花の見つめる先

 机の上に置かれた一枚の紙を、咲は親の仇でも見るような目で見下ろしていた。

 進路希望調査、とワープロで打ち出された文字の下には就職か進学かの選択肢と、第一から第三までの志望大学を書く欄。一番下に書かれた提出期限は二日前の日付だったが、プリントには未だ何の答えも書き込まれていない。

 咲はそれを白紙のまま鞄の中に仕舞い込むと明かりを消して布団に潜り込んだ。



 人は眠っている時が一番幸せなのだと思う。

 眠りの中には過去も現在も未来も無い。現実を離れて、夢か全くの無の中をたゆたうだけ。

「咲、朝だよ」

 頭から被っていた布団が捲られ、冷たい空気が顔に触れる。

「ほら、学校でしょ」

 母の声。しっかりと根を張っていた眠りの中から引き抜かれて、咲は寝起き一番に出来る限りのしかめ面をする。

 起こしてもらう立場で文句なんて言えたものではない。だからせめて顔だけでも不満を表して、うつ伏せのくぐもった声で返事をする。

「……うん」

「早く下りてきなさいね」

 そう言って母が部屋を出ていく気配。階段を下りていく足音。

 再び瞼が下がってくる。

 冬の朝は眠い。これでもか、というくらいに眠い。人間も冬眠するべきじゃないか。そうだ、そうすべきだ、とか何とか思いながら暖かく柔らかな肌触りの毛布に深く深く潜り込んでいく。

 このままずっと眠っていられたらいい、心からそう思う。

「咲ぃ、ちゃんと起きたの?」

「おーきーたー!」

 階下の台所まで届くように声を張り上げたら、当然すっかり目が覚めてしまった。

 布団の上に正座して、起床時刻のデッドラインに設定してある目覚ましのアラームをオフにする。時計を元の位置に戻したところで、やっと今の時刻を確認した。

 六時十五分。いつもより三十分早い。まだ窓の外には夜が居座っていて、カーテンの隙間から見えるのは闇色に塗りつぶされた窓ガラスだけ。

 寝ぐせ頭に手櫛を入れつつ、壁に掛かったカレンダーを見る。

 こうしていつもより早く起こされたということは、今日は花を持っていく日なのだろう。大体二週間に一度、母は学校に行く咲に花を持たせる。その度に、何をするでもなく二週間という時間が過ぎたことを突きつけられるような気がする。

 溜息を一つ吐いて咲は布団から立ち上がる。

 また一日が始まってしまった。


 身支度を整えてから台所に入ると予想通りテーブルの端に包みがある。

 ただ新聞紙で包まれた今回の花を見て咲は眉を寄せた。

「えぇー?」

 もうもうと湯気の立つ豆腐の味噌汁を椀によそっていた母が、こちらを振り返って言う。

「ねえ、いい香りでしょう」

「いや、味噌汁の匂いでわかんないよ」

 朝からはつらつとしている母に、咲は気だるく言葉を返す。

 包みの開いている部分から覗くのは、しっかりとした太い茎の先に鈴なりに咲いている小ぶりの花。

「何これ」

「きれいでしょ。アラセイトウっていうのよ」

 ひらひらとしたフリルを思わせる八重咲きの花弁。その色は茎ごとに同じ色に揃っていて、紫色、桃色、白色の花をそれぞれつけた茎が灰色の新聞紙に包まれていた。

「ちょっとこれ派手じゃない?」

 咲の渋い顔を気にも留めず、母は白飯を盛った茶碗を差し出して言う。

「そう? でも、いいじゃないの。地味な花ばっかり飾ってたら教室が辛気臭くなるでしょ」

「隅に置いてある花なんて、どうせ誰も見てないよ」

 茶碗を受け取りながら咲は溜息をつく。

「私以外に花持ってくる奴なんていないし、絶対目立つって」

 小学生の頃なら教室に花を持ってくる生徒はちらほらといたが、高校生にもなると全然見かけない。贈り物用にラッピングされたものならまだしも、新聞紙で包んだ花束片手の登校では恰好もつかない。

