筋肉紳士 ~剣と魔法の世界に筋肉で挑む~
鏡水 敬尋
第1話 いざ、異世界へ
日本の某所に、ある男が居た。その男の名は、
彼は常々考えていた。異世界に行きたい、と。
この日本では、彼の極めし筋肉を活躍させる場がないのだ。金儲けに興味はない。名誉がほしいわけでもない。ただただ、自分の筋肉が、どこまで通用するかを試したかった。
車に
そこで彼は、ネットで見かけた、ベンチプレスワープを試すことにした。いつものように、自宅の一室に
やり方はいたって簡単だ。ただ、ベンチプレスをするだけである。ただし、高速で。成功するとどうなるのかは、ネットには書いていなかった。成功したものは、みな、どこかの異世界へワープしてしまい、こちらの世界には戻ってきてないからであろう。
彼は、バーベルの両端に、重りを着け、ベンチに横たわった。
目に前にあるバーへと両腕を伸ばし、そっと握る。
小さく息を吐き出しながら、バーベルをラックから外して持ち上げると、静かに、ゆっくりと、自分の胸へと下ろしていき、そして挙げる。
バーベルの体感重量を確認した彼は、確信した。今日のコンディションなら行ける、と。
彼は、目にも止まらぬ速さで、バーベルを引き下げ、押し挙げ、それを繰り返した。
「ふっ。ふっ。ふっ」
トレーニングルームに、彼の呼吸音だけが鳴り響いている。
彼の両腕の速度が音速を超え、辺りに衝撃波が広がった。
もっと速く! もっと! 光速を超えるのです!
彼は心の中で自分に言い聞かせながら、さらにスピードを上げた。
やがて、彼の周囲の空間が
「ふっ! ふっ! ふっ!」
バシュ、という音とともに、彼の姿は消えた。その直後、宙に浮いていたバーベルが、自由落下し、安全バーにぶつかって、ガシャン、と音を立てた。
持ち主の居なくなったパワーラックの中で、安全バーの上を、バーベルがゆっくりと転がり、やがて止まった。
彼は、気がつくと、広大な草原の
成功、したのでしょうか?
彼は立ち上がり、周囲を見渡した。見渡す限りの大草原だった。360度、どちらを向いても、横一直線の地平線と、遠くに
ここは、果たして、異世界なのでしょうか。
それを確認しようにも、彼には、そうする
彼は、自分が何も持っていないことに気づいた。スマートフォンはもちろん、財布も、お金もない。ここが異世界であった場合、それらがあったところで、役に立つのかは分からないが。
彼にあるのは、今、身に着けている、トレーニングウェアと、筋肉だけだ。
注意深く地平線の彼方に目を凝らした彼は、そこに、小さな村らしき、建物の影を見つけた。
まずは、あちらへ行ってみましょうか。
彼は、右手の親指と人差指で、自慢の口ひげを挟んで撫でると、
「きゃあ!」
村の中に、少女の悲鳴がこだました。
大柄な男2人が、少女の腕を
その男達から一定の距離をおいて、20名弱の村人達が、遠巻きのその光景を見ていた。
「エリカ!」
茶色いローブを
「その子は、今までに、もう充分すぎるほどの悲しみを味わった。これ以上、つらい目に遭わせないでやってくれ」
「うるせーぞ。じじい」
モヒカンが、その手を乱暴に払いのけると、老人はバランスを崩し転倒した。
「長老!」
村人達が声を上げるが、助けに出るものはいなかった。
「つらい目だあ? この女はこれから、俺らのボスのところで、幸せな生活を送るんだよ。こんな村で暮らすより、刺激的で、気持ちの良い毎日だぜ」
そう言って、モヒカンは
「この女を渡さねえっていうなら、お前ら全員、皆殺しにしても良いんだぜ」
「ひっ」
村人の間に動揺が走り、数人が村の奥へと走り出し、建物の中に逃げ込んでしまった。
「ぐぅ。エリカ」
老人は、起き上がれないまま、片手をエリカのほうへと伸ばした。それを見たエリカは、笑みを浮かべて言った。
「長老様、今までありがとう。わたしのことなら大丈夫」
エリカは、
「わたしが行けば、村のみんなには手を出さないと、約束してくれますか?」
モヒカン達は、薄ら笑いを浮かべながら答えた。
