短編集

傍井木綿

人生レポート

 何故そんな事をしたのかと問われて思ったままに答えたら、きっと私は相手に怒られるだろう。そんな理由で私は生を手放すことにした。

「そりゃあ生きたくても生きられない奴だっているのに、そんな軽く死なれたら怒りもするよ」

 聞こえてきた声に振り向くと、そこに誰かがいた。

 その何者かは不思議なことに、しわくちゃの老婆にも見えるし、屈強な青年にも、かわいらしい少女にも、顔色の悪い中年男性にも見えた。声もそうだ。張りのある若い女の声のようにも聞こえるし、低い男の声にも、しわがれた年寄りの声にも、舌足らずな子供の声にも聞こえた。どこかで見たことがあるようでいて、決して出会うことのなさそうな、見覚えのないその顔。これが死なのだと、漠然と思った。

「ここは、死後の世界なのか?」

 尋ねてみると、そいつは肉の薄い、しかし頑強な肩をすくめて言う。

「死後の世界なんてあるものか。死とはただの終わりだよ」

 じゃあ、ここはどこなのか。見渡す限り何もない。地面があるのかもよくわからない。見えているようで何も見えない。目の前の何者かと同様に、得体のしれない空間。

 ぼんやりと私が辺りを見回していると、幼くも大人びた顔が少し苛立った様子で言う。

「別にここがどこなのかなんて、どうでもいい」

 貧弱でいて武骨で、そして繊細なその手を私の方に突き出す。

「とにかく、さっさとそのレポートを出してくれないかな」

「レポート?」

 言われて初めて、自分が手に一枚の紙を持っていることに気づいた。

 白いコピー用紙。私の名前や生年月日といった個人情報と共に、生まれてからの経歴が素っ気ない活字で打ち出されていた。きれいに並んだ文字が紙の三分の二ほどを埋めている。

 これがレポートなのだろうか。よくわからないまま、それを渡す。

 目の前のそいつはざっと目を通すと、はっ、と鼻で笑った。

「よくもまあ、こんなつまらん人生を」

 その反応に少しむっとした。

 小さな子供に馬鹿にされたような、嫌味な大人にさげすまれたような気分だ。

 しかし、紙に書かれていた経歴に過不足は無かった。先程ざっと目を通してみた分には、私の通った学校は小学校から大学まで全て間違いなく書かれていたし、勤め先も合っていた。その上でつまらんと言われてしまったならどうしようもない。そもそも私自身、この人生を面白いだなんて思ってはいなかった。

「だから、もういいかと思ったんだよ」

「つまらないから死んでしまおうって?」

 馬鹿にしたような声音の奥に咎めるような響きを見つけて、私は首を横に振る。

「つまらないから、じゃない」

 小学校、中学校と義務教育を終えたら高校に進んで大学を出て。リクルートスーツに身を包み就職したら、後は延々と日々の仕事をこなしていくだけ。

「みんな同じなんだ。違うものを持っているのはごく一部の人間だけで。自分も似通った人々の中の一人に過ぎないのなら、いなくなっても構わないと思った」

 広いのか狭いのかもよくわからないこの空間に、私の言葉は響かない。

 ただ発される端から、どこへともなく消えていくばかりだった。

「それは、とんだ思い込みだね」

 呆れたようで、どこか優しいその言葉に私は眉を寄せる。

「思い込み?」

「そう」

 そいつは、いつの間にか手にしていた紙束を私に押しつける。

 紙のサイズがまちまちで、気をつけて持たないと手からこぼれ落ちてしまいそうだ。

「見てごらん」

 そう言われて私は紙束に目を落とす。どうやら私以外の人間のレポートらしい。個人情報だのプライバシーだの、こんなにあっさり見せてもいいのか疑問に思ったが、死んでしまえばもう関係ないかと結論付けて文字を追っていく。

 一番上のレポートは経歴が高校生で止まっていた。

「その子は最近の女子高生にしては地味な子だった。いや、地味だった。ものすごく地味だった。特徴を挙げろと言われても地味だったということしか覚えていない。目立たない子だった」

 酷い言い草だ。

「でも、そのレポートを見てみろよ」

「さっきから見てる」

 私の返事に顔をしかめて、そいつは言う。

「お前、文面しか見てないだろ。紙全体を見ろ」

 紙全体、と言われても、レポートの本文の他には落書きがごちゃごちゃと書かれているだけだ。動物であったり、よくわからない変な生き物であったり、教師が言ったらしい冗談なんかも書き留めてある。

「その落書きだよ」

 目の前のそいつは先程の私のレポートをひらひらと振りながら言う。

「お前のより、よっぽど面白い」

「そんなこと言われても」

 気がついたら手に持っていたものを、そのまま渡しただけなのだ。落書きなんてする暇もなかった。

 納得していない私に、そいつは紙束の間から別のレポートを引っ張り出す。

「次はこれだ」

 レポートと言うよりもシートと言った方が正しいだろうか。私の前に広げられたそれは畳二帖ほどある。中央、レポート用紙一枚分に本文が書かれている他は全て大小の魚拓になっていた。

