じゃんぶる ばっく ぐらうんど
hibana
☆少年の詩
「おいタイラ、最近顔見ねえと思ってたが……元気かい」
カウンター席で飲んでいたタイラは、顔を上げてにんまり笑う。
「元気だよ……忙しくてねえ」
「嫁さんは?」
「元気だ」
グラスの中の氷を、指でかき混ぜながら目を細めた。声をかけてきた友人が、「ガキは?」と聞いてくる。「ガキ?」と眉をひそめて聞き返した。
「何すっとぼけてんだよ、タイラてめえ。もう5歳ぐらいになんだろ、お前んとこのガキ。なんていったか……ワイチ?」
きょとんとして、タイラは頬杖をつく。それから、げらげらと笑いだした。
「和一? そりゃあ、うちで飼ってる犬の名前だ」
グラスを傾けて、目を細める。「あんまり可愛げがないもんで、どうしてやろうかと考えてたとこでな。お前、いる?」なんて本気とも冗談とも取れるような顔をした。友人は驚いたように、「タイラ、お前……」と呟く。
「子供好きだったよな」
「好きだぞ、子供。可愛げがあればな。それがどうした……今、関係ある?」
「自分の息子だろう……」
「しつこいぞ」
這うような低い声で、タイラは「俺に息子はいないよ、アッちゃん。何度も言わせるな」と言った。友人も、それ以上は追及してこない。
「俺に息子はいない。可愛い可愛い嫁さんだけだ」
☮☮☮
アパートの錆びた階段を、千鳥足で上がっていく。愛しい嫁が待っている部屋の前で、タイラは深呼吸をした。鍵など、いつもかかっていない。ドアを開ければ「おかえりなさい」と声が聞こえた。「ただいま、瞳」と小さく答える。
靴を脱いで進むと、瞳は何か慌てたようにトイレのドアを閉めた。タイラは肩をすくめて笑いながら、「今、なに隠したの?」と尋ねる。
「何も? ねえ悠くん、今日は何が食べたい? わたしね、これから夕飯の買い出しに行こうと思って。ね、一緒に行こ」
何も言わずに、タイラはトイレのドアを開く。便器の前で、子供がパンをかじっていた。
ため息をついて「またなんか食わせたのか」とタイラは呟く。それから中に入って、「お前も何食ってんだよ」と子供の頭を殴った。瞳が慌てた様子で「待って、待って」と縋る。
「でもね、悠くん。食べさせなきゃ死んじゃうでしょ? わたし、人殺しになりたくないもん。子どもはね、生まれちゃったら、死なせちゃいけないんだよ」
「優しいなぁ、瞳は」
そう朗らかに言いながら、タイラは子供の頭を掴んで便器の中に突っ込もうとした。「こいつ、トイレに流れねえかな」と歌うように囁いて。
「やめてよ、悠くん。ねえ……」
「なあ、瞳。もうこいつに何も食わすなって言ったよな、なあ。どうして瞳は、こいつのことになると俺の言うことを聞いてくれないの」
「だって……わたし、お母さんになったら優しいお母さんになろうって……決めてて……。悠くんだって、子どもができたって言った時あんなに喜んでくれたのに……」
「瞳は、俺よりもこいつの方が大事なの?」
タイラの腕を離して、「悠くんの方が大事だよ」と瞳は即答する。それで多少は満足し、子供をその場で突き飛ばして踵を返した。
赤ん坊の頃に捨てられ、養護施設で過ごし、施設では当然のように暴力の捌け口にされ、やがて自らも暴力を覚えた。信じられるものなど何もなく、全てを自分の下に置かなければ気が済まなかった。
中卒で工場に勤務し、それでも喧嘩に明け暮れ、やがて薬をやるようになった。深い考えはない。流行りだったのだ。
そんな時である。瞳と出会ったのは。
