行機をどうするとか、ヨーロッパ滞在の話になってしまったが、この間に静かに眠っているしかできない水穂に、かわいそうだなあとぱくちゃんは一声声をかけた。
「もしかしたら、うちのラーメンを食べてくれることは、もう二度とないかなあ、、、。」
その日の朝。
「おい、兄ちゃん。電話だよ。何でも国際電話だから、早く出てやってよ。」
店に出たジョチに、弟のチャガタイが、電話の受話器を突き出した。
「なんでも、本来は兄ちゃんの電話にかけるつもりだったそうだが、番号を間違えてこの店にかけちゃったそうだよ。」
「あ、はい。わかりました。うちの電話番号、もう少しわかりやすいといいのですが。」
とりあえず受話器を受け取って、
「はい、お電話代わりました、、、。」
と応対した。電話の相手は、マークさんだった。
「どうもです。いやあ、すごい地震でしたね。テレビで放送されてびっくりしましたよ。電波塔が倒れたりして、お宅に電話を掛けられるか心配だったんですが、とりあえずつながってよかったです。」
どうやら、静岡が被災したと思ってしまっているらしい。
「何ですか。フランスでも放送されているんですか?」
「はい。そっちに救助隊を出すと政府が言っています。もう間もなくつくんじゃないかと思いますよ。テレビをつけたら、いきなりエッフェル塔みたいな電波塔が倒れた映像が出たもんですから、あれが、簡単に倒れてしまうのかと、もうフランスでは大騒ぎになっています。」
「そうですか。幸い電波塔が倒れたのは、北海道で、僕たちの住んでいる静岡とは遠く離れてますから、心配ありません。壊れたものは、何も在りませんが、落ち着いて生活できないのは、どこでも同じです。」
「あ、そうですか。北海道がどこなのかわからないので、てっきりすぐ近くなのかと思ってしまいました。」
そう、遠く離れた北海道なのに、テレビのせいで、すぐ身近なところで起きたのではないかと思ってしまう人が出るのが、何よりも報道被害だった。
「で、皆さんはどうしてます?誰もけがはしていませんかね。」
「あ、はい。幸い誰もいないのですが、ちょっと困ったことがあるのは事実です。もし可能であれば、僕のお願いを聞いてもらえないでしょうか。」
そういって、ジョチは昨日製鉄所であったことを手短に話した。
「あ、わかりました。パリは寒いので、防寒さえしっかりして来てくだされば、大丈夫です。」
「お願いしますね。」
これでやっと、何とかなるかなと思った。
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