空を知っている。

九十九 那月

空を知っていた。

 家には帰りたくない。

 だけど、学校に残ってもいたくない。

 そういう時、私は川沿いで一人座って、空を眺めることにしていた。


 帰りたくない理由は色々あった。

 悔し泣きした顔をごまかしたい、とか、親と喧嘩して家を出てきたから、とか、そんな理由。

 同じ理由で、学校にもいられなかった。

 そんなとき、たまたま見つけたのが、その場所だった。


 少し回り道になるせいで、同じ学校の誰も、そこを通らない。かといって私のいる町はそもそも人口がそんなに多いわけでもないから、他の人が通ることも滅多にない。

 そんな道だから手入れもロクにされていなくて、野草なんかはそれはもうひどく生い茂っていたのだけど、それでもそれごと踏みつける、微かに濡れた地面の感触は、私に妙な落ち着きを与えてくれた。

 そして、これは後から気づいたことなのだけど……水の音がする、というのは、どうやら私にとっては安らぎを演出するために必要な要素の、かなり上位に入るようだった。


 その場所にいて、けれど私がすることはそんなに多くなかった。

 身体を動かすのは苦手だった。もともと家でできる趣味くらいしか持っていなかった私は、家でなければ余計に手持ち無沙汰になってしまって、だから大抵は、ただ地面に座っているだけの時間を過ごしていた。


 空を見上げて、色々なことを考えていた。

 どうしてわたしは親と上手くやれないんだろう、とか、どうしてほんの少し変わっている、というだけでクラスに溶け込めないんだろう、とか。

 かと思えば、図書室で読んだ本の続きが気になる、とか、ときには我慢できずに借りてきて、その場で読み出すことがあった。

 ずっと悩み続けていても答えは出なかったけど、夕暮れの空を眺めているうちに、なんだかどうでもいいや、って気になってしまって、そしていつも暗くなるより前には家に帰る。

 そうして、次にそこに来るまでは、とりあえず平気でいられる。

 そんなことを、何年もずっと繰り返していた。


 何度か、考えたことがある。

 私は多分、世界中の誰よりも、空を見上げている時間が長いんじゃないかな、と。

 だったらきっと、私は他の誰よりも、空のことをよく知っているんじゃないかな、と。


 だけど、それは間違いだった。




「あなた、変わってるね」


 はじめてソラにそう言われた時、私は背筋が凍るような思いがした。





 それから、数ヶ月が経って。

 青空の下、私のちょっと前を、快活な笑顔を浮かべて歩くソラの姿があった。


「ねぇ、早く行かないと置いてくよー?」


 そう呼びかける彼女に、


「待ってよ、もう少しだけ」


 そう言いながら、ふと流れていく小さな雲を見上げる私。

 ソラはそんな私を怪訝そうに見つめて、


「やっぱり、あなたって変わってる」


 と口にする。


「ソラに言われたくないよ」


 そう答えて、私は笑った。




 考えてみれば、当たり前のことだった。

 私が見上げていたのは、いつでも決まって夕暮れの空だけだった。

 ただ一つのものをずっと見つめ続けている、それだけで何かを知っていることになんかならない、ってことに、私は気づいていなかったのだ。


 ソラは、私に色んなことを教えてくれた。

 連れ出された昼の空の青さ。下手くそな歌声は二つ重ねたところでやっぱり下手くそなこと。ボウリングの球は意外と重くて、1ゲーム投げるだけでも大変だ、っていうこと。考えていることを話すのって意外と大事だ、ってこと。ケンカしても謝らなくていい時があること。……「変わってるね」って言い合って、笑える、そんな時もあるんだ、ってこと。


 ソラ、って名前は本名じゃなくて、私がつけたあだ名だった。

 気づいたらずっとそばにいて、受け止めてくれる。そんな人を呼ぶのに、私にとって『ソラ』以上に相応しい言葉はなかった。

 そんなことを話したら、ソラは「そんなおおげさな」って言った後で、「むしろあなたの方がよっぽどソラじゃないかな、空ばっか見てるし」と言ってきたけど、私は気にせず頑なに、ソラ、って呼び続けている。




「ほら、早く行こう?」


 そう急かすソラに、


「ちょっと待ってってば」


 そう返して、カメラをソラに向ける私。

 ソラはちゃっかりピースサインをして、写真が撮り終わったら呆れ顔で、


「写真、好きだよね。そんなにいいもの?」


 と聞いてくる。


「違うよ、ソラが好きなんだよ」


 私が答えると、ソラはわざとらしく驚いた様子を見せて、それからいたずらっぽく笑って。


「どうしよう、じゃぁ結婚しよっか」

「それもいいかも」


 そう言って笑い合う。

 それから、ふと、


「ソラって変わってるよね」


 と言えば、ソラは少しむっとした表情をして、


「あなたに言われたくないから」


 そう言って、見つめあって、そして私たちはまた笑い合った。




 空を知っている。私はかつて、そう思っていた。

 けれど、それが間違いだったことを、今の私は知っている。

 いつだって世界は知らないものであふれていて、知っていると思っていたものだって、いつのまにかいつもとは違う一面を見せてくるものなのだと。

 だから、そんな昔の私の思い込みは、「空を知っていた」の言葉で過去にしてしまおうと思う。


 首から下げたカメラの画面に視線を落とす。

 わざと見上げるように撮ったその写真の中で、ピースサインのソラが、澄み切った青空をバックにして、満開の笑顔を浮かべていた。



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