まだ死ぬわけにはいかない!

最近は痛風気味

第1話 やっぱり死のうか

 「お前なぁ、さっきちゃんと俺が指示を出したろぉ!言われたことも真途目に出来んのか?その歳になって。新入社員でも出来る事だぞ、おい。分ってるんか?」

 グループリーダーの怒号がいつもの様に朝っぱらからフロアに響き渡る。

 「すみません」

 「謝る事ならサルでも出来るって知ってたか?それで済んだら警察さんも要らねぇんだよ。何で商品の単価が一桁違うんだよ?どうするとそうなるんなるんだ?菓子折り持って先方さんに謝って来い。お前、謝るの得意だろ?悪ぃ、それしか出来なかったっけ」

 周りから失笑がどっと起こった。

 『パワハラ』と言う単語が耳に入る様になって久しい。《ハラスメント》という意味が独り歩きして何でも語尾に付ければ《免罪符》になって何かと生きづらい世の中になってしまった。その奔りが『セクハラ』である。人によっては服装や髪型に言及しただけでざわつくという、その言葉を盾に被害(者)づらした加害(者)が何と多いものか。では、どう他人と接すればよいか?人間関係が希薄というより、その糸口さえ見つけにくい現実に

『何か違うんではないか?』

というのが個人的な所感である。

 遠藤聡志。42歳。独身。髪の毛もかなり禿げ上がって、バーコードの様になって居るあだ名も「バーコード」。スーツにもセンスの欠片も見えない。おまけに靴はいつもボロボロでメガネもいつも薄汚れている。『ザ・窓際族』という言葉がこれ程当て嵌まる人間も居そうに無い。

 この歳になっても「主任」止まり。と言っても年功序列の恩恵での「主任」である。当然、慕うどころか、部下がゼロ。同僚と呼べる人間も無く、常に孤独。寂しい42年間である。

 勤務先は中野区にある「SA食品」と言う外食向けの食料を調達する小さなベンダーである。そんな小さい会社の「主任」であるからどれ程「使えない」駒で有るかは読者も推測がつくであろう。肩たたきに合わないのは、雑用に必要な要員であるからだ。誰もやりたがらない仕事を廻される、言うならば「人柱」だ。

 聡志が文句ひとつ言わず此処までやって来た事は称賛に値するが、何せ、ミスが多いので結局「二度手間」になってしまう。だから、周りの社員は「スモーキー遠藤」の称号を与えている。「煙たい」からである。フルネームは長いので「スモーキー」と呼ばれている。

 今日も発注の金額を「一桁」間違い、リーダーから批難轟々。得意の「面前説教」で「言葉のサンドバック」状態。それを見ている同僚も助けの手を敢えて差し伸べず、嘲笑しながらその様子を面白がっている。

 聡志は、42歳までこんな毎日に耐え続けて来た。「サンドバック」もそろそろ打たれ過ぎて、中身の砂が出てきそうだった。

 「もう、いい加減駄目だな。無理だ」

 その言葉が頭を巡ったのは散々課長にいつもの説教を受けた帰路で、JKに

「キモいよね」と指刺された時だった。

 

 「死のうか」


  その言葉が、歩を進める度に頭の中にリフレインし、音量が大きくなって行く。

  気がつくと、港区の神宮前高架橋の橋桁に足を掛けていた。


 「神様、次人間に生まれ変わったら、ハゲにしないでて下さい」

 《え、そこかい!》

 とツッコみたくなる言葉を念じた。

 「南無参!」

 その言葉を残して、高架橋から飛び降りた。

 聡志の頭の中にこれまでの人生が走馬灯の様に・・・、巡らない!廻ったら悲惨すぎる。

 「俺も終わっ・・・」

 「ガツンッ」

 「痛っつ!流石に死ぬときは激痛だな。どうなったんだろう?でも背中だけがめちゃくちゃ痛いな。そんなもんなのか、死ぬって。もっと頭の中が白くなるとか、そういうんじゃないのかな?あれ?」

