急すぎて止まれなかっただけで

 アルミサッシの窓に手をかけ、すりガラス越しに見える鍵の様子を窺いながら、すってみた。徐々に動いた鍵は、やがて、完全に外れた。

 アルミサッシの窓は、こうやって開けることもできる。多分、推理小説か漫画で得た知識だ。


「開いたよ」

「お見事。どこで覚えたの、お嬢様が」

「だって部室の鍵、取りに行くの面倒なんだもん。かばんよろしくね」

「はいはい」


 呆れたように笑うアカネさんに笑顔を返して、早速走るために足を踏み込む。職員室があるのは渡り廊下で繋がった隣の校舎の二階で、走ればすぐだ。

 もっとも、走る必要はない。

 鍵はないとはいえ、教室の前後にある扉のうち後方は内側から開くのだから、急ぐこともない。

 だけど、走ること自体が楽しいのだからそれはそれで十分な理由だ。

 リノリウムの廊下をスニーカーの底との摩擦を感じながら蹴り付け、十数段ある階段の、半ばほどでひらりと飛び降りる。

 思った通りに体を動かせることが、こんなにも楽しい。病のえた人が健康をありがたがるように、そう思う。


「!」 


 け、急ブレーキをかけようと思っていた職員室の扉の前で、中から現れた人に衝突してしまった。

 前のめりになっていたこともあり、肩を抱き止められなければ、思い切り顔を打っていただろう。


「…前方不注意」


 頭上からの低い声に慌てて体勢を立て直し、誤魔化ごまかすようにみを浮かべる。

 目の前に立つのは、背の高い男の人だった。コートを腕にかけているのは、暖房のいた職員室の中から出てきたところだからだろう。


「ごめんなさい、ありがとうございます。前は見てました。急すぎて止まれなかっただけで」

「言い訳はいい。はしゃぎすぎるな」

「はい。すみませんでした、名井ナイコーチ」


 コーチ、というところをわざと強調する。


 名井ヒビキは、教師ではない。弓道部と合気道部のコーチだ。

 まだ大学生で通りそうな彼は、主には女子生徒からかなりの人気を誇っているけれど、その素性はあまり知られていない。

 本職は会計士ということになっているものの、その肩書きも一部で、梨園学園を運営する理事長の財産管理や運用などを一手にになっていると、知る者は少ない。

 私はその数少ないうちの一人だけれど、学内では基本的に、一部員と指導者としてのみ接しているつもりだ。


「どうしたんですか、こんなところに」

「年始の挨拶に来ただけだ。また、放課後に」

「はい。また」


 ぺこりと一礼し、当初の目的である鍵を取りに職員室に入る。

 入ってすぐのところにある、学年とクラス順に並べられた鍵と日誌を掴むと、変に暖かい部屋を、そそくさと後にした。

 実のところクーラーやヒーターのたぐいは苦手で、大好きな学校生活のうち、廊下をのぞいてそれらが完備されているという点だけはいただけないと思っている。

 そこだけは、公立の学校にするべきだったかと思うことすらある。

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