我が家に住むもの

「大丈夫だって。私、もう三年生だもん」

 心配する私に、そう言って智恵は胸を張ってみせた。まだ小学三年生の小さな娘だ。母親としては頼もしいと感じるよりも不安の方が大きい。

「それに、なっちゃんもイケノくんも鍵っ子なんだよ」

 両親が共働きで昼間は家におらず、帰ったら自分で鍵を開けて家に入る同級生。彼らが持つ鍵が、娘には随分と素敵なものに見えたらしい。それに、自分がしたことのないことを日常的にしている同級生は大人びて見えたのかもしれない。

 智恵は一人で留守番をしたことが無い。

 夫は一日中仕事で帰りは夜遅く。私も昼間はパートに出かけるけれど、それは智恵が学校に行っている間のことで、下校時刻には家にいられるようにしている。たとえもし私が帰りに間に合わなくても、家には同居している義母がいた。だから小さな娘が一人で留守番する機会なんて今まで無かったのだ。

 智恵の身支度を手伝いながら、どうしたものか、と考える。

 同級生の子たちもちゃんと留守番できているのなら、うちの子だって大丈夫だろうか。でも、普段の様子を思い返すと不安になる。途中で寂しくなっても、何か起こっても、家には娘の他には飼い猫が一匹いるだけなのだ。

 私の悩みなど知りもしないで、黒猫は階段の下で丸くなっていた。

 今日も帰りが遅くなることだけ告げて、夫は仕事に行ってしまった。

 義母がここにいたら相談出来たのに。いや、そもそも彼女がいたら智恵が留守番する必要も無かった。

 登校時刻が迫ってくる。

 結局、私は家を出る娘の手に鍵を握らせた。

「じゃあ、お留守番頼んだわね。お母さんちょっと遅くなるけど、本当に大丈夫?」

「だいじょうぶだって」

 何度も確認する私に、何度も同じ言葉を返して智恵は学校に出かけていった。



 今日は朝からずっと放課後が待ち遠しくてそわそわしていた。それなのに時間が経つのはやけにゆっくりとしている。

 早く授業を終わらせたくて、たくさん手を上げてたくさん発表した。

 休み時間は友達とおしゃべりしながら、ポケットの中で何度も家の鍵を握り締めた。

「私、今日は鍵っ子なんだよ」

 初めて一人で留守番をするのだと、なっちゃんに話していたら横からイケノくんが現れて言った。

「別に大したことじゃないよ、留守番なんて」

 ちょっと意地悪な言い方に、むっとして言い返す。

「私にとっては楽しみなの!」

 まあまあ、となっちゃんが間に入ってきた。

 確かに少し緊張はしている。でも今こうして話している二人にとっては、いつものことなのだ。だったら恐くない。

 なっちゃんは言う。

「おやつ食べたりテレビ見たりしてたら、あっという間だよ」

「ふうん」

 そんなものなのか、と思いながらポケットに手を入れる。

 握り締めた鍵はひんやりと冷たい。


 待ちに待った放課後。

 校庭でドッジボールだとか公園でけいどろだとか、色々と楽しそうな話が聞こえてくる。他の日なら飛びつくような遊びの誘いも、今日の私は全部断った。

 走り出しそうになるのを抑えようとして抑えきれず、早歩きで通学路を帰る。お寺の前で日向ぼっこする野良猫や、スーパーの前の屋台でくるくると引っくり返されるタコ焼きを見ても私の足は止まらない。