「ああ、もちろん。約束するぜ」
「嘘に決まってる」
「今までだって……」
小さな声が村人達の中から漏れたが、それらの声は、あまりに小さく、虚しかった。
「さっさと来な!」
モヒカンが少女の腕を強引に引き、村の出口へと進むと、向こうから1人の男がやってきた。
その男は、口ひげを生やしており、迷彩のタンクトップと、グレーのハーフパンツ姿だった。そして何より、素晴らしい筋肉の持ち主だった。
男は、
「これはこれは、
モヒカンが
「なんだあ、てめえは?」
「それはこちらのセリフです、と申し上げたいところです。先ほどから拝見しておりましたところ、あなたがたは、そちらの、うら若きお嬢さんを、
「おい、おっさん。人聞きが悪いことを言うなよ。この女は、自分の意志で、俺らと一緒に来たいって言ってんだ。なあ?」
モヒカンが、エリカを目で脅すと、エリカは目を伏せ、黙って
しかし、その少女の目に、怯えの色が浮かんでいるのを見た男は言った。
「とても、そうは見えませんねえ」
「ごちゃごちゃうるせえぞ! なんか文句でもあんのか! あ?」
「単刀直入に申し上げて、あります。その少女を離してあげてください」
「いい度胸してるじゃねえか。俺らを、クリムゾンの一味だと分かって言ってんのか?」
「存じませんし、興味もございません」
村人の間に、再び動揺が走った。
「まずいぞ」
「おい、誰か、あの男を
「お前が
モヒカンが、エリカの腕を離し、男に近づいた。
「いるんだよなあ。こういう無知なやつが。自分が何をしてるのかも分からねえ、紳士気取りのバカがよ!」
モヒカンは、男の顔に右ストレートを放った。
ガッ!
男は、
「
男はそう言って、右手で、モヒカンの手首を握り、ほんの少し、力を込めた。
ベキベキ、と音を立てて、モヒカンの手首の骨が砕けた。
「ぐぎゃあああああ」
モヒカンは、その場にひざまずき、痛みに
男は、すばやく、逆モヒカンに近づき、その顔を
黒目が、ぐるん、と後ろに返り、逆モヒカンは、その場に
男は、逆モヒカンの服を掴んで、軽々と持ち上げると、モヒカンの
「死んではいません。連れて帰りなさい」
「くそ。クリムゾンに手を出して、ただで済むと思うなよ」
モヒカンは、左肩に逆モヒカンを担いで、よたよたと村から出ていった。
男は、エリカに向き直って言った。
「お嬢さん、お怪我はございませんか?」
「あ、わたしは、大丈夫です。で、でも、あの……」
「それは、何よりでございます」
そう言うと、男は、近くで倒れていた老人を抱え起こした。
老人は、伏し目がちに言った。
「まずは、礼を言います。エリカを助けてくださり、ありがとうございました。わしは、この村の長老です。しかし……」
村の奥から、誰かの声が言った。
「なんてことをしてくれたんだ」
「この村も、もうおしまいだ」
長老は、続けた。
「あなたのおかげで、村は滅ぼされるかもしれません」
男は言った。
「詳しく、お話をお聞かせ願えませんか」
丸太を組んで作られた、質素な家がまばらに建つ村の、中央に位置する集会場で、長老と男は、向かい合って座った。その周りを村人達が囲んでいる。
長老が、ぽつりぽつりと語り出した。
「やつらは、クリムゾンの一味です」
「確かに、先ほどの男たちは、その名前を口にしていましたね。クリムゾンとは、何なのですか?」
「この辺一体を支配している、悪党の集団ですよ。ボスの名前は、
「ほう」
男の目に、鈍い光が浮かんだ。
「
男が周囲を見回すと、確かに、長老の言う通り、みんな、筋肉弱者ばかりに見えた。
長老は、目を鋭くして言った。
「クリムゾンは、早ければ明朝、遅くとも数日中には、報復に来るでしょう。わしらには、あなたを守ることはできません。むしろ……」
「わたくしを、差し出さなければ、皆殺しの可能性もある、と、そういうことですね」
「そうです。エリカを助けてくれたことには感謝しとる。せめてもの礼として、飯と寝床くらいは提供させてもらいます。しかし、やつらが攻めてきた時は……。申し訳ありません。分かってください」