瞳は、タイラが昔付き合っていた女の友人だった。否、友人と言ったら語弊があるだろう。幼い頃から絶え間なくいじめを受けていた瞳には、友人と呼ばれるような関係の者は誰もいなかった。タイラの元恋人にしても、瞳をカモとしてしか見てはいなかったのだから。
『この子に、仕事紹介してあげてよ。もうお金ないんだって』と女は言った。タイラは頭をかきながら『俺が仕事を紹介できる立場なら、もっといい暮らししてるよ』と答えた。そうすると女は、ちょっと笑って『一晩売ったげる。馬鹿だけどいい体してるよ』などと耳打ちした。
タイラは、改めて瞳をしげしげと見る。哀れなほどに怯えていて、青ざめていた。
『処女だよ』と女が重ねて言う。5千円で買った。
結論から言うと瞳は処女ではなかった。あの女、とは思ったが珍しいことでもない。ベッドの上で煙草を吸い、堂々とシーツの上に灰を落とす。隣を見れば、毛布を肩まで被って震えている瞳がいた。
「可哀想にねえ、こうやって何度も売られてきたわけだ」
「ううん、あのね。わたし、馬鹿だから自分じゃ仕事見つからなくて。いつもミカコちゃんたちが仕事くれて」
ミカコというのがタイラの元彼女の名だ。あれもいい女だった。美人で気が強くて――――加虐的な面は目立ったが。
へえ、と言いながらタイラは瞳の髪を撫でる。「大変なんだなぁ」と呟いた。本心からだ。弱い人間は大変なんだなぁ、という感慨である。
瞳は「ふふ」と笑ってタイラの顔を見た。
「優しい人なんだね、あなた」
きょとんとしてしまって、タイラは「そんなに気持ちよかった?」と聞いてしまう。「うん、それも、そう」と瞳は照れた。「あなた、殴ったりしなかったもの」と微笑む。
それだけで? この女、馬鹿すぎるのでは。
「また会いたいな、お金なんていらないから」
そう、瞳は言った。ピロートークにありがちな台詞とはいえ、そこに嘘が混じっているようには見えなかった。
「そういうの、言うように言われてるの?」
「何が」
「……いや、なんでもない」
煙草を灰皿において、タイラは腕を頭に回す。ゆっくりとため息をついた。
「じゃあ、会おうか。今度の木曜。俺、休みなんだよ……」
ひどく喜んで、瞳は笑う。「ほんとう? 嬉しい」とはしゃいだ。
その次の木曜日、待ち合わせ場所に赴くと、すでに瞳が待っていた。瞳は何度も前髪を気にしながら、そわそわと待っている。化粧を直したり、服の皺を伸ばしたり、周囲を気にしたり、ひとく落ち着きがなかった。その様子を見ながら、タイラは『ああ、この女にしよう』と思ったのだ。
『俺はこの女を、死ぬまで横に置こう』と。
交際を始めてから、周囲からは『なぜ?』と言われた。『だってあの子、足し算もできないのよ』とミカコからは言われた。
確かに、瞳は足し算も自分の指を使わなければできないほどだった。それでもいい、むしろその方が都合がいいと思えた。瞳は、タイラの言うことを何でも聞いたからだ。
瞳は、馬鹿だった。人を騙す力すらない馬鹿だった。だからタイラは、彼女のことを強く愛した。
何ひとつ信用せずに生きてきたタイラだ。それでも心のどこかで、『こいつなら絶対に俺を裏切らない』と思える人間を欲していた。よりどころが、欲しかった。
そのためなら瞳が言うところの『優しい人』を演じることも苦ではなかった。
「子どもができたみたい」
恐る恐るという風に、瞳は言う。タイラの反応がどちらであれ、『そうよね』と言える準備をして。それが痛いほど感じ取れて、タイラはぽかんとした。何を怯えているのか、よくわからなかったからだ。