 寄り道せずに家までまっすぐ帰ってきた私は、玄関先に立つと一つ深呼吸をした。

 ポケットから鍵を取り出す。

 キーホルダーも何もついていなくて素っ気無い見た目の鍵。ぼんやりと光をはね返すそれを鍵穴に差し込んでゆっくりと回す。かちゃり、と軽やかな音がして鍵が外れた。

 緊張しながら玄関に入る。

 床のタイルのくすんだ色も、下駄箱の隅に砂が溜まっているのも、全部いつも通りだ。それなのに、まるで初めて遊びに来た友達の家のような、新鮮な感じがする。

 傘立てってこんな模様だったっけ? 下駄箱の上にカレンダーなんて置いてあったんだ。

 そうして奥の方に目を向けていく。玄関マット、居間や和室への入口、階段。廊下はそこで折れていて玄関からでは先は見えない。境目のはっきりしない暗がりが見えるだけだ。

 しん、と静まり返った家の中。

 薄暗い突き当りを見つめているうちに、その陰が広がってくるような気がする。そして、その向こうから何かが迫ってくるような……。

 ガタン。

 突然耳に飛び込んできた物音。驚いて肩がはねた。

 玄関のドアに背中がぶつかるまで後ずさる。両手で握りしめた鍵が冷たかった。

「何だ、チエじゃないか」

 声が私の名前を呼んだ。聞こえてきた方を見ると廊下の右手、手前の部屋から赤い首輪の黒猫が出てきた。

「クロ」

 うちで飼っている猫だ。名前を呼んだら向こうの方へ行ってしまった。可愛げのない猫は階段の下に座り込む。

「情けないなあ、こんなことで驚いちゃって」

 私は靴を脱ぎ捨て駆け寄ってクロを抱き上げた。腕の中から猫は、それほど心配そうでもない声で言う。

「どうしたどうした。そんなに怖かったのか?」

「大丈夫だもん。私だって留守番くらいできるんだから」

 首を横に振って私は階段を上り始める。

「留守番?」

 クロは納得がいかないような顔で訊いてくる。

「お母さんはどうしたんだよ。今日はどこに行ってるんだ?」

「病院。一昨日おばあちゃんが入院したでしょ」

 おばあちゃんはここしばらく調子が悪そうで、一昨日の夕方には胸が苦しいと言い出した。日曜日で家にいたお父さんに病院に連れていってもらったら、大事を取って入院することになった。

 階段を上りきって左側の子供部屋に入る。

「入院! どうりで昨日今日と静かだと思った」

「それにお母さん、今日はおばさんの所にも用事があるから遅くなるって」

 クロとランドセルを床に下ろして、私は絨毯の上に座り込んだ。

「留守番なんて、別にいつもと変わらないよ。居ても居なくてもお母さんってば構ってくれないんだもん」

「そうだよなあ。あれだけ毎日薬飲み忘れてたら、調子悪くなってもおかしくないよな」

 愚痴をこぼす私にはお構いなしで、クロはおばあちゃんの入院に一人納得している。

「ちょっとクロ、聞いてよ」

「そんなことよりおやつ食べよーぜ」

 私の不満を『そんなこと』の一言で片づけてクロは言う。どうやらお母さんがいなかったから、おやつが食べられなかったらしい。

「後でね」

 話を聞いてくれなかった仕返しとばかりに言ってやると、えー、とクロは不満の声を上げた。本当のところは私もおやつを食べたい。でも、その前にすることがあるのだ。


「ごめんね。ちょっとこれだけお手伝いしてほしいの」

 そう言ってお母さんから頼まれたのは、洗濯物の取りこみと水場にあるタオルを取り換えること。水場と言っても台所とトイレと洗面所だけなので、特に大変なことではないはずだった。

 洗濯物は隣の部屋のベランダに干してある。子供部屋を出てすぐの、そのドアの前にきて私は足を止めた。

「どうしたんだよ」

 不思議そうに見上げてくるクロ。

「そう言えばこの部屋、お人形いるよね」

「人形?」

「あの、髪伸びるやつ」

「市松人形か。うちのは大丈夫だって、ただの人形だろ」

 クロがなだめるように言う。

「でも……」

 気味の悪いものがある部屋に入りたくなくてぐずぐずしていたら、何か変な歌が聞こえてきた。ドア越しで歌詞は聞きとれないけれど、その甲高い声は部屋の中から聞こえてくる。