「だからいつも早めに起こしてるじゃない。あんたが人目の少ないうちに、っていうから」

 湯呑にお茶を注ぎながら母が言う。

 三十分早めただけでも通学路の人通りはぐっと少なくなる。学校では野球部がグラウンドで朝練習に汗を流しているくらいで、教室には誰もいない。

「そうだけど、もうちょっと地味な花でもさぁ」

「ぐずってないで、さっさと食べないといつもと同じ時間になるよ」

 そう言われて慌てて手を合わせる。

「いただきます」

 朝の三十分は貴重で、そのくせいつの間にか過ぎ去ってしまう。

 睡眠時間と引き替えに得た時間を逃がすまいと、咲は好物の卵焼きから箸をつけた。



 冬の朝の誰もいない教室は、静けさと冷たい空気に満たされていた。

 屋内なのに吐く息が白い。履いたばかりの上履きが冷たい。自分の席に鞄と防寒具を置いてから、咲は花を持って窓側の後方に向かう。

 担任が用意したのであろう白い陶製の花瓶は素っ気ない見た目がいかにも安物らしい。無難なものをと考えた末に選んだデザインなのだろうが、もう少し飾り気があってもいい気がする。まあ、派手な花を飾るにはちょうどいいのかもしれないけれども。

 花瓶には咲が二週間前に持ってきた花が水気を失ってしおれた姿で残っていた。新しい花を包みから取り出し、空いた新聞紙に枯れ花を包んでゴミ箱に捨てる。

 枯れ花になってもクラスの誰もそれを片づけない。咲以外に花瓶の花に触れる生徒はいないのだ。

 どう扱ったものかわからない、そういう部分もあるかもしれない。梅雨の頃から花を持ってくるようになり、ずっと水を換えて花を換えて、咲が花瓶の世話をしてきた。そこに途中から手を出すのは気が引ける、とか。しかし、実のところ咲自身も花の面倒の見方なんてよくわかっていない。

 放っておくと臭うので毎日放課後に水を換えてはいる。花が少しずつしおれていくのは毎日見ていると気付くけれど、いつ捨てたものかと判断に迷って、結局いつも次に花を持ってくる時までそのままになっている。もう捨てたらどうか。誰かがそう言ってくれれば思い切って捨てられるのに。

 そんなことを考えながら花瓶の水を換えて戻ってくると、誰もいなかった教室に人が来ていた。

「何だ本山、早いな」

 後方のドアから入ってきた咲に少し驚いたように言ったのは、このクラスの担任。中年の男性教師は生徒に返却するノートを教卓の上に置くところだった。

「おはようございます」

「おはよう」

 挨拶を交わして、咲が持つ花瓶に気付いた彼は教室の後方に目をやる。

「ああ、また持ってきてくれたのか」

 アラセイトウの花を目に止めて、悪いな、と申し訳無さそうに言う担任に咲は首を横に振る。

「いえ、母が持ってくようにと言うので」

「そうか……」

 何となく気まずくなって咲は少し口元を歪める。

 別に花を持ってくること自体は嫌ではないが、かと言って自分がその行為にこだわっているとは思われたくはなかった。あくまで母に言われてのことなのだから。

 白い花瓶を持ち直して花の方に向かう。微妙な空気を振り払うように担任は話を変えた。

「そう言えば進路希望はどうしたんだ。まだ出てなかったぞ」

「あー、まだちょっと考えてて」

 元の位置に戻した花瓶に花をまとめて活ける。

 進路指導部でもある担任は咲の返答に少し考えてから言う。

「まあ、とりあえず興味のあるところから探してみたらどうだ。そこからまた本当に行きたい所を絞り込んでいけばいいだろうし」

 高二の冬。受験まで一年を切った今、そろそろ真面目に進路を考えないといけない時期が来ている。

 一応、進学校である咲の通う高校において就職という進路は無いに等しく、ほとんどの生徒が大学を受験する。専門学校に進む道もあるが、それはごく一部だ。きっと自分もご多分に洩れず、大学に進むのだろう。子供が少ない今の時代、選り好みしなければ頭が悪くとも大学には進めるのだ。だからこそどこを選んで受験するのかが重要になってくるという変な状況ではあるが。

