ゆめうつつ

くさったしたい

雨傘の貴婦人

 雨男というものはやはり少々厄介なものである。超能力のように制御ができればよいものの現実はそうもいかない。まるでバケツをひっくり返したような通り雨を最寄り駅で見送ってから僕は帰路についた。

 道にできた水たまりが僕の革靴をかじろうと虎視眈々としている。空は鬱屈とした曇天だが、天気予報によればこれも明日の朝までのことだという。果たしてそれが当たるかどうか。

 これ以上スーツの足元が濡れてしまう前に帰ろうと駅の階段を下ったときだった。少し離れたところにたたずむ女性が目についた。

 これはいやらしい意味を孕んだことではなくて、と言うとさらに言い訳がましいが、初老にかかろうかという彼女のたたずまいに目を奪われたのだ。ふくよかな体型に加えてふんわりと広がるスカートが、雨上がりの湿った風に揺れている。彼女にはという言葉がぴったりだと柄にもなくそう思った。

 貴婦人は雨がやんでいるというのに、フリルのあしらわれた丸いシルエットの傘をさしたまま空を眺めている。理由は分からないがなんとも神妙な気持ちになる光景だ。その日、僕は貴婦人の後ろをそっと通り過ぎて帰った。

 その翌日も貴婦人は傘をさして立っていた。今日は天気予報が大当たり、羊雲の泳ぐよく晴れた一日だった。彼女は何をしているのだろう。

「待ち合わせですか。」

 考える間もなく僕は貴婦人へと声をかけていた。しかも、こんな声のかけ方では軟派な男のように思われてしまったかもしれない。「昨日もいらっしゃったので、つい。」と、苦し紛れに言葉を紡いだのが殊更わざとらしかったかもしれない。

 貴婦人は笑って答えた。

「雨を待っているのよ。」

「雨、ですか。」

 貴婦人は穏やかな笑みを浮かべながら空を仰いだ。

「みんなが雨を嫌うのはどうしてかしらね。とてもきれいなのに。」

 ぽたり、と一粒の雫が頬をたたいた。貴婦人にならって空を仰ぐと、先ほどまでののんきな夕暮れが灰色に覆われていた。雨だ。

「雨は全部、きれいに洗ってくれるのよ。空気も地面も、心まで。」

「心、ですか。」

 僕が貴婦人に視線を戻すと、そこには雨傘がころんと落ちているだけだった。

 僕はその日、フリルについた土を丁寧に落として、傘を持ち帰った。成人男性が持ち歩くには少々いたたまれない気持ちだったが、その傘を大事にしなくてはいけないと感じたから、持ち帰った。

 彼女が誰だったのかは分からない。

 あの日を境に、僕は雨男ではなくなったようだ。

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