やまよしの雑語り

山門芳彦

1.言葉が品性をつくる

 ときに、映画は夢を見せてくれる。 

 『雨に唄えば』といえば、米国の傑作ミュージカル映画だ。

 ディズニー映画や子供向けのおとぎ話に近い明快さは、大衆娯楽としての強みと言える。では稚拙かと言えば、そんなことはない。

 むしろ、考えられないほど上質なのだ。

 音楽、ダンスといった見せ場を、一流の俳優たちが完璧に踊り切る。

 雨に打たれる男の満面の笑み。

 タップダンスの子気味よさ。

 スター然とした立ち居振る舞い。

 暗い事や嫌な事も、歌とダンスが笑顔に変えてくれる。

 この成功物語を観ていると、「アメリカはいいなぁ」と思えるのだからすごい。

 『雨に唄えば』は、最高の夢を、銀幕の中に組み込んだのだ。 

  

 さて近年、僕が創作作品(商業含む)に触れて感想を抱くとき、一つの基準らしきものがあると気付いた。

 それは「品性」だ。

 なにも、ごく一部の界隈で知られる「品性を疑う」ネタに影響されたのではない。

 昔から思っていたことなのだ。

 人は、幼少に言葉を理解する頃から、言葉がもつニュアンスと付き合うことになる。人の言葉遣いは、その人の周囲の環境や触れてきたものによって形成されていく。方言は、最たる例だろう。

 ここで問題になるのが、子供が触れてきた言葉である。

 家庭環境、学校社会もさることながら、マスメディアやインターネット、創作物からの影響は計り知れない。

 ニュースの流行語やドラマの流行曲、タレントの発言が、僕らの目と舌と耳を侵していく。気が付けば僕は、ネットで見た「草生える」を口にするようになっていた。

 人間の営みは、その本質を石器時代から変えていないというのに、取り巻くもの、身につけるもの、時間の過ごし方も変わっていく。

 それでも変わらないものを求めて、僕は定期的にマクドナルドに行き、松屋に行き、ドンキに行く。陳列されるものは、日々変わっていくというのに。

 そして、それら変わりゆくものの一つが、言葉だ。

 言葉は規定された意味と付随するニュアンスを持つ。これらを組み合わせることで、僕らは新しい概念を想像する。プログラムの間に生まれたバグが、僕らの感情を揺さぶる。複雑な思考を浮かび上げる。

 言葉と実像を、主観で繋いでいく。その主観が、人格を形成する。

 「品性」とは、道徳的人格を意味するそうだ。

 この、品性の有無が、現代社会の課題である。

 文学や芸術は、認識の歪みや鋭敏な指摘を持つことで価値を持つ。

 娯楽の分かりやすさとは別物だ。

 そこに、品性の関わる余地はあるだろうか。

 漫画の神様――手塚治虫の漫画は、子どもに向けられた作品が多い。

 その漫画の言葉遣いは、現代語に囲まれた私たちからすれば、古臭い「昭和」を思わせる。しかし、彼の漫画が子供たちの言語形成に与えた影響は計り知れない。あの物悲しいストーリーと子どもを意識した言葉遣いが、当時の読者の品性を作る一助になったことを信じている。

 それは今の子供たちが、ユーチューバーの言葉を真似るようなものだ。それがときに、非常識な行動を助長することもある。

 僕もしょっちゅう、父の影響で没頭した「ガンダム」の言葉遣いを真似たものだった。

 「お母さん」を「母さん」に変え、「父さん」を、親の前以外では「親父」と呼んだ。

 それが、カッコイイと思ったのだ。

 そしてこれが、僕を長年に渡って苦しめてきたこともまた事実であった。僕がガンダムに夢中になったのはゼロ年代のこと。当時小学生だった僕の周りに、ガンダムを知る友達は一人としていなかったのだ。あの頃、僕らの間で人気だった漫画といえば、「ガッシュ」や「ナルト」だ。僕も少しは見ていたが、ガンダムの方が圧倒的に夢中になれた。

 思えば、この頃から僕はアニメに理想を求めていたのかもしれない。

 三島由紀夫が、終戦後に武人としての死に場所が無いことを嘆いたように、僕は漫画日本の歴史や世界の歴史の二度にわたる世界大戦の巻を何度も何度も読みながら、「戦士として死ねる時代に生まれてみたかった」と考えたものだ。