「ねえ、何か聞こえる」

「何だ?」

 ドアを少しだけ開けて、そっと部屋を覗いてみる。壁際の棚の上に置かれたガラスケースの中で、着物姿の人形が音っぱずれな『ふるさと』を歌っていた。

 それを聞いたクロが呟く。

「音痴」

「しっ」

 慌てて口の前で人差し指を立てたけれど、声になって出た言葉は聞こえてしまったらしく、市松人形がこちらを見る。

「何サ、盗み聞きなんて行儀の悪い猫め!」

「うっさい音痴」

「ちょっと、クロ!」

 きゃんきゃんと耳に響く人形の声。それに負けじと言い返すクロを止めていると、市松人形は私の方に顔を向ける。

「オヤオヤこれは、独りぼっちの寂しい子。今日は一人でお留守ばァん」

 甲高い声で歌うように言って、人形は笑い転げる。

「寂しいねェ、寂しいねェ、アハハハハ」

 ガツンガツンとガラスケースの内側に頭をぶつけて笑い続ける。

「ど、どうしよう」

 人形の勢いは不気味だし、どうしたらいいのかわからない。足下の猫に助けを求めると、クロは落ち着き払って言った。

「構うことないさ、どうせガラスの箱の中だ。何かしてくることなんて出来やしない」

 言われてみれば確かにそうで、それでも恐る恐る私は部屋に足を踏み入れた。入って正面にあるベランダに行くのに、市松人形のいる所を大きく避けて反対の壁際を通っていく。

「寂しいねェ、寂しいねェ、お母さァん!」

 無事にベランダに続く窓まで来ると、困ったことに気付いた。

「ねえ、クロ。私、物干し竿に手が届かないよ」

 ハンガーに掛かっているものは、うまく引っ張れば服だけ外れて取り込めると思う。でも、竿に通してある洗濯物を外すには、物干し台から一度竿を下ろさないといけない。物干し竿の上げ下ろしは背が低い私にとってかなり難しい。

 クロは部屋の中をざっと見回して言う。

「そうだなあ。ああ、じゃあ、そこの化粧台の椅子を使おう」

「さァびしいねェ、寂しいねェ、びえェェェん!」

 化粧台の椅子は大人に合わせて作られていて、私が運ぶには少し大きい。でも、背もたれの部分を両手で持つと、運べない重さではなかった。

 窓を開けてベランダに椅子を出す。クロは窓の所に座り込んでこちらを見守っている。

「どうだ、届くかぁ?」

 洗濯物を片端に寄せておいてから、椅子に上って竿から外していく。これなら何とかなりそうだ。

「大丈夫」

「寂しいねェ、寂しいねェ、寂しいよォ」

 洗濯物が腕一杯になると、一度部屋の中に戻って絨毯の敷かれた床に下ろす。そしてまたベランダに出て、今度は洗濯バサミで止められたものを取りこみに掛かる。こっちは引っぱるだけで外れるから簡単だ。