男は、目を細めて、優しい笑みを浮かべて言った。
「食事と寝床を用意していただけるだけで、恐悦至極に存じます。むしろ、わたくしのせいで、みなさまにご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません。自分の行いの責任は、自分で取りますゆえ、お気になさらないでください」
長老は、目に涙を浮かべながら、申し訳ない、と何度も頭を下げた。
やりきれない空気が流れ、周囲に集まっていた村人達は、三々五々に散っていった。みんなが去っていく中、1人、その場に残った少女がいた。
セミロングの赤毛を風に揺らしながら、神妙な面持ちで立っていた、その少女はエリカだった。
「あの、すみません。わたしを助けたせいで」
「エリカ様のせいではございません。先ほども申し上げましたように、全ての責任はわたくしにございます」
「で、でも」
男は、右手を挙げて、エリカを制し、長老に言った。
「申し訳ございませんが、早速、お言葉に甘えさせていただいてよろしいでしょうか」
男とエリカは、長老の家で、食事の乗ったテーブルを囲んで、座っていた。
男は、目の前に置かれたスープをひとすすりした。
「素晴らしい!」
男の声があまりに大きくて、エリカは、びくっと体を震わせた。
「そ、そんなに美味しかった?」
「わたくし、このように美味しいスープを、生まれてこのかた、頂いたことがございません」
「そんなおおげさな」
エリカは、少し
「いやいや、エリカの料理の腕は、村で一番ですよ」
同じくスープをひとすすりした長老が言った。
「料理は、お母様から教わったのですか?」
男が聞くと、エリカは、にかっと笑って言った。
「そうなんだ。うちのお母さんこそ、村で一番だったんだから。……数年前に、死んじゃったけど」
長老が補足した。
「エリカの両親は、クリムゾンのやつらに……」
長老とエリカの表情は暗かった。
この男は、近日中にクリムゾンに殺され、最悪の場合、村人全員が殺される可能性があるのだ。明るく談笑などできる雰囲気ではなかった。
しかし、男は、まるで危険など感じていないかのように明るい。
「いやはや、エリカ様は、料理の天才でございますな!」
2人は最初、この男が、
「あの、どうして、わたしを助けてくれたの?」
男は、不思議そうな顔をして答えた。
「どうしてとは、おかしなことをおっしゃいますね。むしろ、目の前で困っているかたを、お助けしない理由がありましょうか」
「でも、そのせいで、あなたは危険な目に遭って……。たぶん、殺される……」
「殺されませんよ」
男は自信ありげな笑みを浮かべた。
「わたくしは、身の危険など一切感じておりません。もっとも、身の危険を感じていたとしても、お助けするのが紳士であり、わたくしは、常にそうありたいと思っていますが」
絶句する2人に、男は続けた。
「村のみなさまにも、一切の危険が及ばぬよう
翌朝、多数の足音が、村に迫ってきていた。100は下らないであろう人影の中に、一際大きい影がひとつ。
その影を見た村人が言った。
「
村人達は、それぞれの自宅へと逃げ込み、窓から、外の様子をうかがった。まばらに建つ家々の間を、タンクトップにハーフパンツ姿の男が、村の出口へと歩いていく。
「わたしも行く!」
エリカが、男を追いかけて走ってきた。
「わたしが出ていけば、あなたは、殺されずにすむかもしれない。わたしが出ていって、交渉してみる」
後ろを振り返った男の目に、薄っすらと涙が
「エリカ様の、そのお優しさとご胆力には、感服いたします。しかし、それゆえ、わたくしは、あの悪党どもが、どうしても許せないのです」
男は、前を向いて歩き出した。
「エリカ様は、安全なところで、お待ちになっていてください」
そう言って、男は、右手の指で、自慢の口ひげを撫でた。
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