 戦士になるには、覚悟も、力も無かったというのに。

 いや、力がなくとも戦場で死ねば名誉だったのだ。現実の合わない世界で生き続けるよりも、時代の中で斬られてしまえばいい。

 ――振り返れば実に贅沢で、高慢な考えである。

 ネットで塵のように積もり続ける素人小説の山には、そういった願望を引きずった者たちが、今も細やかなエゴを紡ぎ続けているのだろう。

 『雨に唄えば』のフィルムから伝わってくる、生の感覚。圧倒される魅力。そういった実感を、僕はまだ充分に味わっていない。演劇や文楽も大して観ていない。恋愛経験もない。自殺未遂の第一発見者にはなったが、より豊かな人間関係やエピソードを目の当たりにするには、僕はまだ、行動が少ないのだろう。

 ともかく強引に話を戻すと、「言葉が品性をつくる」というのが私の仮説だ。

 べらんめえ口調の漫画ばかり読めば、素人小説を書いた時にそういう口調が出てくるし、方言に馴染んでいれば、自然と方言を綴るだろう。僕の場合、それが「ガンダム」的な話し方であるに過ぎない。

 口汚い粗暴な人間が出てきたときに嫌悪するのは、僕がそういう言葉を使う人たちと馴染めなかったこともあるし、経験として、そういう人間は品性下劣であるからだ。

 「ヒロアカ」の爆轟くんのように、口が悪くても賢いし信条を持っているキャラクターもいるのだから、一概にそうとは言わないが……。

 逆に、接客の時はニコニコ丁寧なのに、身内に対して口の悪い人もいる。その人は僕の前で、「人間の八割はクズ」だと言い切っていた。君はそのままでは生き残れないだろうと。確かに日本社会は、段々と暗くなっているのかもしれない。少子高齢、格差社会、学校及び家庭教育の問題、政治不信、大企業の失墜。僕にはあの人が、日々心を削り、肥えた腹にストレスを溜めて生きているように思えた。

 そう、僕の夢見た時代は彼方へと過ぎ去り、見えない未来が暴風の如く迫ってくる。

 太宰治が漠然とした不安から入水したように、疲れた人たちは線路に身を投げる。

 現在に、足場は無いのか。

 そう思うと、今日も眠気を言い訳にして、布団から抜け出せない。

 人を蹴落とす者たちは、落ちる人を嘲笑うだろう。次は我が身と知りながら。

 甘えるな、と。

 社会で使えない、と。

 死んでしまえ、と。

 だが、俺だけは違う、そうならないように生きてやる、と。

 生への肯定的執着と、競争心と焦燥は、孤独に歩く砂漠の夜。

 潤いはなく、ただ心を痩せさせる。

 灯りは見えても寄る辺なし。

 水を得るなら奪うべし。

 ……。そこに、創造への土壌はない。

 限界集落が、孤独が、コンクリートジャングルが、僕らの喉を癒さない。

 コンクリートに斃れても、土の肥やしにはなれない。

 ただ、「誰か……」と嘆いて、明日の糧を求めるだけだ。

 結局、確かな品性も乾いていく。先細り、なくなっていく。


 僕が心のどこかで闘争と暴力を求めるのは、ジャイアントキリングへの野心からではない。弱い者いじめで楽をしたいからだ。余裕が消えれば、そうなってしまう。

格差社会において金は、弱い者いじめの種となりうる。

 そして、闘争が死屍累々の山を築けば、それは新しい種への土壌となる。

 死が作り出してくれた肥えた土壌からは、僕らが想像しない豊かなものが生まれるのではないか。そんな幻想がある。スクラップ・アンド・ビルド。ゆえに、戦おう。殺そう。生き残ろう。莫迦者は声高に叫び、御せない人波の中で後悔を覚える。

 …………やがて自分に不幸が降り注げば、僕らは命乞いをする。

 品性を欠いたことが、最期に露呈するのだ。みみっちい恥部を晒して、切り落とされるだろう。よしんば情けをもらったとしても、晒す度に烙印が脳裏に浮かぶだろう。

 しかし残念なことに、闘争が発展の土壌となることを僕は知っている。

 戦争が新兵器を産み、兵器の技術が民間の製品に扱われることもある。ホッチキスは典型例だ。

 格差は言い換えれば、圧倒的な富の集中。富を持つ者が知性に金を注げば、新たなテクノロジーが生まれる。そして、その間にも貧乏人は死んでいく。

 それでも僕は、暴力を否定したい。競争が犠牲を産み、品性を壊していく限り、人間は人間を超えたとは言えないだろう。ホモ・サピエンスは、賢しい猿よりも無駄なことが大好きな、ただの哺乳類に過ぎないのだ。

 人間を進化させていく導きとして、言葉が紡がれてほしい。

 言葉はやがて実像と結びつき、概念は、多分にニュアンスを含みながら新たな問題を僕らの社会にもたらすだろう。想像が恐怖を産み、アクシデントがそれを助長するのだ。

 アクシデントへの嚆矢もまた、言葉であり、それによって形成される品性なのだ。

 

 そう信じる。


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