 クロが、はたりと尾を振って言う。

「やれば出来るじゃないか。背が低いのが惜しいけど」

「一言多い」

 偉そうな口振りにむっとしながら、洗濯物を下ろしに再び部屋に戻る。

 大人のお母さんに比べて私は腕が短いから、すぐに洗濯物を持ち切れなくなる。その分、何度も部屋とベランダとを往復しなければならない。

 またベランダに戻ろうとして、ふと、聞かないようにしていた市松人形の声が耳に入ってきた。

「寂しいよォ」

 そういえば、随分声に元気が無くなっている。

 見ると、俯き加減でガラスケースの内側にもたれかかっていた。何だかとても落ち込んでいるようだ。

「話を聞いてよ、こっちを向いてよ、洗濯物なんてそんなもの放っておけばいいじゃないかァ」

 少し可哀想に思えてきた。

「何か元気無くなっちゃったね」

「まさか泣き出したりしないだろうな。あいつ泣いたらうるさそうだ」

 クロの冷たい反応に苦笑いしつつ、まだベランダに残っている洗濯物を取りにいく。

 ようやくタオルもハンカチも靴下も、一つ残らず取り込み終わる頃には、腕がだるくなっていた。化粧台の椅子を元に戻して窓を閉める。

 半べそをかいていた市松人形はどうしているかと思ってガラスケースを見た。

 本当は突っ伏して泣きたかったのだろう。でも、ガラスケースにはそれだけの幅が無くて、市松人形は途中で突っ掛かって斜めに立て掛けられたようになっていた。

「構っておくれよ、お願いだからさァ」

 さすがにこれを放っておくのはあまりに可哀想で、ガラスケースの正面にしゃがんでその顔を覗き込む。

「……何サ?」

 じろり、と人形の目がこちらを見る。

 人形は普段なら白く整っている顔をぐしゃぐしゃにしてべそをかいていた。正直言って物凄く恐ろしい顔だった。でも、いつものすまし顔と比べると少し可笑しい。

「今は頼まれごとがあるから駄目だけど……」

 私はガラスケースに積もった埃を払って人形の白い顔を見る。

「終わったら戻ってくるから、後でまたお喋りしようよ」

「……」

 人形がじっと私を見つめてくる。

「後で、っていつ?」

 ポツリと人形が言った言葉を前にどこかで聞いた気がして、とっさに返事ができなかった。私が答えに困っているうちに、人形は表情を無くして動かなくなった。

 ガラスケースの前で瞬きを繰り返す私の横にクロがやってくる。

「ほら、次はタオルの交換なんだろ。ぼさっとしてるとまたそいつが騒ぎ出すぞ」

 そして開けたままのドアからさっさと出ていってしまう。

「待ってよ」

 その背を追って私も立ち上がった。


 洗濯物の山からタオルを三本抜き取って部屋を出ると、クロはもう階段を下りようとしている。

「待ってってば」

 ひょいひょいとあっという間に階段を下りてしまうと、クロは振り向いて言う。

「何やってんだよ、早くしないと汽車が来るぞ」

 遅れて下りきった階段の下で私は立ち止まった。

「そんなの来ない」

 そう言いながらも、足下に規則的な振動が小さく伝わってくるのを感じて、廊下の奥に目を向ける。その先にある暗がりから、トンネルを抜けてくるように汽車がやってくるのだろうか?

「本当は来ると思ってるくせに」

「思ってない!」

 クロのからかい口調に即座に言い返して、同時に自分に言い聞かせる。

 大きくなっていく振動も、ガッシ、ガッシと聞こえてくる音もきっと気のせいなのだ。

「さあて、どうだか」

 一跳びで居間に入るクロに続いて私も駆け込む。

 その時。

 オオオオオオォー。

 背後の廊下を吹き抜ける強い風と、嘆くような轟音。

 驚いて振り返る私を見てクロがけらけらと笑っていた。

「今の……何?」

 風の名残が吹く他はいつも通りの廊下が目の前にあった。

「だから言っただろ、早くしないと汽車が――」

「アラ、今日は一人でお留守番なの? 偉いワァ」

 クロの言葉を遮って聞こえてきた声に振り向く。

 居間のテレビの上、そこに派手な色のインコがいた。

 顔や羽には木目が見えて、それが木彫りの置物なのだとわかった。目玉ばかりがぎょろぎょろとした細身の鳥は、私の手に握られたタオルに気付いてキーキーと高い声で喋る。

「アラ、お手伝いもしてるの? 立派だワァ」

「うるっさいなあ」

 高音が気に食わないのか、不機嫌そうにクロは言う。

「さっさと行こうぜ」

 そうして私たちが居間の奥からキッチンに続くドアに向かおうとすると、なおもインコは喋り続ける。

「アラ、お台所に行くの? そうねェ、ご飯がまだだものネ。でもお台所には何も無かったワ」

 テレビからソファの背もたれに飛び移ってくるインコ。

「ううん、お腹が減ってるわけじゃなくてタオルを――」

 答えながらドアに手を伸ばそうとすると、インコはドアと私の間に突っ込んできて叫ぶ。

「だからご飯がまだだと言ってるデショ!」

 目の前でぐるぐる飛び回るその勢いにおされて、私は思わずドアから離れた。

「ご飯はまだカイッ、いつになったらご飯ナンダ!」

 お腹が減って気が立っているのかインコは騒ぎ続ける。それを見上げながらクロは言う。

「どうするんだよ、キッチンに入れないのに食べ物なんて用意できないぜ」

「うーん」

 食べ物、食べ物、と唸りながら考えて、今日の給食で残したパンを思い出した。あれなら子供部屋のランドセルの中だ。

「クロ、子供部屋に戻ろう」

 インコに背を向けて駆け出す。でもその足も居間の入口で止まった。

 目の前、廊下に続いているべき場所に黒い壁があった。でこぼこしている所もあれば、丸まっている所もある、平らではない壁。廊下の壁との隙間を覗き込むと、それはずっと向こうの方まで続いているらしい。廊下の先にあるはずの玄関は見えない。

