mission3 手作りチョコの材料費を捻出せよ!
先輩があたしの声に軽く片手を上げて満面の笑みで応えてくれた。あたしは椅子の上で飛び跳ねながら、より一層大きく手を振り返す。
思わず肩を縮めちゃう寒空の下、先輩の周りだけは春みたいに暖かく柔らかな風が吹いてる気がする。
長い手足を綺麗に伸ばして姿勢良く歩く先輩。掛けられる声に応じながらも一定のリズムを刻んでる。
先輩の歩調とあたしの鼓動が、あ、今重なった。
「ヤバーイ、先輩今日も超絶イケメン」誰かがため息混じりの感嘆を漏らす。取り巻きの三年女子がこっちを見上げて睨んでるけど、あたしは全然気にしない。
笑うと無くなっちゃう目、自己主張しない顔立ちに細い身体付き。先輩は典型的な塩顔イケメンだ。
三年生はもう自由登校なのに東京の有名私大を推薦で合格した先輩は、まだ受験を控えてる人に勉強を教える為に来てるって聞いた。
窓枠に張り付いてボーッと先輩の後ろ姿を見送ってると、
「
ニッシーの怒ったような声が背中からした。
「……それ、聞きたい?」
振り向いてじっとニッシーを見る。
「へっ? い、一椛がどうしてもって言うなら聞いてやるよっ」
なぜか手足を組んで座るニッシーの前に窓を締めて移動する。
「やっぱ、顔?」
「顔かよっ。……今更、変えらんねーよな」
「大丈夫、ニッシーもそこそこイケてるよ」「だよな、杏里っ」
例えいつも先輩の隣に違う女の子がいようと。
「んー、体かなぁ?」
「か、体っ? それなら俺だって! このサッカーで鍛えた
「ニッシー、それセクハラ」「違う、杏里っ」
友だちどころか元カノ百人作ったって噂があろうと。
「ていうか、全部!」
「何だ全部って! 何気に俺、全否定された? なぁ、杏里ぃ」「うん、総合的に見てヘタレだよね」
「何でだよーっ」って泣いてるニッシーを杏里に任せて、あたしはあの日を思い出す。
ホントは……。
先輩の優しさに惹かれたけど、それは先輩と二人だけの秘密にしたい、な。
**
五月。
この高校に入学して一ヶ月程経ったある日の六時間目。学校全体で校内の清掃活動があった。
作業終了間際、ゴミ捨て場に一人でゴミ捨てに行ったあたしは、杏里からのラインを見ながら歩いてた。
前日の雨のせいで、水はけの悪い場所にはまだ水たまりが残ってるのは知ってた。校舎の角に差し掛かった時、ふと目に入った水たまりを飛び越えようと軽くジャンプした瞬間、肩に衝撃が走った。
あっと思った時にはもう、あたしはバランスを崩して地面にお尻から着地してた。そう、水たまりの中へ。
状況を理解できずに呆然とするあたしに、クスクス笑う声が聞こえる。
スマホは無事。でもジャージは……ゆっくりと冷たい感触が広がってくのを感じて、恥ずかしさで立ち上がることができなかった。
どうしようってさすがに涙目になったあたしの目の前、
「大丈夫っ? 立てる?」
差し出された大きな手。反応できずにいると、不意に腕を掴まれ軽々と立たされた後、腰にジャージを巻かれた。
「えっ、汚れちゃ……」
「いいから使って。それより早く着替えた方がいいよ。……ほら、笑ってないでぶつかったこと謝りなよっ」
隣にいた女の子を叱ってくれるその人を、初めて見上げた。
ふわっとそよぐ風に石けんみたいな爽やかな香りが絡んでくる。真っ白なTシャツが目に飛び込んで、目が合った瞬間、くしゃっと笑う顔が眩しかった。一秒だって目を離すことができなくて、その人は予兆も予告も無しに突然あたしの中の何かを変えた。
初めてなのに、これが恋なんだって直感で解った。
「あ、あのっ、名前……っ」
去りかけた背中に、いきなりそう訊ねてた。
「三年の真壁千紘。またね、
「えっ? 何であたしの名前っ」
微笑みながら自分の左胸を示す先輩。
あっ、ネーム刺繍……。
そのまま、逸るように先輩を追い掛け始めた鼓動と一緒に、あたしはぎゅっと左胸の『久野』の文字を掴んだ。
**
翌日、先輩の教室にジャージを返しに行っても、三年女子に阻まれて入口から大声でお礼を言うしかできなくて。
そもそも先輩から話しかけてもらえない限り、直接会話できる一、二年なんていなくて。
それでもめげずに先輩を見かける度、大声で話し掛ける一年なんてたぶんあたしくらいだと思う。
だから先輩との会話らしい会話は、あの出会いの日が最初で最後。
今のところは。
「……ていうか、先輩は千紘先輩で杏里は杏里なのに、何で俺はニッシーなんだよ」
不満そうなニッシーの声にあたしは我に返ってニッシーを見た。
「え? どういう意味?」
「その会話、春から何度目?」
「うるせーよ、杏里。こ、高校生になったんだしさ、俺のことも
「碧人」
あっさり口にすると、ニッシーが途端に固まった。
「へっ? あ、いや、待……っ」
「あーおと」
「待てって! いきなりとかマジやめてっ。こ、こっちだって心の準備が……っ」
言いつつ、耳まで真っ赤なニッシーが机に顔を伏せる。
「呼んで欲しいの欲しくないの、どっちなの? あたしどっちでもいいんだけど」
「ニッシーもヘタレだけど、一椛の鈍感も大概だよね」
「何で杏里に分かって一椛は分かんねんだよっ」
何かまた戯れてる二人に構わず、あたしはリュックの中に手を入れた。
「それよりー……」
レシピ本の挿絵どおりの色になるまで、高麗人参サプリは粉々に砕いて。満月の夜にベランダに置いたローリエは煎じて。マムシドリンクとニンニクオイルは生物が液体になっちゃったし適当に。適量って書いてあったバニラエッセンスは一瓶丸々入れて作った……
「じゃーん! これが完成した惚れ薬です!」
片手を腰に、高く小瓶を掲げたあたしに「おおー」ってクラス中から感嘆が上がる。
「なぜあの色?」「なんか、すげー臭う……」っていう声にはちょっと同感だけどスルーしよう。
「それを数滴垂らしたチョコを先輩が一椛の前で食べれば、先輩は一椛のトリコってわけね」
本を手にした杏里の言葉を噛みしめて、じわじわとまた興奮してきた!