「そうなのか……籍、入れないとな」
タイラは答えた。
瞳は大変に喜んで、「よかった、悠くんならそう言ってくれると思ったの」と笑った。
正直子どもなどどうでもよかったが、『4か月なの』『男の子かな、女の子かな』と笑っている瞳がいればそれでいいと思えた。
生まれてきた子は、男の子だった。その子どもに
赤ん坊は思いのほか可愛かった。タイラは元来子ども好きだったし、赤ん坊がどんなに夜泣きしようが問題ではなかった。瞳は異常なほど体力がないが、タイラには子どもを一晩中あやすぐらいの体力があったのだ。そもそも赤ん坊の泣き声自体が大して気にならなかった。子どもの泣いているのを何とかしようと思うから気になるのであって、泣いているのなら泣かせておけという思いが心のどこかにあればよく鳴く玩具と同じだ。
まあ案の定というか、瞳は赤ん坊をあやすのがド下手くそなようで、タイラが仕事から帰るといつも子どもの泣き声がした。
「今日も元気よく泣いてんなぁ、坊主。あんまり俺の嫁さんを困らせるなよ……おいで」
息子を抱き上げて、その場に腰を下ろす。瞳はといえば泣いていて、「わたしじゃ全然ダメなの」と訴えていた。お前が泣いてどうするんだよ、と思いながら苦笑する。
「それにしてもこいつの髪、やけにふわふわしてきたな。天パか?」
「子どもの髪ってみんなそれぐらいやわらかいわ」
「そういうもんかねえ」
タイラの髪も瞳の髪も、癖のないストレートだった。そのうち子どもの髪質も変わってくるのかと、納得をしたのだ。その時は。
子どもが2歳を過ぎるころには、もう疑いようもなくそれがその子どもの本来持っている髪質なのだと認めざるを得ないようなありさまだった。その癖毛を撫でながら、瞳は「不思議だねえ、うちのお父さんはくせっ毛だったけど……わたしも悠くんも真っ直ぐだもんねえ」と本当に不思議そうに呟いた。
そんなことを、タイラは友人と飲みながら話した。友人は笑いながら、「それほんとにお前の子か?」と言いだす。
「お前の嫁さん、ちょっと緩そうだもんなぁ……いろいろ。DNA鑑定でもしてみたらどうだ」
酒の席とはいえ腹が立ったので、そいつのことは顔の輪郭が変わるまで殴ってやった。
友人は、おそらく軽い冗談のつもりで口にしたのだろう。だがタイラにとってそれは、決してあってはならないことだった。
平悠仁は、自分で思っているよりも強く『妻は絶対に自分を裏切らない』ということに依存をしていた。子どもの父親が誰かなど心底どうでもいいが、『妻は自分を裏切ったのではないか?』と一瞬でも脳裏をよぎってしまった、ということは大きな意味を持つ。
そんなことがあるはずはない。あるはずはないのだ。瞳と交際を初めてから、一緒に過ごさなかった夜はない。アレが自分の息子であることも、直感的にわかっていた。
それでもダメだった。一瞬でも、その信頼に隙が生じてしまえば。平悠仁という男には、もともと人を信じられるだけの器がない。じわじわと、妻に疑いの目を向けるようになった。彼女の不貞だけではない。『自分を馬鹿にしているのではないか』『本心ではこんな自分のことを嫌っているのではないか』とついつい不安に思う。それは、魔法が解けていくようだった。
彼女と出会って数年。彼女を、彼女だけを拠り所としてきたタイラにとって。それは大きすぎる打撃だった。
こんな些細なことでタイラは追い詰められていき、簡単に自分を見失うに至った。結論からいうと、彼は薬に頼るようになった。