「何これ?」

 わけがわからないでいるとクロが下から言った。

「汽車だよ。ほら、車輪がある」

 言われてみれば、大きすぎて気付いていなかったけど、確かに円形の車輪のようなものがある。でも、どうしてここに汽車が止まっているんだろう。

「これって、さっきの?」

「まったく邪魔くっさい」

 文句を言うクロの横で、油っぽくてかる車体を叩いてみる。

「すみませーん。あの、ここ通してください!」

 耳を澄ませて返事を待っていると、汽車の後ろの方から声が聞こえてきた。

「毎日毎日朝カラ晩マデ働カセテイタダキ、アリガトウゴザイマス」

 車内アナウンスの錆びついた声で、皮肉ったような言葉が聞こえてくる。

「本日ハ待チニ待ッタ休業日ニツキ、ゴ利用ニナレマセン」

「え、ちょっと!」

 そしてそれっきり汽車は黙り込んでしまった。車体を叩いても声を掛けても返事は無い。

「そんな……」

 肩を落として戻るとインコが待っていた。ソファの背もたれの上でインコは首を傾げてみせる。

「ネェ、ご飯まだナノヨ。何か無いカシラ?」

「ごめん、取りに行けなかった」

 謝ること無いのに、というクロの声を掻き消すようにインコの声が響いた。

「何ヨッ、アンタはワタシを飢え死にさせる気ナノカッ」

「だって汽車が停まってて……」

「アァ、何てこと! アァ、何て酷い!」

 インコは話を聞こうともしない。目玉をぐりぐり動かして、ばさばさと羽ばたいて嘆く。

「どうしよう、クロ……」

「どうしようったって……もう、こうなったら取って食っちまうか、あのインコ」

 返事に困ったのだろう猫の、とんでもない意見。慌てて首を横に振る。

「駄目だよ。あのインコ、おばあちゃんのお気に入りなんだから」

 泣きたい気持ちを引きずって、再び居間の入口に戻る。相変わらず汽車は沈黙したままでそこに停まっていた。

「ねえ、お願いだからそこを退いて!」

「……」

 返事は無い。

「これじゃあ通れないでしょ!」

「……」

 うんともすんとも言わない汽車。留守番なんて、と簡単なことのように思っていたのに、こんな所でつまづいている自分が情けなかった。どうしようもなくて俯くと、目に涙が滲んでくる。

