机の上の花瓶

鹿奈 しかな

ある日の出来事

 その日、菊川は朝から不愉快な物を目にすることになった。

 花瓶である。誰もいない教室の中、自分の机の上に花瓶が置いてあるのだ。活けてあるのはしおれかけた名も知らぬ花。ドラマでたまに見るいじめの風景が脳内に駆け巡る。


(ばっかみたい)


 ため息。足音も荒く自分の机へ。ど真ん中に置かれていたそれを脇に退け、乱暴に鞄を落とす。

 電車の混雑を避けるため、いつも学校に来てから朝食を摂っている彼女にとってそれは異物以外の何物でもなかった。だんだんと怒りがこみ上げてくる。

 一体誰だろう。こんなしょうもない悪戯をしでかしたのは。


 そう考えて思いついたのは蓮野のやつ。休憩時間も授業中もふざけ倒していて不真面目極まりないあいつ。最近は気の弱い藤原くんを取り巻きと一緒にからかっていたっけ。

 あまりにも目に余るので、止めてやった覚えがある。それを根に持ったのか。


(ばっかみたい)


 菊川はもう一度ため息をつき、花瓶を持ち上げた。

 そしてそのまま教室最後尾の蓮野の席へ移動し、ど真ん中にそれをおいてやる。

 我ながらつまらない意趣返し。思わず鼻で笑ってしまう。これを見たあいつはどんな反応をするのだろう。自分に食ってかかってくるだろうか。


 そのときは遠慮なく罵倒してやることにしよう。ちょっとだけせいせいした彼女は、自席へ戻るといつものようにコンビニで買ってきたパンとコーヒーを取り出す。

 食べ終えてゴミを捨てたときにはすっかり機嫌も直っていたし、ましてやホームルームまでの時間つぶしのために図書室へ向かうころには、花瓶のことなど記憶の片隅に追いやられていた。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 結局のところ、蓮野のやつが花瓶のことで噛みついてくることはなかった。

 どころか彼は学校にこなかった。ホームルーム間近となりクラスメイトたちが集まってくる時間帯になっても、その席だけががらんと空いていた。


 いつも元気だけは有り余っているようなやつなのに。違和感こそ覚えたものの、菊川はそれ以上意識することはなかった。

 ……むしろ時間が経つにつれ、別のことに意識が逸れていく。定刻をすぎてもホームルームが始まらないのだ。

 教室がざわめき始め、誰か先生呼びに行ったら、というような声が上がり始めたそのとき。ようやく担任の阿佐見がやってきた。


「みなさんに悲しいお知らせがあります」


 開口一番、阿佐見はそう言った。

 次に飛び出た言葉を菊川は一生忘れない。


「蓮野くんが……交通事故で、亡くなりました」


 一瞬で教室が静まり返る。

 菊川はおそるおそる蓮野の席を盗み見る。そこにあったのはもはやがらんどうの席だけだ。


 あの花瓶は、影も形もなかった。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 蓮野の葬式にはクラス全員で参加することとなった。

 突然の訃報。彼とよくつるんでいた取り巻き達は露骨に落ち込んでいる。普段こそ交流のない相手とはいえ、さすがに哀れに見えた。


 だが、菊川の思考を占めていたのは同情などではない。

 隣席の桜井に、彼女は囁くように尋ねる。


「あのさ。蓮野くんの机の上って、なんか置いてなかった?」

「なに急に」

「その……ちょっと気になって」


 問い返されても菊川は言葉を濁すことしかできない。いくらなんでも『私、あいつの机の上に花瓶置いちゃったんだけど知らない』などと聞けるものか。

 不思議そうな顔をしていた桜井は、それでもはっきりと答えてくれた。


「なにもなかったよ。菊川さんのほうがよく見てるんじゃない?」

「……っ、そ、そうだよね」


 動揺を無理やりな笑みで押し込める。

 そんなはずはないと叫びたかった。今朝方に自分がしたことくらい覚えている。

 なんの関係もあるはずがない。そうはわかっていてもあの異物が心に引っかかる。


 机の上どころではない。教室中見回しても見当たらない。

 いったいあの花瓶はどこに消えた?