元来付き合い程度に打っていた薬を自発的に打つようになり、そこにひと時の安心と快楽を求めた。遊びと割り切って打つ薬と、救いを求めて打つ薬では効き目が全く違った。自分の人生において最大の悪手であることは薄々感じられていたが、それでもやめられなかった。
「悠くん、疲れてるの? クスリ……体によくないんだって。悠くん……病気になっちゃうよ」
そんなことを言っていても、本心ではどうせ────。
夢と現実の境が曖昧だった。夢の中でタイラは仕事に行き、食事をし、眠っていた。だけれど時折気づけばテーブルに突っ伏して、何日も過ぎているような有様だった。瞳に尋ねても、『悠くんは毎日仕事に行ってるよ。さっき10分前に帰ってきたんじゃないの』と不思議そうに言われるだけだ。その目の前にいる妻さえ現実かわからなかった。
そんな中で、タイラはついに口を出した。
「その、無愛想なガキはなんだ」
和一という子どもには、もともと愛想がなかった。笑わなかったし、1歳を過ぎた頃からはほとんど泣きもしなかった。周囲に対する訴えをしない。むしろ周囲になんら興味がない。そんな頑なさすら感じるほどだった。
だからタイラは、そう口に出したのだ。自分がその子どもを気に入らないでいる理由を、なんとかその子どもの中に見つけようとしていた。
「どうしてそんなこと言うの、悠くん。お父さんなのに……ダメだよ」
それが、瞳からあったおおよそ初めての反発だった。
これまでにない苛立ちを感じ、タイラは子どもを殴った。「母親がそんなに甘かったら、父親が躾なきゃいけないだろ」と言って殴った。子どもも泣いたが、何より瞳が大袈裟に泣いた。
正直、スっとしたのは覚えている。何に対して怒り何に対して心地良さを覚えたのかタイラ自身にもわからなかった。
そこからは、もう歯止めが利かなかった。
薬を打って上機嫌な時ほどタイラは子どもを殴った。薬が切れれば虚脱感と共に罪悪感に襲われる。やめようとは思った。子どもを殴る親になりたいわけじゃなかった。どうにか子どもを愛そうと、所有物の証にタトゥーを入れてやったりした。妻と、子どもに1つずつ。その時は気に入っても、自分の所有物だと思えば思うほど現状に苛立った。
相変わらず愛想のない子どもは、泣くことすらしなくなっていた。不気味なほど静かだった。
「あのね」と、ある日瞳が打ち明けた。
「わたしも子どものころ、愛想が悪いって怒られたの。自分ではちゃんとしてるつもりなんだけど、人と目が合わなかったり人の言うことが聞けなかったりしたの。わたし、がんばって……ずっと大きくなってからみんなに合わせて笑えるようになったの。そんなに怒らないであげて。わたしのせいかもしれない」
守ってやらなきゃ。俺がこいつらを、守ってやらなきゃ。
そんな焦りはずっとあった。できるだけいい生活をさせてやろうと休む間もなく働いた。それなのに、そこまでやっても、その一切を台無しにするかのように子どもに対しての暴力はエスカレートした。
子どもに飯を食わせるな、とまでタイラは妻に言った。理不尽なことを言っているとはわかっていたが、子どもにまつわるあらゆることが、もう何もかも気に入らなかった。
「どうして、そんなにあの子が気に入らないの?」
そんなことは、俺が聞きてえよ。
「ねえ悠くん、疲れているんでしょう? あの子が生まれてから、お仕事しすぎなぐらいだもの。ちょっと休まなきゃ」
働いていた方がマシだ。
「ねえ、もうお酒もお薬もやめて」
瞳……お前は、いつから俺に口答えするようになったんだ? あのガキが生まれてからか?