「将来就きたい仕事があるなら、それに関係のある勉強ができるところを探してみるとか」

「はあ」

 気のない返事をして咲は花に目を落とした。

 将来、将来、と幼い頃から口にして耳にしてきた言葉が、いつの間にか目前に迫っていた。しかし実感が無いというか、進路選択だとか大学受験だとか、その先の就職だとかについて考えることにあまり気が乗らない。

「どうにも決められなかったら進路指導まで来れば参考になるような資料もあるだろうから」

 あんまり難しく考えすぎるなよ、と言って担任は教室を出ていく。難しく考える以前の問題のような気がするが、あえて口にするでもなく咲は彼を見送った。

 それと入れ替わりに男子生徒が一人入ってくる。

「おはよう。何だ、早いな」

「崇昭。それ、さっき高野センセが言ったのと言い方そっくり」

「えぇ?」

 出てきた担任の名前に嫌そうな顔をしてみせながら彼は咲の傍らの自席にやってくる。

「また花替わってる。お前もマメだねえ」

 呆れたように言って席に着く崇昭に咲は尋ねる。

「やっぱさ、この花ちょっと派手じゃないかと思うんだけど。あんたから見てどう?」

「どうって……別に普通だろ」

 アラセイトウをまじまじと見つめ直してから戸惑ったように彼は答える。

「普通かぁ」

 崇昭の回答にいまいち納得がいかず、咲は食い下がる。

「でも、だんだん母さんの花のチョイスが派手になってきたというか」

「あー、最初に比べるとな」

 最初に持たされたのは白百合で、さすがにあれは辛気臭いと思ったが、その次が薄桃色の洋菊だったか。そこから次第に色が濃くなっていき、現在二人の目の前にあるアラセイトウは、白色はともかく桃色、紫色といった彩度の強い色で八重の花弁を広げている。

「このままいくと来年どうなるのかが心配で」

 そう言って咲が溜息を吐くと、崇昭は驚いたように瞬いた。

「お前、来年も花持ってくるのか?」

 言われて咲も戸惑う。

「え、そのつもり……というか、まあ、母さん次第だけど」

 少し早めに起こされて、テーブルの端に花が置かれていれば自分はそれを学校に持ってくる。いつの間にかそれが習慣になってしまっていて、来年はどうなるのか、どうするのかなんて考えていなかった。

「ふうん」

 崇昭は何か考えるように相槌を打って再び花を見る。締め切られた窓越しに、意味の取れない野球部の掛け声が聞こえてきた。咲は自分の席に戻って鞄を開ける。

「お前んちのおばさんで思い出した」

 不意に崇昭が口を開いた。

「お前、弁当忘れただろ。おばさんが弁当袋抱えて玄関先でぶつくさ言ってたぞ」

「あ」

 しまった、と額に手を当てる咲。

 咲と崇昭とは家が近所の幼馴染で、崇昭の通学路は咲の家の前を通っている。

 去年、咲が弁当を忘れた時、母は後から通り掛かった彼に弁当を託した。崇昭は弁当と一緒に咲の母のぼやきまで届けて、その日、帰宅した咲は同じ小言を今度は本人から頂戴する羽目になった。今日もきっとお小言を頂くことになるのだろう。