「そうなのーっ! 惚れ薬入りのチョコを先輩がパクっと食べてー、あたしを見て「一椛、結婚しよう」「はい、先輩っ」次の日にはあたし真壁一椛になるんだぁ。えへへー……って、え? チョコ?」
「あ、一椛帰って来た? チョコ、渡すんでしょ?」
「あ、杏里、どうしようっ。あたし、惚れ薬作るのに夢中で肝心のチョコのことすっかり忘れてたーっ! 何にも準備してないー」
パニックになるあたしに、教室中色んな意味で呆れてる。
「渡さなくていいんじゃねー……?」
ボソッと呟いたニッシーのことは無視しよう。
「手作りは諦めてここは定番のゴディバとかどう?」「いや、市販のじゃ一回開封しなきゃじゃん」
みんなの提案にあたしはさらに青くなる。
「あーっ、その前に惚れ薬の材料揃えるのに特にサプリとかドリンクがすっごく高くて、しかも二回も買ったからお金も無いんだったー! 本当にどうしよう。もう先輩に直接飲ませるしかないかもーっ」
先輩に直接ってどうやって? 好きです、これ飲んで下さい? この濃い紫色の液体を?
わー、美味しそうだね、久野さん。
……いける?
「この際、先輩がもらった内の一個を拝借してもバレねーんじゃね?」「男子サイッテー」
飛び交う他人事の議論の中、
「待って、久野さん」
一歩前へ出たのは、料理部のオダさんだった。クラス中の視線がオダさんに集まる。
「ここはやっぱり手作りで想いを伝えるべきよ」
いっそニッシーに先輩を押さえてもらって無理矢理……って考えてたあたしがオダさんを見つめたところで、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「こらー、席着けー」
入って来た先生に何も解決しないまま各々席に着きかけた、その時。
「先生。このままではクラス全体の集中力が削がれて授業に支障が出ます。ここは僕に免じてこの時間、クラス会議に当ててもよろしいでしょうか」
「お、おぅ……?」
これまで机に向かい、沈黙を貫いていたクラス委員長の声だった。
「さぁ、続けて、久野さん」
眼鏡に手を当て整然と言い放つ委員長。「実は気になってたんだな」ヒソヒソ声に軽く咳払いしてる。
あたしは戸惑いつつもお礼を言ってから、もう一度オダさんを見た。
「ガトーショコラ、作りましょう」
オダさんが高らかに宣言した。
「えっ、あたし、そんなの作ったことないし、上手くできるかどうか……」
「大丈夫。私が教えるし、混ぜて焼くだけで簡単なのにすごく手が込んでるっぽく騙せるから!」
「おれそれ去年彼女から貰った……」「女子ってそんなあざといこと考えてんだな」「女子コエー」
オダさんの一言に騒つく男子たち。
「それにあたし、材料買うお金も……」
「私、それくらい協力するよ?」
「杏里、さすがに悪いよ」
「久野さん、心配しないで。ちょっと面倒くさくなってたこのクラスの義理チョコ用に買ってた安い材料で作れるから!」
「もうやめてっ」「幻の一個がぁぁ」
オダさんの言葉に勝手に傷付いていく男子と、
「いいじゃん!」「義理あげるくらいなら自分に買うよねー」
手放しで賛成する女子。
「ええっ、いいのっ?」
「……お金の件はおれらにも責任ある気がするし、別にいいよなぁ?」「あぁ。チョコなんて無くても未来は明るいしな」
ヤマダ君とアキタ君に続いて「その代わり、うまくいったらホワイトデーに三倍で返せよ」泣く泣く他の男子も賛成してくれた。
「ありがとう、みんな! 本当にありがとう!」
みんなのお陰で、先輩にガトーショコラを手作りすることが決まった。
「ホームルームは終わったけど、このクラス近年稀に見る仲の良さだな。担任としてすげー複雑」
ただ一人、先生を
そして放課後。それぞれ部活動を終えた午後七時。微かに惚れ薬の残り香が漂うあたしの家のキッチンには、オダさんと杏里、あと、なぜかニッシーも応援に来てくれた。
「……で、ハンドミキサーでメレンゲをね」
「待って、オダさん」
「うん?」
「あたし、泡立て器で混ぜたいっ」
「……うんっ、頑張ろ!」
先輩が東京に行っちゃったら新幹線で三時間半。バイトでも何でもして絶対あたしから会いに行く。
仮に東京に引っ越しちゃう間までの期間限定の彼女になったとしても、それでもいいって本気で思う。
伝われ。
届け。
初めての好き。
泡立て器を回す度に込めるから。
オーブンレンジの側、焼き上がるまで離れないから。
舞い降る粉糖、一粒一粒にも託すから。
だから先輩、どうかあたしだけを見て下さい。
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