苛立ちと不安。自宅に居場所がないと感じていた。
そうして子どもに対する理不尽な暴力は止められず、薬の量は増え、今に至る。子どもは5歳になった。
瞳は今日も愛おしいほどに馬鹿で、タイラに隠れて子どもに何か食べさせようとキッチンにいる。タイラが仕事に行っている時にいくらでも食べさせられるだろうに、瞳はスケジュールにないことをするのが苦手だった。昼食は12時に。夕食は19時に。それ以外の時間に食事のことなど考えてはいない。
ああ、明日は22時までは仕事をしていよう。タイラはそうぼんやり思って、頬杖をついた。早く帰ってくるものではない。久しぶりに、起きている時の顔を見ようと……思って……。
「悠くん?」
声をかけられて、ハッとする。少しの間、寝ていたようだった。
瞳は、にっこり笑って「お仕事おつかれさま。お風呂わいてるよ」と言う。いい女だな、と改めて思った。どんなに人に騙されても人を信じて、だからこそひとりじゃ生きていけなくて、どうしようもなく馬鹿ないい女だ。
「瞳ちゃん」
「えー、なぁに?」
「俺のこと、どう思ってる」
「だいすき」
泣きたいほどに、嘘偽りのない言葉だった。それだけの女なのだから当たり前だ。それすらも信じきれない自分が醜いだけだった。
子どもを膝にのせて、絵本を読む。子どもはほぼほぼ無反応で、それでも視線はめくるページに合わせて動いた。瞳が読み聞かせをすると拙すぎる。文字を読むことに集中しすぎて、ただそれだけになってしまうからだ。だから、時々はタイラがこうして子供に構う。気まぐれに、自分すら騙すように愛しているふりをする。
「和一……」
子どもは、振り向かない。
「なあ、和一」
この名前にはどんな意味があったんだったか、自分でつけたのに忘れてしまった。
「お前も大きくなって、生意気な口を利くようになるのかなぁ」
愛おしさと面倒さのないまぜになった気持ちで、子どもの癖毛を撫でる。「そうなる前に、勝手に死んでくれればいいのになぁ」としみじみ呟いた。
そこまで考えていてもタイラは、子どもを捨てようとは思わなかった。それは自らを捨てた親への反抗心からだったかもしれないが、捨てるぐらいなら殺してやった方がましだとすら思っていた。
ある日、タイラは軽い気持ちで子どもに薬を打った。薬を打って、押し入れに閉じ込めた。相も変わらず子どもはマネキンのように大人しく、もちろん反抗などしない。あんまり静かなもんで、タイラもしばらく自分が息子にしたことを忘れていた。
1時間、いやもっと経っただろうか。ふとタイラは静かすぎる押入れが気になった。開けてやると、子どもは涎を垂らしながら震えていて――――そして、こちらを見ていた。
こいつ……。
(初めて、俺の目を見たな)
タイラは笑ってしまって、その場に膝をついた。子どもの頭を撫でて、そのまま指で額を弾く。
「やっと起きたのか? 俺が、お前の父親だよ」
あほらしい、と思って笑った。子どもは、日に日にタイラに似てきている。目元も爪の形も、もはや髪質以外はタイラの小さなコピーだった。誰の子か、など明白だ。そもそも何に対して苛立っていたのかタイラは覚えていない。
それでも今さら、珠のように慈しむなどできるはずがなかった。
それから子どもは、タイラのことを露骨に避けるようになった。今までただのマネキンのように殴られていた子どもが、危険を回避することを覚えたのである。それが大変に面白かったので、タイラはまた子どもに薬を打って押し入れに閉じ込めた。
今度は子どもも大騒ぎで、気が狂ったかのように中から戸を叩いた。叫び声が響く。言葉にならない『助けて』が空気を震わせていた。すぐに瞳が来て、「何をしたの」とタイラに尋ねる。タイラは上機嫌で、「治療」と答えた。
3回目は、薬の量を誤った。子どもは初めからぐったりしていて、何の反応も示さないありさまだった。死ぬかもしれないな、と思いながらも押し入れに閉じ込める。さすがに罪悪感があった。『このまま死んでくれないか』という思いと、『このまま死なせていいのか』という思いを抱きながら仕事に行った。
仕事中、電話があった。瞳が子どもを病院へ連れて行ったのだ。「治療費が払えない、どうしよう」と瞳は泣いていた。
医師や看護師が止めるのを振り切って、タイラは子どもを家に連れ帰った。瞳は大人しくついて来る。
そして家の中で、タイラは「何考えてんだよ」と妻を責めた。
「子どもに薬を打ったなんてバレたら通報されるに決まってる。お前は……! 俺が捕まってもいいのか?」
