【過去133】約束

 部屋のドアをノックする音が聞こえた。春臣はるおみは返事をする。

「はいどうぞ」

 ドアが八寸約24cmほど開き隙間から女中メイドの顔が覗く。

春臣はるおみぼっちゃま、失礼します。旦那様がお呼びです」 

「こんな早い時間に在宅とは珍しいな。わかった。すぐに行く」

 春臣は読んでいた本を閉じて客間に向かった。本のタイトルは『帝国 流派別躁神概説』と読める。

 ノックしてドアを開けると、日頃になくにこやかな父親の顔にゲンナリした。だが、向かいに座る女性に目が惹かれた。

 年頃は春臣と同じくらいだろうか。艶やかな黒髪を編み込みにして後ろで留めている。ふっくらとした頬が大人の女性になりつつある中に幼さの面影を残している。やわらかな笑みの奥に煌めく漆黒の瞳が意志の強さを伺わせた。もう数年すれば輝くばかりの美少女になりそうだ。記憶を刺激するものの見覚えがないと、春臣が浮き上がる記憶を捕まえようと苦闘していると。女性、いや女の子は、一層明るい笑顔になると、立ち上がり一礼ののち声を上げた。

「ハルちゃん。

 あっ。失礼しました。

 春臣様ご無沙汰しております。お久しぶりです」

 春臣は、固まってしまったが、すぐに再起動を果たした。

「え、もしかして、愛姫あきちゃん?」

「はい、愛姫です」

 にこりと笑う愛姫に見つめられ、春臣は回想する。



 十年ぶりだろうか。そうだ、菅原愛姫すがわらのあきとは幼年学校の時に知り合った。生まれて初めての神卸かみおろしの儀式のために本宅に連れて行かれた時だ。儀式のこともあって、見慣れているはずの祈祷殿きとうでんが怖かったこととともに覚えている。父親の後ろで不安そうにこちらを見ていた愛姫。ちっちゃくって、ああ、僕も小さかったか。思い出すと懐かしい。

 笑顔が可愛いくて、すぐに一緒に遊ぶようになった。愛姫も神卸の儀式のために連れてこられたとかで、境遇も同じだったので親近感もあったんだと思う。

 同い年の子は自分たちの二人だけ。もう細かいことは思い出せないが、山陰に落ちてゆく夕日と、篝火かがりびにくすむ祈祷殿の放つ神気の重圧、居並ぶ白装束に面をつけた一族のおごそかな雰囲気と、末席ながら儀式に出ていたことは思い出せる。

 昼は自由だったので愛姫と野原を駆け回り遊んだものだ。


 ああ、思い出した。思い出し始めると記憶があふれ出すように浮かんでくる。なぜ忘れていたのだろう。

 あの日、僕たちは禁足の森に入り込んでしまった。

「ねえ、帰ろうよ。ここって、入っちゃいけない場所だよ」

「大丈夫だよ」

 毎夜の神卸しの儀式で僕は興奮を覚えていた。年上の子達がその身に神を降ろし、その神力を行使する様に高揚感と無敵感を覚えていたのだ。小さい頃から神卸しの修行はやっていた。六歳の幼い僕は無知からなんでもできる気になっていたのだ。世界は慢心には試練を持って答える。

 森の結界を踏み越えて中に入る。

 森の中は、聞こえるのは鳥の声だけ。手を繋いで歩く。響くのは僕らの踏み折る小枝のパキパキいう音と、鳥達の鳴き声。普通の森とどこも変わったところはなかった。

「ねえ、帰ろうよ。ハルちゃん、愛姫怖い」

 愛姫が何か気になるのかぐずりだした。いつの間にか鳥達の鳴き声も途切れていた。次の間に空気の重さを意識した。心の奥底に初めて感じる恐怖が滲む。

「大丈夫だよ。愛姫ちゃんのことは僕が守るから」

 自分の勝手から禁じられた場所に連れ込んだ責任感と負け惜しみから強がっていた。だが、だんだん強まる重圧感に足が前に出なくなっていた。頭では振り返って逃げ出せという声が響いていたが、恐怖が足を地面に縫い付ける。


「ハルちゃん、あれ」

 愛姫の声に振り向くと黒い影が立木の向こうにひとつ、ふたつ。刺すような視線を感じ、ゆっくりと振り返るとどこから現れたのか、ひとまわり大きな影が一丈約3mほどの距離にいる。輪郭が不確かで形は覚えていない、というかあまりの怖さに記憶に残っていないというのが正しい。影の中の赤い瞳が僕たちを見据え声が響いてきた。

「待ちたるぞ。幸いなるかな、我らの躯体となり、この森の戒めから解き放つ贄となれ」

 その言葉の意味はわからなかったが、大変なことになってしまったことは判った。

「お、お、お前達なんか怖くないぞ。僕だって躁神師だ」

 本当はパニックを起こしていたんだと思う、焦りから愛姫をかばい、習い覚えた印を切る。折伏の呪文とともに神降ろしの術を発動した。

「だめー、ハルちゃん。ここではだめーえ」

 愛姫の声が微かになっていく、いつものように自分の背後斜め上5寸15cmの位置に意識が移り、自分を斜め上から見下ろす。だが、その時は違った。意識がさらに上昇していく、自分の体も意思も自由にならなかった。宙空から光が降り注ぎ僕を押し潰した。今なら判る。自分の力を超えた神を降ろしてしまったんだ。

 その後気を失ってしまった。

 目が覚めた時には全てが終わっていた。森の四分の一は吹き飛び、僕はボロボロになって地面に転がっていた。そばにはやはりボロボロになった愛姫が泣きながら僕に縋り付すがりついていた。

 朦朧もうろうとして身体中が痛く力が入らなかった。

「愛姫ちゃん、大丈夫?

 ごめんね。僕のせいでひどい目にあわせちゃって」

「ううん。ハルちゃんありがとう。愛姫を守ってくれたんだもん」

 後悔と愛姫を守れた安堵が一度に押し寄せ僕は宣言していた。

「うん、僕はこれからも愛姫ちゃんを守る。絶対、いつまでも守る。約束する」

「愛姫のことこれからも守ってね。約束だよ」

 後はあまり覚えていない。様子を見にきた大人に助けられた事。思い出すのも嫌なくらい怒られたことは覚えている。

 なぜ、格上の神を降ろして無事でいられたか、本当はなにがあったか判らない。愛姫は父親の国境警備の勤めに随伴した。話す間も無くそれ以来会っていなかった。



 春臣の意識が現実に帰る。愛姫は彼が回想から戻ったと見て話しかけてきた。

「今日は、矢作やづくりの当主様と春臣様にご挨拶だけでもと参りました。

 父様が国境警備長を勤め上げこちらに戻る事になりました。私もこちらの学校に通うようになりますので。春臣様、よろしくお願いします」

 彼女はそこで言葉を切り、優雅な礼をする。そして語りかけるように続けた。

「春臣様、約束覚えていますよね」

 愛姫は最上の笑みを浮かべる。春臣は立ち尽くだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る