 げんなりとしながら咲は言う。

「預かってきてくれれば良かったのに」

「無茶言うなよ」

 顔をしかめる彼に咲は笑う。

「冗談だって」

 家で聞かされるであろう小言のことは置いておいて、問題は今日の昼食をどうするか。

「購買なら今のうちに行っとけよ。昼休みは混むだろ」

 崇昭の助言に咲は首を横に振る。

「今は無理。お腹一杯の時って、これ食べたいとか全然考えられないんだよね」

 朝食を食べてから、まだ一時間。

 購買部に行っても一通りの品物を見るだけ見て、そのまま何も買わずに帰ってきてしまいそうだ。

 鞄の中のポーチやペンケースを掻き分けながら咲は言う。

「……まあ、何とかなるかな。非常食あるし」

 底の方からブロックタイプの栄養補助食品を取り出す。

 栄養分はあっても腹持ちが微妙だが、足りない時は友達からお菓子でも分けてもらおう。

「それだけで昼飯になるとか、女子の胃袋はわかんねぇなぁ」

 首をひねる崇昭をよそに咲は携帯を確認する。

 届いていた母からの小言メールを読み流して削除。ついでに時刻を見てから携帯をしまった。

 そろそろクラスメイト達が登校してくる頃だ。



 古典の授業は生徒達の間では睡眠学習と呼ばれている。

「ここ、強意の助詞な」

 教科担任の声は心地良い低音で、一言一言の間に微妙な溜めが入る独特の話し方が眠気を煽る。

 現在、生徒は三分の一が机に突っ伏していた。他の生徒も半分近くが睡魔との格闘中らしく頭がぐらついている。一年生の時も彼が古典を担当していた咲にとっては、二年間で見慣れた光景となってしまっていた。

「さてしも……」

 あちらこちらから微かな寝息が聞こえる中、チョークが硬質な音を立てながら黒板に文字を残していく。

「それにしても、と訳す」

 教室内の惨状にも関わらず解説は続く。

 授業の進行の邪魔にならない限りは真面目に聞いてない生徒は放っておかれるため、眠りに落ちた生徒はいつまでも眠り続ける。それこそ授業の終わりの挨拶まで起こされない。

 いつもは咲も睡魔と夢の世界に旅立っているのだが、今日は昼休みに小テストの追試を受けにいくため、教科書とノートの間に単語帳を挟んで『内職』していた。ちゃんと起きている一部の生徒も半分はこうして『内職』に必死で、ノートは白紙のまま、授業内容は頭に入ってこない。

 その結果、毎回の板書を丁寧に写したノートが貴重なものとなり、定期テスト前にそれを求めて彷徨う生徒がいたる所で見られるのだが、生徒達の授業態度は変わらない。

『後からこうなるってわかってるんなら、ちゃんと授業を聴け』

 ノートを借りにくる咲に、いつも崇昭は渋い顔でそう言った。

 彼はどの授業も真面目に受けて、定期テストだけでなく小テストの勉強も欠かさず、課題の〆切も守る、いわゆる優等生というやつだった。当然、成績は良く、定期テストの結果はいつだって学年でも上位。ガリ勉だ何だと咲がからかうと、備えあれば憂いなし、と諺を持ち出して説教で返してきた。

 どうしても行きたい大学がある、と崇昭は一年生の頃から言っていた。

 彼は高校受験の時、本当はもう一つ上の学校を狙っていた。ただどうしても合格の可能性が薄く、滑り止めの私立に通うくらいなら、と一つ狙いを下げてこの高校を受験したのだ。それが相当悔しかったらしい。高校一年から大学受験を見据えて熱心に勉強していた。

 いくら何でも気合いを入れ過ぎだろう、と咲は呆れながらも、彼の努力が実を結ぶように心の片隅で応援していた。

 そして、高校生活は二年目に入って――

 ガタン、と机の音がする。

 はっとして咲は顔を上げた。

 黒板に書き出した本文に単語の品詞などを書き込んでいた教師が少し振り向き、咲と同様に何人かの生徒が顔を上げて周囲を窺っている。どうやら居眠りしていた生徒が体勢を崩して机が動いたようで、意図せず注目を集めてしまった生徒は肩を縮めて座り直した。

 英単語を目で追っているうちに咲もうとうとしていたらしい。再び単語帳に目を落とすが、いくつも文字を追わないうちにチャイムが鳴った。

 昼休みだ。


「お前は努力が足りないんだよ。勉強しろ、勉強」

 英単語の追試を受けにいく咲に、隣を歩く崇昭が言う。

 実際、小テストは直前に教科書や単語帳を確認するくらいしか勉強していないので、咲には言い返す言葉が無い。

 日当たりの悪い廊下は冷え切っており、人気が無かった。皆それぞれの場所に落ち着いて昼食を摂っているのだろう。空調の暖気を逃がさぬように締め切られた教室の引き戸の向こうから、賑やかに談笑する声が聞こえる。

「考えても見ろよ。本番の合格点が七割で追試は九割。だったら本番前に勉強した方が合格しやすいだろ」

 崇昭の正論が耳に痛い。

 英語の教科担任はクラス担任でもある高野だ。彼のいる進路指導室に向かいながらも、咲は単語帳を開いて悪あがきをしていた。結局、古典の授業中の『内職』だけでは合格する自信を持てるだけの単語は覚えられなかった。

