【短篇集】歩いていたら死んだ件

@Mapusan

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彼は回想の中にあってさえ、自分の本名を思い浮かべることはしなかった。それはとても凡庸で、そして凡庸とは、彼の最も嫌う言葉だった。だからそれよりも、彼は自分自身をいくつかのペンネームによって定義し、やはりこの瞬間にも、自分のことをそう呼んだ。


真宮寺ヤマト。


彼が生み出した最も新しいペンネームだ。これは彼が持つ、他のいくつかのペンネームとは異なり、幾人かには周知されていた。彼の著した本を手に取った人々にとって、彼は「忌むべき本名」ではなく、真宮寺ヤマトだった。

稚拙で、自己顕示性にまみれ、それでいてオリジナリティはどこにもない。無色、文字のみの数ページからなる、手製のチープな本だったが、それでも彼にとっては、十分な熱量を込めた一冊だった。


世界に十冊のみ。そのうち七冊が彼の自室に存在する。

その本こそが、彼を「真宮寺ヤマト」であらしめる唯一の証左だった。


彼は、自らの生まれや育ち、そして夢見がちな個性を、理由もなく毛嫌いするほどに若かった。同様に、それを愛するほかになく、家族以外の全ての人間にも、それを理解して欲しいと渇望するほどに若かった。「通学」というタイミングで死ぬことになったのも、その若さゆえだ。学生でなければ、通学中に死ぬことはできない。


誰が悪かったわけでもない。運転手の視界を遮った鴉は、いかなる理由で浮力を失っていたのか、それは地上の誰にも分からない。因果の終点が「彼の死」という出来事に帰結するならば、鴉もまた、既に死んでいたのだろう。


ともかく、操縦を誤った乗り物にはねられて彼は死んだ。厳密には、地面に叩きつけられた際に頭蓋を骨折し、いくつかの脳内出血が併発したことにより、少しばかりの時間をかけて意識を失い、そしてその意識は戻らないまま、やがて彼の脈動は止まった。即死と呼ぶのならば、そうなのかも知れない。


とはいえ、彼は現時点で地に伏して、痛む箇所に手を伸ばすこともできないままではあるが、彼がその一生終えるまでの残り4分33秒の間に思いを馳せることができる。


まずは、そう。やはり家族や生活のことよりも、「真宮寺ヤマト」のことを考えた。幾度となく紙を破り、筆を折ろうと思ったことだろう。それでも彼が死ぬまでの間に、ひとつの成果を世に放つことができたのは、彼自身にとっても、そして彼の非才を知る両親にとっても、偉業と呼ぶべき出来事だった。


彼は幼い頃から大衆向けの娯楽小説に魅入られ、特段、それらに登場するヒロインに思いを馳せていた。彼の唯一の著作、その「題名のない虚無劇」とでも呼ぶべき文字の集合にも、そういった要素を含めた人物が登場する。「アリア」は、彼が自意識と同等の規模でその内側に飼っている、いわば彼自身の性的嗜好の粋を煮詰めたような存在であり、彼の著作のヒロインでもあった。

彼女は天真爛漫でありながら、静かな夜の月明かりに例えられるほどの妖しい美しさを有し、それでいて理知的な側面を持ち、詩や舞踊、ユーモアのセンスもあり、何より彼自身、あるいは読者に対してひと際、尋常ならざる恋慕の念を抱いていた。


真宮寺ヤマトに残された最初の1分間は、このヒロインに対する追想にあてられた。


「もっと書きたいエピソードがあった。彼女の口に語らせたい台詞があった。いや、それが一体どのようなものであるかは、まだ影も形も見いだせてはいないが、しかし、彼女のような存在を「もっと生み出したい」という欲望が、はっきりとした輪郭を持って、ここにあった。」


ヤマトが手作りした「その本」を手に入れるためには、そういったアマチュアの作家たちが集うイベントに顔を出し、特に大きな宣伝を打っているわけでもない彼のサークルを探し出して赴き、そして、緊張と無関心さが同居したような彼の表情、その視線を何とかもぎ取って声をかけ、僅かばかりの金銭を支払って、購入しなければならなかった。


「今にして思えば、そんな場所で、こんな僕から、あんな本を買うために声をかけてくれた人たちのことを、もっと気にかけたり、もっと知りたがれば良かったのかも知れない。」


「そしてアリア、すまない。君の物語はまだ、始まりさえしていないのに、僕はそれを書くことができない。きっといつか、やがていつか、君を、あるいは君のような姿形をした誰かを、その中心に添えて、誰もが羨むような主人公を作り上げ、誰からも愛されるような物語を書き上げるつもりだったのに。」


次の1分間で、真宮寺ヤマトは友人のことを思い出した。


彼らは学友であり、よく似た趣味、嗜好を有する一団だった。その誰もが非才で、凡庸極まりなく、それでいて大言壮語に夢を馳せ、努力なく、それに焦燥もなく、時にヤマトを侮蔑し、時にヤマトから侮蔑され、それでも、そういった日常のやり取り全てに遺恨を持たない。吹き抜け、体を冷やす風のように気持ちの良い仲間だった。