「そんな……」
うつむいて、瞳は首を横に振る。でもね、と言いながらタイラを見た。
「あの子、寝たままげーげー吐いちゃって。動かないんだもの。死んじゃうかと思って……」
「吐くって、何吐いたんだよ。また勝手に何か食わせたのか?」
「えっ……それは……」
思わず、タイラは妻を殴った。
「どうして、言うことが聞けないんだ」
沈黙が辺りを包む。瞳は自分の頬を押さえて、目を丸くしていた。タイラも一瞬で頭を冷やして、腕を引っ込める。「瞳……瞳、ごめん。こんなつもりじゃ」と言い訳をしようとしたタイラよりも早く、瞳は膝をついてタイラに縋った。
「ごめんなさい、悠くん……ごめんなさい。もう余計なことしないから。言うこと聞くから。捨てないでください、お願いします」
――――もう。
もう、後戻りができなかった。
幼い少女のように泣きつかれて眠る瞳を見ながら、タイラは頭を抱える。
自分はこうやって妻にも暴力をふるい、発狂しそうになりながら生きていくのだろうか。欠陥品は自分の方だったのだと、認めざるを得なかった。
視線を感じて顔を上げると、そこに子どもが立っていた。タイラを、睨んでいる。カっとなって、「なんだその目は」と声を荒げた。
「お前、俺が誰か……わかって……」
誰なんだよ。
お前は、一体誰のつもりなんだよ。
どこからか声が聞こえて、耳をふさいだ。それは自分の声だった。
この頃から絶え間なく、幻聴が聞こえるようになった。
それからというもの、タイラが子どもに何をしようと瞳が口を出すことはなかった。タイラに怯えて、食事もとらせなくなった。それどころか、子どもが勝手に物を食べようとすれば「怒られちゃう」と言って止めるほどだった。それすら頭痛のタネになり、タイラは静かにこめかみを押さえる。味方の誰もいない圧倒的弱者を苛める気には、さすがにならなかった。
ある日、瞳が口を開いた。
「あの子はどこかの施設にでも預けて、新しい赤ちゃんでも作ろっか。次は、女の子がいいね」
タイラはトイレに駆け込んで、ひとしきり吐いた。
心配そうな顔の瞳が背中をさすってくる。「大丈夫? どうしたの?」としきりに尋ねてきた。
「捨てるのか」とタイラはえづきながら何とか口に出す。あたふたしながら、「預けるだけだよ」と瞳は首を振った。
息を吸って吐いて、「お前の子だろ」とタイラは唇を噛む。驚いた顔で、瞳が首をかしげた。
「わたしと、あなたの子だよ」
頭を殴られたような衝撃で、タイラは瞳と見つめあう。「でも、あなたはあの子が嫌いでしょう」と当然のように瞳は言った。黙ってろよ、とタイラは悔しげに呟く。
「お前のことまで嫌いになりたくない」
瞳を突き飛ばして、タイラは外に出ようとした。「悠くん」と後ろから呼び止められる。
「あなたの子だよ。あんなに……似ているでしょう?」
知っている。そんなことは、痛いほどにわかっている。
幻聴も幻覚も、日に日に悪化していった。仕事にすら行けないほど追い込まれていた。薬を打ってまどろむ時だけが救いだった。
いつものように薬を打ってテーブルに突っ伏して眠る。夢の中でタイラは幼いころの姿で、殴られていた。施設の連中だ。
あの頃は、生きる意味が見つからなかった。自分の中にも、世界の中にもだ。
(
ふと、タイラは目を覚ます。背中が熱くて振り向いた。子どもが、立っている。赤く染まったナイフを持ちながら。
「和一、お前……」
それを振り下ろされて、ようやく感じていた熱を痛みと認めた。呆然としながら動けずにいる。子どもはありったけの力を込めてタイラの背にナイフを突き刺し続けた。子どもの力では肉を裂くに至らず、刃が皮膚を切りつけるだけだ。それでも子どもは確固たる意思を持って、明確な殺意をもってそのナイフを振り下ろしている。
もちろん、ナイフを取り上げるのは簡単だろう。しかしそれをした時、恐らく自分はこの子どもを殺してしまうだろうという予感があった。
今こうして冷静に物を考えている自分など、子どもからナイフを取り上げた時点で興奮していなくなってしまい、そのままそれを振り下ろすだろう。まずは腕や足を刺して、さあ泣いてみろと迫るに違いない。
────これは、夢だろうな。
ああ、ひどい悪夢を見ている。痛みを伴う夢だ。
子どもはその黒い髪を血で汚している。その目を見れば吐き気すら覚えた。見たことがある。タイラは、その目を知っている。『なぜ自分だけがこんな惨めな思いを』と周囲を片っ端から憎んだ、幼い日の自分と同じ目だ。
俺が悪いのか?