「まずいなぁ」

 角を曲がって進路指導室前の廊下に出る。生徒が個別に受けにいくタイプの追試はタイミングによっては混雑するが、昼休みは大抵空いている。狙い通り指導室前には誰もいなかった。

 失礼します、と室内に入って一礼する。ストーブが点いていて暖かい。軽く頷いて返す教師達の中から高野が咲に声を掛けた。

「どうした、追試か?」

「はい」

 朝話していた資料を見に来たのだと思われないあたり、追試の常連になっていることを実感させられる。

「本山って四、五月の単語は結構受かってなかったか」

 紙束の中から追試の問題を探しながら言う高野に、咲は歯切れ悪く答える。

「あー、そうですね……」

「来年からは小テストも大事にしてかないと厳しいぞ」

 はあ、と頷いて差し出された問題用紙を受け取ると咲は出口に向かう。問題を解くのは廊下、配布資料がいくつか置かれている机で、と決まっている。

「ああ、本山。それとな」

 部屋を出ていこうとする咲を高野が呼び止めた。

「今まで花持ってきてくれてたけど、来年からは置かない方向で決まったんだ」

「え?」

 思わず担任の方を振り返る。

「花、って……あの花瓶のことですよね?」

「ああ。親御さんも本山には感謝してるけど、いつまでもそのままにしておく訳にもいかない、って言ってらしてなぁ」

 朝と同じ申し訳無さそうな顔で高野は言う。花を持ってくる咲に礼を言ったのと同じ顔で、来年からはその必要は無いと言う。

 咲はただ瞬きを繰り返していたが、やっとのことで一言だけ言った。

「わかりました」

 来年からは花瓶を置かない、その言葉が頭の中でぐるぐると回って、せっかく詰め込んだ単語を片端から弾き出していく。とにかく追試を。花瓶が無くなるのは来年で、追試は今だ。来年のことなんか考えなくても、今のことだけ考えていればいい。ずっとそうしてきたじゃないか。

 うろたえる自分に言い聞かせつつ指導室を出る。どこかの窓が開いているのか冷たい風を感じた。

 崇昭の姿はどこにもない。



 追試の結果は悲惨なもので、補充課題のプリントを渡された。

 午後の授業は珍しく眠くならなかったくせに、内容がさっぱり頭に入ってこなかった。

 気がつくとホームルームが終わっていて、掃除に追われて図書室に退避していた。

 結構あの花瓶にこだわってるんじゃないか、と今更気付く自分が可笑しかった。

 何を見るでもなく咲は荷物を抱えたまま本棚の間を歩き回る。一周して図書委員の詰めているカウンターの横に来ると、進路関係の本をまとめた背の低い本棚が正面にあった。

「面接……小論文……」

 彩り豊かな背表紙が目を刺す。その文字をぽつり、ぽつりと口に出して追っていく。

 一言発する度に、肩に掛けた鞄の重さが増していく。

「推薦……受験……」

 後ろの学習スペースでは受験勉強の追い込みにかかっているらしい三年生が参考書を広げていた。

 肩が重い。

「将来」

 口にした言葉に、苦いものでも噛んだように咲は顔をしかめた。

 放課後を知らせるチャイムが鳴る。そろそろ教室の掃除も終わっただろう。

 本棚から目を背けて鞄を持ち直し、咲は図書室を後にした。


 教室には崇昭がいた。

 窓際一番後ろの自席を前にして立つ彼は、花瓶のアラセイトウを見ていた。

 立春を過ぎてもまだ日が落ちるのは早く、室内は薄暗い。掃除当番が閉め忘れたのか開いたままの窓から微かな風が入り込んでいて、防寒具を身に着けていても肌寒かった。

 崇昭が口を開いた。

「追試、駄目だったんだって?」

 彼が咲の方を見る。

「あんたは良いよね、追試とは無縁なんだから」

 咲はそう言って荷物を床に下ろした。

 教科書も資料集も、ほとんど机の中に置いたままにしているのに鞄が重くて仕方なかった。

「人のこと言ってる場合か。今の調子じゃ選べる大学なんて減る一方だぞ」

 教師のようなことを言う、と思いながら咲は言葉を返す。

「一年も先の受験のことなんて考えてられないよ」

 それを言えば、崇昭は三年先の受験を見据えていた。

 聞き分けのない咲に辟易しながら崇昭は言う。

「今のうちから備えておけば後の苦労が減るだろ」

 しかし、三年先のために努力を続けていた彼はどうなった?