「これじゃあ、お母さんに頼まれた仕事できないよ……」

 ほとんど泣き声でそう呟いた時だった。

 ざざ、という雑音が聞こえた。顔を上げて目の前の黒い車体を見上げる。

「……シゴト、仕事?」

 聞こえてきたのは、あの錆びついた声だった。

「そう、仕事なの!」

 目元を拭いながら私は言う。するとアナウンスではなく、溜まっていた空気を吐き出すような音がした。

 ハアアアアアアアァー……。

 溜息のようなその音に続いて大きな車輪が回り始める。ゆっくりと汽車が動き出した。

 シ、ガッシ、ソ、ガッシ、ソガッシ、ソガッシイソガシソガシイソガシイソガシ……。

 玄関の方へ走り去る汽車。目の前が開けても立ち尽くしている私をクロが促す。

「行こう、もう通れるよ」


 階段を上って子供部屋に戻り、ランドセルからナフキンで包んだ食べかけのコッペパンを取り出す。

 部屋を出た所で、隣の部屋から市松人形のものらしいわめき声が聞こえてきた。クロが顔をしかめる。

「そうら、騒ぎ始めたぞ」

 何をわめいているのか聴き取れなくて、部屋の前に行こうとするとクロが不機嫌な声で言う。

「放っときゃいいんだよ、どうせ構ってほしいだけなんだから」

「でも……」

「そら、行くぞ」

 市松人形は気になるけど、クロがまた先に下りていってしまったので慌ててついていく。

「置いてかないでよ」


 居間に戻ると、さっきと同じようにインコはソファの上にいた。

「ご飯はマダァ? ご飯はマダァ?」

 ばたばた羽ばたきを繰り返すインコに、私はパンを差し出した。

「はい。これ、給食の食べ残しだけど」

 インコは目の前のコッペパンを見つめる。

「ご飯……」

 穴の開くほどまじまじと見つめる。

 そして、

「アァー」

 泣き声のような嘆くような声が発せられた。

「嫌ダワ、ワタシ……ご飯はもう食べてたのヨネ……」

 そしてぶるぶると首を振る。

「忘レタ……また忘レタ……どんどん忘れてくワ……」

「だ、大丈夫?」

 あまり勢い良く振るので、このままだと首が飛びそうだった。心配になって声をかけると、インコは私を見上げて謝った。

「ゴメンナサイネ、最近とんと物忘れが酷くナッテ。年を取るっテ、嫌なモノネ」

 そして元いたテレビの上に戻っていく。

「ドウゾ、アナタのやりたいことをナサッテ。ワタシ、もう黙っていますカラ」

 それきり本当にインコは黙ってしまい、動きもしなかった。


 キッチンで流し台のタオルを交換すると、私たちは身動きしないインコを横目に、居間を通り抜けて再び廊下に出た。

「汽車はもう来ない?」

 前と後ろとを気にしながら訊くと、クロは先を歩きながら答える。

「当分ね。今日も遅くなるって言ってただろ」

「何が?」

 何のことか尋ねてみても、それには答えないクロ。

 廊下の薄暗い突き当りを曲がってトイレの前に着いた。ドアノブに手を伸ばした所でまた楽しそうな声が言う。

「寂しがりやの市松人形、忙しい汽車、物忘れのお喋りインコ。次は誰だろな?」

「だから何なの? さっきから」

 言いながらトイレの明かりを点け、ノブを回し、手前に引く。

 開きかけたドアの隙間、目の前に現れたのは気持ち悪いくらい笑いに崩れた表情の仮面だった。

「遅い!」

 その仮面を被った何者かに怒鳴られて、思わずドアを閉める。前体重をかけて背中でドアを押さえながら呆然と呟く。

「……今の、何?」

「さあ?」

 クロは特に驚いた様子はない。

 中からドアを開けようとする動きがないのを確認して、私は一歩後ずさる。

「おいおい、タオル交換するんだろ?」

 でも、そうは言われてもトイレには得体の知れない何者かがいる。変な仮面を被った、変な人が。

「大丈夫、襲ってきやしないさ」

 落ち着き払ってクロは言う。

 ドアの小窓からさっきのおかしな仮面がこちらを覗いているのではないかと思ったら、閉まったドアを見ることさえ怖くなってきた。クロの方を見て訊く。

「何で?」

「向こうはそれどころじゃないから」

 それどころじゃないとは、どういうことなのか。

 でも、このドアを開けないことにはタオルは交換できない。恐る恐る手を伸ばし、そっとドアノブを握る。ゆっくりと回して一息。思い切ってドアを一気に開け放つ。

 そこにはさっきの、気持ちの悪い笑いの仮面を被った人が立っている。

「一体いつまで遊んでるつもり!」

 詰め寄ってくる仮面の人。後ずさる私。

「わ、私、タオルを……」

「後にしてって言ってるでしょう!」

「で、でも……」

 その剣幕が怖くて肩をすくめる私に、仮面は言葉を続ける。

「そんな所で寝転がらないでよ、邪魔なのよ!」

「え?」

 私はもちろん、クロも寝転がってなんかいない。

「またなのッ、一体何回食べれば気が済むの!」

「……」

 変な仮面を恐れる気持ちも忘れて、私は呟いた。

「私に言ってるんじゃないの?」

 突然、顔から笑いの仮面が落ちて、その人は頭を抱えて膝をつく。体つきとさっきの言葉からすると女の人だ。彼女は座り込んだまま顔を上げる。

 笑いの仮面の下から現れたのは、また仮面。今度は怒りの表情だった。