子どもにも妻にも、自分を捨てた親にも施設の奴らにも、社会にすら落ち度はなく。ただただ、俺が悪かったというのか。
そうなのか。ああ、そうなんだろうな。
俺が、全て悪いのか。
笑えてきた。自分が、自分だけが悪いと思えばその方が楽だった。
どうせ夢だ。明日になれば、またクソみたいな日が続くだけ。当然だ。何より自分がクソすぎる。
子どもの、ナイフを持つ手を掴んだ。冷たい。それに、細い腕だ。通常の5歳児よりも小さく、細い。子どもは未だ勝気な目でこちらを睨んでいた。
「下手くそめ……何百回刺して俺を殺す気だ……?」
腕を掴んだまま、自分の首へ近づける。切っ先が喉に触れた。
どうせ夢だ。明日になったらきっと。
明日になったらきっと、こいつに上着のひとつでも買ってやろう。
そのままナイフを、自分の喉に突き刺した。
(……あーあ、楽に死ねもしなかった)
☮☮☮
部屋に入って、瞳はキッチンを見る。息子が冷蔵庫を開けて、中のものを片っ端から口に入れていた。立ち止まって眉をひそめる。
「ダメよ、悠くんに怒られちゃう」
そう言いながら駆け寄ろうとして、悲鳴を上げた。
悠仁が倒れている。首に、果物を切るようなナイフが突き刺さっていた。
呆然としながら立ち尽くす。それが現実であるとは思えなかった。ふらつきながら近づいて、そっと彼の手に触れる。ひどく冷たかった。
「どうし、て……」
途端にパニックになって、悠仁の体を揺さぶった。「起きて、起きてよ」と言いながらナイフを抜く。血がどっと出た。
「やだ……置いて行かないで」
泣きながら彼の腕を掴んだ。ぴくりとも動きはしない。泣きじゃくって彼に縋った。
ふと顔を上げれば、隣に息子が立っている。無言で何かを差し出していた。冷蔵庫の奥の方に入れたまま忘れられていた、果物の缶詰だ。開けろ、と訴えているのだろうか。子どもは頭から爪先まで血がべったりついていた。
この状況で、悠仁とこの子どもしかいない状況で、誰がやったことなのかは明白だった。
瞳は、悠仁の額を撫でる。もう目を覚ますことはない。「かわいそう」と呟いた。「かわいそう、悠くん。泣いてる」と。
それから、子どもに向き直った。
「わたしのことも殺すの?」
子どもは理解できていないようで、ただ缶詰を押し付けてくる。それを撥ねつけて、「やめてよ」と悲鳴を上げた。立ち上がって、逃げるように後ずさる。
「わたしが……全部わたしが、やったことにするから。そんな目で見ないで……。どうしてみんな、わたしを責めるの……?」
両手で顔を覆った。「わたしが馬鹿だからこんなことになっちゃった」と呟く。それから子どもをちらりと見て、「ゆるして」と囁いた。「ごめんなさい、許して。あなたがこわい」と。
そう言って、瞳は家を出た。
☮☮☮
刑事が2人、足を踏み入れる。若い刑事と、妙齢の刑事だ。先輩後輩の関係だろう。家の中を見渡して、「ひどいですね」と若い刑事が眉をひそめた。
「ああ……もう随分前から、人間的な生活をしていなかったような荒れっぷりだな」
奥へ進んでいき、リビングキッチンにたどり着く。「被害者の男性は
「で、妻が出頭してきたんだったか」
「
平悠仁が死んでいた場所で手を合わせ、先輩は肩をすくめる。
「殺害後2週間近く、女はどこに行ってたんだ?」
「近くのビジネスホテルに泊まっていたようですが、金がなくなって出頭してきたような流れですね。誰も頼れなかったんでしょう」
「2週間……この家には誰も訪れなかったのか」
「そうですね。大家は家賃さえ納めてあれば放任だったようですし、男も近頃仕事を休みがちだったようで、職場から電話をすることはあってもわざわざ家に来ることはなかったようです」