「彼らと常日頃から話していたような「突然の死」が自分に訪れたことを、彼らはどう思うだろうか。僕の死体を指差して、彼らは泣くのだろうか。それとも笑うのだろうか。後者であって欲しいと願うのは、彼らとの思い出の中に、悲哀と呼ぶような感情が一度も出てこなかったからだ。」


一方で、彼らと話題にしたような「走馬燈」が、一切の姿を見せないことを、ヤマトは残念に思った。あるいは、自分の生涯はあまりに短く、そういったプレビューを作るだけの素材が十分ではないのかも知れない、とも考えた。


「きっと誰もが大成しない。そんなこと、みんな分かり切っていて。それでも、夢を語らうことは楽しかった。今、自分の中核を成すものを、それぞれが有し、それぞれが声高に語る。彼らこそ何よりも。創作の中の人物よりも。自分が知るあらゆる大人たちよりも。遥かに人間的だ、と感じたことは、きっと間違いではないのだろう。」


次の1分間で、真宮寺ヤマトは両親のことを思い出した。


ヤマトにとって、彼らはあまり良い両親ではなかった。ヤマトがもし、この先も人生を歩み続けることができて、その上で、現時点での甘やかな、夢見がちな、それを否定も肯定もできないような、意思の薄弱なままに育ったとしたら。きっとあの両親のようになっていただろう。


彼らはヤマトに夢を見ていた。ヤマトの非才を知りつつも、眠る何かがあると待望した。そしてそれを引き出すために、彼の文才を否定した。代わりに出てくるものがきっとある。彼らはそう信じて止まなかった。彼ら自身もまた、自らの空虚と向き合うことを恐れていたからだ。彼らは、何も起きなかった自分たちの人生の「結実」をヤマトに求めていた。


それでもヤマトは、この瞬間まで、両親に多大な感謝を抱いていた。「生まれただけで幸運だ」というような地のポジティブさが、彼にはあった。ところが今、その幸運が不運で塗り替えられ、彼自身の人生がとても空虚な、ほとんど結実を持たないものになり下がった、と彼が感じた時。彼の両親に対する思いは、どこか的外れな、それでいて的を射た、怒りに満たされていった。


「どうしてもっと、もっと応援してくれなかったんだろう。もっと早くにやる気になっていれば、もっと強くやりたいと願えていれば、お金だって、時間だって、きっと彼らの懐から取り出せたはず。彼らが言い聞かせた「非才」の殻を破って、僕は孵化できたかも知れないのに。」


次の1分間で、真宮寺ヤマトはもう一度、書きたかった物語について思いを馳せた。


「こういうのはどうだろう。平々凡々で、何もとりえがないような、たった一人の学生が。通学の途中で事故に遭い、目覚めるとそこは別の世界で。そして彼には一握りの才能―――、例えばそう、文才のようなものがあって。」


「編集者やライバル、そういった人々との関係に心を煩わされつつも、何らかの「物語」を作り上げて出版し、やがてそれが評価され、世界を動かし、世界を変え、そして来たる破滅へと対抗する切札にさえなる。タイトルはこういうのがいい。「何の取り柄もない僕が、異世界で文豪になった件について。」キャッチーだ。カジュアルだ。きっと誰もが好んでくれる。きっと誰もが愛してくれる。そういう物語を書こう。そういう物語が書きたかった。今ここにペンがあれば、僕はそういう話を書く。」


そして、最期の33秒。


「機械文明が過度に発達した異世界で、僕はまず驚くんだ。この世界では紙やペンではなく、機械で文章を自由に書ける。それなら簡単だ。辞書を引く必要もないんだ。僕はもっと気軽に文章に向き合えるはず。なんの覚悟も、決意もいらない。頭に浮かんだものを、ここに描写するだけでいいのさ。赤いスカーフを巻いた、その世界の女学生が驚いて言うんだ。「なんて凄い文章を書く人なの!」そうさ。僕はこれを、なんとペンでも書けるんだぜ。十分な時間と、やる気を貰えればね。凄いだろ。予言の人だろ。きっと僕が世界を救う。今に世界が僕を救う。父さんや母さんだって僕に謝る。僕を褒める。きっと誰もが僕の名を知る。そうだ、僕の名前は―――、」


頭の裏にじんわりと広がるような生温い痛みと、何かが焦げついたような匂いを幻覚して、それが最期。パチパチ、と火花のような何かが、閉じた視界の端で明滅すると同時に、ヤマトの意識は失われた。


路上に残された死体。未だ何者でもないその少年の亡骸は、それほど外傷が痛烈ではないことも相まって、まるで眠っているようにさえ見えた。とはいえ、長い耳はその中腹からぽっきりと折れ、亜麻色の髪は血漿で汚れ、白い肌にへばりついてしまっている。


こうして、エルフの少年、フロディ・シェフィールドは、隊商の馬車にはねられて頭を打ち、およそ17年からなる、その短く、凡庸な生涯を終えた。

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