 頬に触れる風が冷たい。鼻が冷気を吸い込んでつんと痛み、目に涙が滲む。

 甘い香りがする。アラセイトウの、花の香り。

「死んだじゃないか」

 教室の窓側後方の、白い花瓶に活けられた花。

「将来のためだ何だって言って勉強ばっかしてたあんたは、その努力が報われる前に死んだじゃないか!」

 崇昭は自分の机に供えられた花に目を落とす。

 二年目の高校生活も二カ月が過ぎようとしていた梅雨の日、速度超過の車が雨でブレーキが効かなかったことも重なって交差点を曲がり損ねた。勢いそのままに車は崇昭が信号待ちをしていた歩道に突っ込んでいったそうだ。

「報われないかもしれないのに、どうして今を犠牲にして努力しないといけないのさ」

 間違い無く彼の努力は実を結ぶだろう、そう信じて疑わなかったのに裏切られた。

 幼馴染の命と共に失われたのは、未来に対する信頼だ。

 咲は床の鞄を足先で蹴る。

 ぱたりと気の無い音を立てて倒れる鞄が重くて仕方ないのは、白紙のままの進路希望の調査票が入っているから。

 重い。

 進路選択の向こうにある未来が重い。

 咲がどんな道を選ぼうと、未来が投げ寄越してくる結果はそれがどんなに思いもよらぬものでも絶対のものなのだ。それなら無駄になるかもしれない努力よりも今やりたいことをした方がいい。未来よりも今のために過ごす方が確実だ。

「違うだろ」

 咲の方を見ないまま崇昭は言う。

「お前は幼馴染の死を言い訳にして、未来に対する不安から逃げてるだけだ」

 唇を噛んで咲は俯く。

 ああ、そうだ。努力が無駄になるのを恐れて何もしないのは負けるのが怖くて戦わないようなもので、逃げているのと同じだ。

「だけど、無駄になるなんて思いもしないで、未来への不安も知らないで努力してる奴らよりも、こっちの方がまだ良いでしょ」

 咲を見る崇昭の目に哀れむような色が浮かぶ。

「お前はわかってない。逆なんだよ」

「何が」

「不安を知らないから努力できるんじゃない。不安だから努力するんだ。少しでも良い結果が出るように」

 咲は呆気に取られたように崇昭を見る。

 いや、違う。彼はもう死んだのだから、これは崇昭じゃない。崇昭の姿をしたそれは話を続ける。

 未来に対する不安なんて成長していく中で誰だって知ることだ。知った上で未来の自分の可能性を広げるために努力する。咲は知っていたけど、崇昭の死に動揺して正しく理解できていなかった。それでも心のどこかで間違いに気付いていた。

「だから、こんな幻を作って間違いを正そうとした」

 ああ、と咲は呻く。

 崇昭の努力を知っていた。本気で目標に向かっているのを近くで見て知っていたからこそ、最悪の形で彼の努力が報われなかったことがショックだった。その頑張りが無駄だったなんて思いたくないのに、彼は人生最後の一年を犠牲にして何も得られなかった。

「違うよ」

 幻が首を横に振る。

「努力は未来に対する一種の賭けだ」

 だから、勝つこともあるし負けることもある。賭けたものに対して得られるものが少ない時もあるし、多い時もある。

「でも、そこで賭けられる今は決して犠牲ではないよ」

 そうなのか、それでいいのか。咲の中でしぶとく湧き上がる声に、幻が幼馴染の顔で笑う。

「そうであってほしい、お前自身がそう思うから俺がこうして答えるんだろ」

 ずっと言葉にならなかった答え。それが形を成した今、役目を果たした幻は霧散して、すっかり日が落ちて暗くなった教室には咲の他に誰もいない。

 廊下からの明かりでぼんやりと机列が見える中で、アラセイトウがまっすぐに茎を伸ばしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る