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 蓮野の葬式が終わり、もう一ヶ月は経っただろうか。

 菊川はようやく忘れられそうだった。心の中に重くのしかかり、目を瞑れば細かいデザインさえ浮かんできそうな、あの忌々しい代物を。

 それでも、あれを目にすることはもうなかった。だからもう終わったことだと片付けられそうだったのだ。


 甘かった。


「……なんで」


 誰もいない教室の中、呆然とした呟きが消えていく。

 菊川は目を見開き、自分の机の上を凝視していた。今まで影も形もなかったはずの、あの花瓶を。

 今もまた、しおれかけた花を抱いているそれを。


 深呼吸を数回繰り返し、震える脚を強いて自席へ向かう。

 しばらく間近で見下ろす。どう見てもあのときと同じ花瓶のように見えた。

 胸の鼓動が嫌という程に耳に響く。菊川は慎重に花瓶に触れた。冷たい手触りが帰ってくる。握りしめる。たしかにそれは、そこにある。


 持ち上げたところで、菊川は自分がなにをすればいいかを見失ってしまった。

 自席に置きっ放しには……どうしてもしたくない。たぶん、きっと関係ないこととはいえ、蓮野がどうなってしまうかが嫌でも思い起こされる。

 誰かの席に置く? 論外だ。置かれた誰かが、また同じ末路をたどったらどうする。


 堂々巡りを始める思考。深く息を吐いた菊川は、ようやく次の一手を決めることができた。


 教室の一番前、教卓。まずここに花瓶を置く。

 そして自席に戻って座り込み、花瓶を凝視する。

 別にあれは、ただの花瓶だ。自分にそう言い聞かせる。だからしっかり見張っていれば消えることなんてないし、そうしたら阿佐見先生に報告すればいい。あとは大人に任せればいいのだ。


 そこから、長い待ち時間が始まった。

 食い入るように花瓶を見つめながら朝食を取る。味もなにも感じない。

 食べ終わっても、いつものように図書室へは行かない。花瓶を睨む。まだ、そこにある。


 ……そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。


「おはよー」


 教室の後ろから聞こえた声に、菊川は思わず振り返る。ちょうど桜井がこちらに手を振っているのが見えた。


「どしたの菊川さん。珍しくない? いつもは図書室に行ってるのに」

「ちょ、ちょっとね。ねえ桜井さん。あの」


 花瓶、誰が置いたかしらない?

 教卓の上を指差し、そう尋ねようとした菊川は思わず凍りついた。

 あの花瓶が、もうどこにもない。


 ……阿佐見先生が不慮の事故で亡くなったと伝えられたのは、その日のホームルームのことだった。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 それと三度目の邂逅を果たした菊川が覚えたのは、激しい怒りだった。


 いつものように誰よりも早く教室に着いたその日、自分の机の上にあの花瓶の姿があった。


「ふざけるな」


 誰が。なんのために。どうして。どうやって。

 そんなことを考える余裕すらなかった。彼女は駆け寄り、ひったくるようにして花瓶を掴む。

 そのまま窓際へと向かい、大きく窓を開け放った。はるか下に広がるのは校庭。


「ふざけるなっ!」


 振りかぶり、空へ向けて花瓶を力の限り投げとばす。

 くるくると回転しながら飛んでいったそれは、しおれかけた花や水を撒き散らし、やがて放物線を描いて地面へ衝突した。


 窓から身を乗り出し、荒い息とともに確認する。

 あの花瓶は粉々に割れていた。当然のように。


 少しして、菊川は自分がへたり込んで泣いていたことに気づく。

 彼女は手に顔を埋めた。この涙が安堵のものなのか、はたまた別のものなのか。もうなにもわからない。

 生ぬるい風が頭上を過ぎていく。他のクラスメイトが来るまで、涙は止まらなかった。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 その日のホームルームは、つつがなく終わった。

 その日の授業も、つつがなく終わった。

 その日は、つつがなく下校することができた。


 だからもう開放されたのだと思っていた。


「……どうして」


 どさり、と重い音がする。自分が取り落とした鞄の音だと気づく余裕すらなかった。

 自宅に帰り、玄関から上がり込み、居間。そこからすぐ目に入る食卓の上。

 そこに、壊れたはずのあの花瓶があった。しおれかけた花が小さく揺れる。


 だが、もうそれは菊川の視界には入らない。

 彼女が見ているのは、食卓の椅子にビニール紐をかけ、首を吊っている両親の姿。


 彼女は絶叫した。


 

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机の上の花瓶 鹿奈 しかな @shikana

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