「社会的な関わりが希薄な家……こういうのも、社会問題になっちゃうのかねえ」
希薄というわけでもなかったようですが、と後輩は難しい顔のまま続ける。
「特に平悠仁は、友人も多かったようですし、職場では下から大変に慕われていたようですよ。こちらから聞き取りを行う際も、死亡を告げれば泣き出す関係者がちらほら」
「薬やってたんだろ? まあ、外面だけはいい男なんていくらでもいらぁな」
「対照的に、平瞳はどこのコミュニティでも疎まれていたようです。家族すら『もうしばらく会ってないから知らない』と眉をひそめたそうな」
「…………子どもは?」
ああ、と言いながら後輩は手帳をめくった。その表情にはどこか、当惑のような忌避のようなものが浮かんでいる。
「あの……発見されたとき枕の中身をむしって食ってた子ですか……誰に聞いても、『子どもなんかいたのか』とか、『もうとっくに死んでると思ってた』とか、散々ですね」
「虐待か」
「でしょうね……」
「それにしても2週間、よく生きてたな」
「家中の食いもん腹に入れたあとは、片っ端から食えないもんも腹に詰め込んでたみたいで。保護のあとまず、腹切って開けて異物出したって聞きましたよ」
「生命力の強いガキだな」
ごく自然にため息をつきながら、先輩刑事は家の中を歩き回る。「あの」と後輩が呼び止めた。
「先輩は、どう思ってるんですか」
「は?」
「本当に、あの女がやったと思いますか」
眉をひそめ、先輩は舌打ちをする。
「何が言いたい」
「あの、ナイフに子どもの指紋がベタベタついてるって……ちょっとおかしくないですか」
「家庭内の事件で凶器の指紋など何の証拠にもならん」
「でも、発見当時子どもは全身血まみれだったんですよ」
「分別のつかない5歳児だ。父親の死体で遊んだのかもしれん」
おかしいですよ、と後輩刑事は不満そうに、しかし自信なさげに繰り返した。先輩は軽やかに、後輩の頭を叩いた。
「タイラヒトミは自分がやったと言っている」
「そうですけど……ほとんど黙秘ですよ。『夫を殺した』以外は『はい』と『そうです』しか言ってない」
「『はい』と『そうです』が言えてれば上出来だ。話が進む」
「………………一度だけ、うわごとのように言ってたんです。『きっと悠くんが』『いつか悠くんが』『助けに来てくれる』って。普通、自分で殺した夫についてそんな風に言います?」
「情緒が不安定なんだろ」
ムッとして、後輩は先輩刑事を睨んだ。「俺は、あの子どもがやったと思っています」と言い切った。「まだ5歳だぞ」と先輩は片目を閉じる。構わず、「本当は先輩もそう思ってるはずです」と押した。
「あのなぁ、お前……俺たちは国民の皆様の血税で捜査をさせていただいているんだ。誰も得をしない思いつきで長引かせるわけにいかねえんだよ」
「でも、」
「あの女のことを保護してやろうとは思わないのか」
「えっ」
「あの女は……裁きを受けるために出頭したんじゃない。保護を求めて出頭してきたんだ。それでも真相がどうとか、くだらないことを言い続けるのか」
「真実を明らかにするのはくだらないですか?」
「くだらないな。それに、5歳の子どもが父親を殺したなんて荒唐無稽な話を証明できるものは何もない。あの男を殺したのは妻だ。間違いなく」
そう言って、先輩刑事は背中を向ける。「もう行くぞ」と呟いたきり、もう何も言わなかった。後輩も、不満そうな顔でついていく。一度だけ振り向いた。今はもうあの家族が、そこでどのように暮らしていたか──── 一切、見えるはずもなかった。
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