走れ!

Nico

夏の日

「バカみたいに暑いな」

 ベンチに座った鏑木かぶらぎ先生は、よく日に焼けた顔をハンカチでゴシゴシと拭っていた。

「もう二十年近く経つのに、よくわかりましたね?」

「受け持った生徒の顔と名前と出席番号は全部覚えてる」

「出席番号も?」

「もちろん」

「今までに何人の生徒を教えたんですか?」

「千と三百二十六。お前の父親と母親も入れてな」

「化け物だ」

 先生が俺の頭をぴしゃりとはたいた。


「でも俺は変わったでしょ? 先生は何にも変わらないけど」

「背ばっかりひょろっと伸びて、他は何も変わらん。お前、俺のことに気づいたのに視線を逸らしただろう? お前は昔からそういうところがある」

 先生は無遠慮に俺の鼻先を指差した。

「まさかと思ったんですよ。何せ二十年ぶりですからね」

 俺は笑いながら鼻の頭を掻いた。

「恩を仇で返すとはこのことだ」

「感謝してますよ、先生には。本当に」




「来年結婚しようと思ってるんです」

 先生は驚いたように俺の顔を見返し、それからわざとらしく笑った。

「この間までケツの青いガキだったお前が、結婚だって?」

「勘弁してください。もう三十ですよ」

「若造には変わらん」

 そう吐き捨てた先生の顔に、かすかに影が差したように感じた。「四十年も毎日小学生の相手をしていると、お前たちが年を取るということがうまく理解できなくなるんだよ。俺にとっちゃ、お前らはいつまでたってもあの頃のまんまだ。だけど、そうじゃないんだな」

「わかる気がします」とだけ俺は答えた。


「いいか、俺からアドバイスがあるとすればだな」と先生は咳払い交じりに声を張り上げる。「夜はよく寝ろ。朝は早く起きて、飯を食え。日が暮れるまで遊んだら、夜寝る前に……」

「『その日に何を学んだか考えろ』。四十年間同じことを言ってるんですね」

 先生がぴしゃりと頭を打った。

「やめて、バカになる」

「記憶力が良すぎるようだから、ちょうどいい」

 そう言って笑ったが、すぐに声を落とした。「『夜寝る前に、その日何を学んだか考えろ』。そして、自分の三倍、その人のことを大切にしろ。おめでとう。結婚式では歌の一曲でも歌ってやるから、俺の葬式では涙の一粒でも流してくれよな」

「やめてくださいよ、縁起でもない」




 結局、二つの式の順序が俺たちが思っていたのとは逆になってしまったがために、先生の歌を聞くことはなかった。




「バカみたいに暑いな」

 俺は驚いて振り返った。ワイシャツ姿のサラリーマンがハンカチで顔をゴシゴシと拭っていた。

「まさかな。化け物じゃあるまいし」

 誰かが俺の頭をぴしゃりとはたいた。和希かずきだった。

「明日結婚するって男が、なに鼻の下伸ばしてるのよ」

 もう一度振り返ると、サラリーマンの後ろには、水着みたいな洋服から小麦色に焼けた四肢を出した女子高生がいた。

「そんなんじゃないよ」と俺は慌てて否定した。

「どうだか」

「それより、和希」

「なによ?」

「三倍大切にするよ」

「なにそれ? 変なの」

 そう言って和希は笑い、俺も笑った。




 バカみたいに暑い夏の日だった。

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