「この人は、暇さえあれば海や川に出かけては釣果を魚拓にしていた――」

「釣り人だったのか」

 言葉を遮られたことに少し顔をしかめながらも、そいつは否定する。

「いや、その妻だ」

「妻?」

「そう、妻」

 そいつは空間に染み込むようによく通る声で言った。

「この人の旦那は自慢屋で、自分の釣果の魚拓を少しでも多く飾りたがった。でも、釣り以外のことに関しては要領が悪い。だから妻である彼女は、いかにして魚拓を一枚でも多く飾るか、旦那の代わりにいつも家中の壁とにらめっこしていたらしい」

「はあ」

 適当な相槌を打って私は手の中のレポートの束をぱらぱらと捲る。

 書かれている文章は、みんなほとんど同じだ。

 生まれて、学校に通い、就職する。結婚して、子供が生まれて家族が増えて。子供も成長して大人になる。子供の結婚、孫の誕生。間で親の死や配偶者の死が入りながら老いていく。どこで終わるかは人それぞれだが、人の一生はどれも同じコースをたどっているのだと思う。

 それにしてもこのレポートたち、本文は同じようなものなのに、その周りは楽譜や数字、ポエムに写真と、決して同じものがない。楽譜のレポートの主は何か楽器をやっていたのかもしれない。では、数字のレポートは数学者か何かだろうか。よくもまあこんなに違いが出るものだ。呆れ混じりに一つ息をつく。

 そして気づいた。

「ああ、そうか」

 このレポートは紙全体がその人間の人生なのだ。女子高生は授業中の落書きに夢中になり、釣り人の妻は壁と魚拓のパズルに取り組んだ。同じ肩書を持つ存在は多くても、彼女達は自分なりの何かを持って生きていたのだろう。

 では、私はどうだったのか。私の人生は。

 私の様子に目の前の何者かがにやりと笑う。

「ほら、つまらんだろ?」

 そう言ってレポートの束を取り上げると私自身のレポートを突き返す。

 個人情報と経歴が書かれているだけの、つまらないもの。本文の周りには余白が広がるばかり。

 これが私の人生だった。

「どうしたら良かったんだ」

 その時その時で、あれをやれ、これをやれ、と言われたことを無難にこなしてきた。

 基本的にはルールを守りながら、その場に応じて周囲の空気に合わせてきた。

「とりあえず毎日を過ごして、それで生きてこられたんだ」

「本当に?」

 何も知らない子供のような、老成した大人のような声が尋ねてくる。

 規則を守るのも破るのも周囲の空気に合わせ、波風を立てない生き方を選んだ。

 向かってくるものには逆らわず、かといって軽んじられないように適度にバランスを取った。そうやって日和見で日々を過ごしてきた自分は、結局どうした?

 こわばった口が何とか答えを紡ごうとする。

「……いや」

 生きられなかった。

 自分を持たずに生きてきた結果、自分の存在に意味を見いだせずに死を選んだのだ。

「やっとわかったか」

 気づかせることが、さも大儀であったかのようにそいつは言う。途方に暮れて私は尋ねる。

「これから、どうしたらいいんだ?」

「それを人に訊くのが間違いなんだよ」

 ああ、と私は呻く。そうだ、自分で考えるのだ。

 しかし、考えたところでどうなるわけでもない。全てはもう終わってしまった。終わらせてしまった。

 自分のしたことを今になってようやく悔いた私から、目の前の何者かはレポートを取り上げる。もう一度目を通して言う。

「つまらん人生だ」

「ああ」

 もうわかっている。出来ることならもう一度やり直したいくらいに。

 今しがた見せられた他者の人生に比べて、何てつまらない生き方をしてきたのか。これまでの続きからでもいい、もう一度生きたい。

 そいつは後悔に蹲る私を見下ろして、尊大に言った。

「まったくつまらん。こんなレポートではとても受け取れん」

 手の中の、悲しくなるほど白い紙を破り捨てる。

「もう一回戻って書き直せ」

 細かな紙片が宙に舞い、やがて溶けるように消えていく。

 それを茫然と眺めながら、私は厳然と言い放たれた言葉に問い返した。

「いいのか?」

「嫌なのか?」

 問いに対して返された問いに慌てて首を横に振る。目の前のそいつは面白そうに私を見ていた。

「でも、そんなことできるのか?」

 どうにも信じられず再び問う。

 疑り深い奴だな、と呆れたようでいて、やはり優しさを含んだ声が答えた。

「あれだけ余白があったんだ。まだまだ何だって書き込めるだろ」

 もともと見えているのかいないのか曖昧だったこの空間が次第に薄らいでいく。

 その姿も薄らぎ遠のいていく中で、そいつは言う。

「次はもっと面白いものを持ってこい」

「ああ」

 曖昧な意識の中で私は呟いた。

 そして世界は真っ白になった。

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