「ごめんね、ごめんね……構ってあげたいのよ、嫌いじゃないの。だからそんなに呼ばないで」

 ぎりぎりと歯を食いしばり、目の吊り上った恐ろしい表情の仮面。

 でも、まるで泣いているような声が言う。

「忙しいのはわかってる。疲れてるのもわかるのよ、だって私もそうだもの。少しだけでいいのよ、協力してちょうだい」

 怒りの仮面を被ったまま彼女は嘆く。

「そんな風に謝らないでよ。いっそ嫌いになれたらいいのに」

 私は彼女を見ていることしかできない。

「なあ、あのセーター」

 クロに示されて、仮面を被った女の人が着ている服を見る。

 それには見覚えがあった。あのセーターは――

「お母さん?」

 怒りの仮面が落ちる。

 次に現れた仮面は泣き顔だった。何があったらこんな顔になるのかわからない。悲しみが深いシワになって刻み込まれた顔。悲しみの仮面を被った女の人は優しい声で言う。

「なあに? 後で行くから待ってて」

 仮面の下では微笑んでいるのではないかとさえ思えるその声は、間違いなくいつものお母さんの声だ。

「お帰りなさい、大丈夫? 疲れてるでしょ」

 そしてこれは、お母さんが私に、お父さんに、おばあちゃんにかける言葉。

「お昼ならもう済みましたよ。ああ、じゃあお茶にでもしましょうか」

 私は叫んだ。

「お母さん!」

 そして、仮面が落ちる。

 そこにあったのは、お母さんによく似てはいるけれど何の感情もない、無表情の仮面。

「お母さん?」

 私の声に何の反応も見せず、脱力したように座り込んだ彼女は天井を見上げて一言。

「疲れた」

 その言葉の余韻を残して、仮面も女の人も溶け崩れるようにして消えてしまった。


「おいタオル」

「あ、うん」

 クロの声で我に返った私は、トイレの壁にかかっているタオルを取り替える。洗面所はトイレの隣にあるのでそのまま洗面所のタオルも取り替えた。

「あーあ、やっと終わった」

 洗面台の鏡に映るのは、取り替えたタオルを持ったまま、ぼーっとしている私。

 洗濯機の上に飛び乗ったクロが鏡に映り込んで伸びをした。

「なあ、おやつ食べよーぜ」

「ねえ」

 おやつの前にクロに訊きたいことがあった。

「家の中って、いつもこうなの?」

 私の問いに、ぱっちりとした猫の目が瞬きを二回。

「そうだよ」

 あっさり答えてクロは逆に訊き返してくる。

「知らなかったのか?」

「知らないよ、こんな変なことになってるなんて」

 そう言い返すと、クロは洗濯機の上に座り込む。はたりと尻尾を振って話し出す。

「俺はずっと見てたよ。寂しがりやが騒ぐのも、今日は仕事だ、今日は休みなんだって言って周りを見ようとしないデカブツも、お喋りが忘れた忘れたって同じこと繰り返すのも、色んな顔重ねた一番上に笑顔張りつけてる疲れた人も」

 クロの目がじっと私を見つめてくる。

「なあ、本当にお前は知らなかったのか?」

 鏡に映った私の横で、クロはもう一人の私になって洗濯機の前に立つ。

 私の声が言う。

「私はずっと見てたよ。そうでしょ?」

「私は……」

 自分で自分の問いに答える。

「知ってた」

 ずっと見ていたのだ。

「だけど、ずっと見てるだけだった」

 鏡の中にはタオルを抱えたちっぽけな小学生が一人だけ。

 私に何ができるの?

 隣の私が言う。

「大丈夫だって。私、もう三年生なんだもん」


 遅くなるとは思っていたが、病院を出てから姉の所に寄っていたら帰る頃には日が暮れてしまった。不満とも反省ともつかない私の愚痴を、叱るでもなく静かに聞いてくれるのが嬉しくてつい長居してしまった。

「ただいま」

 毎朝、夫が慌しく出掛けていく玄関。脱ぎ散らかされた娘の靴を揃える。

 居間を覗くと、テーブルの上には娘が食べ残してきたらしいパンが置いてあった。いつもは寝る前、明日の時間割合わせをする時まで出してこないのに珍しい。

 しかし当の本人、智恵の姿が見当たらない。

「ちいちゃん?」

 呼んでみるが返事もない。

 部屋を見回してみる。視界に入ったのは義母が大切にしている外国の土産物、原色で彩られた木彫りのインコ。ぎょろぎょろとした目は、肉の薄くなった義母の目と重なる。それから目を逸らして居間を出た。

「……」

 二階に上がって子供部屋を覗いてみるが、ここにもいない。

 ということは隣か。

 洗濯物を畳んでいると、寂しがりやの娘はいつも傍らにやってくる。音の外れた歌を聞きながら、とりとめもない話に相槌を打ちながら洗濯物を片付けていくのだ。

「ごめんね、遅くなって」

 言いながらドアを開けて、そこで言葉を止めた。瞬きをして、微笑む。

 あれやこれやと、やることだらけの毎日は休みなく続く。それでも、こんな思わぬ嬉しいことや楽しいことがあるから、だから今日もちゃんと母親でいられるのだろう。

 娘を起こしてしまわないよう静かに歩み寄り、手近なブランケットをそっと掛けてやる。

 不器用に畳まれた洗濯物の中で、智恵は猫と一緒に寝息を立てていた。

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