 聡志は、血が出てるであろう、後頭部を薄い髪の毛の上から摩ってみた。血なんて出てやしない。何かおかしい。

 「うん、おかしいぞ。血が全く出てない。何でだ?でも、やけに騒がしい。流石に仏になって救急車か?」

 「おい、てめえ、何してけつかるんじゃ!」

 「おお、きっと閻魔様の声だ。此処は天国じゃ・・・」

 「ぼこっ」

 聡志に頭に激痛で無い、違った意味の「劇痛」が走った。

 「いってぇ」

 「いってぇ、じゃねぇんだよ、このハゲ」

 「あれ、閻魔さま・・・じゃないっすか?」

 「じゃないっすか?じゃねえんだよ。このハゲ」

 「あれ、おれどうなったんだ?」

 辺りを見渡すと、黄色い鉄板の上に乗っている。

 「どうなったんだ?じゃねえ、このハゲ」

 「あなたは・・・だ、誰?」

 「誰でもいいんだよ、このハゲ。車弁償してもらうからな」

 「車を弁償?何の話ですか?」

 「何の話ですかじゃねんだよ、このハゲ!お前、高架橋から飛び降りたろ」

 「は、はい」

 「落下した時に、この黄色いビートルの天井に落ちたんだよ、このハゲ」

 「え、じゃあ俺生きてる?」

 「ごつっ」

 「いってぇ」

 「いてえなら、生きてるだろ、このハゲ」

 「仰る通りですね。俺まだ生きてるのか」

 「感慨に浸ってるんじゃねえよ、このハゲ。だから、このビートルを

弁償しやがれ」

 男は聡志の胸座を掴んで吊し上げて、ぐいぐいネクタイで縛り上げる。

 「うう、分かりました。弁償します」

 「当然だ」

 「お、お幾らくらいになりますか?」

 「そうだな、まず修理代100万、慰謝料100万

時間浪費分100万、諸々込々、500万だな」

 この男は金銭単位を100万しか知らない様だ。

 「え、た、高すぎませんか?」

 「何をほざいている、このハゲ。これでも安いもんだ」

 「凹みは仕方無いですけど、他はちょっと」

 「はぁ、何を言ってるんだ、このハゲ。ちょっとって何だ。ちょっとじゃねぇ凹みだから言ってんだろ、このハゲ」

 《何で、このハゲがいつも語尾に付くんだ?》

 「いや、今そんな大金無いですよ」

 「無いですよ、じゃねぇんだよ、このハゲ。何とでもして弁償しやがれ」

 「それはちょっと・・・」

 「じゃあ、どうする、このハゲ」

 「どうしたらいいか、自分でもわかりま・・・」

 「何をガタガタやってんだよ、桜田!」

 ビートルの後部座席のガラス窓が三分の一が下がり、奥から甲高い女の声が辺りに響き渡った。それと、この単細胞でガチムチ男の名前は「桜田」と言う様だ。

 「すいません、このハゲがグタグタごねるもんで」

 「結局何の音だよ、桜田!」

 「このハゲが高架橋から落ちて来まして、その衝撃の音です。車の天井が凹みました」

 「凹みましたじゃねぇんだよ、桜田!次の現場に間に合わねぇだろ、桜田!」

 《この人たちは語尾が一緒だな》

 「ぐだぐだしてんじゃねぇよ、桜田!」

 と言い放ったと思ったら、後部座席からピンク一色のちっちゃい女性が、サングラスを掛けて出て来た。次の瞬間、桜田なる男の右足の脛に鋭いローキックを見舞った。

 「す、すみません」

 桜田は痛がる素振りも無い。

 「すみません、で済んだらポリスは要らねぇんだよ、桜田!」

 《ポリス?そこだけ英語?》

 「どうするよ。ちゃっちゃと片付けようぜ、おっさん」

 「はぁ、でもどう解決すればいいか・・・」

 「金が無ぇならカラダで払えばいいだろ、おっさん」

 「そう言われましても・・・」

 「じゃぁ、俺の付き人になれ。取り敢えず今から一年間。わかったか、

おっさん」

 「はぁ」

 「時間を無駄にしたからクビだ、桜田!」

 「え、俺?」

 「そうだよ、今この瞬間からだ。桜田!」

 「そ、そんな殺生な」

 「殺生じゃねぇ、桜田!お前、頭悪すぎなんだよ。聞いてりゃ金の単位、100万しか知らねぇんだろ。そんなんで付き人が務まると思ったか、桜田!だからクビだ」

 「わかりました。お世話になりました」

肩を落として桜田なるガチムチ男はその場を去っていった。

 「大分時間押しちまったな、おっさん」

 「はぁ、会話を聞いてますと、私はあなたの付き人になるような事に

なってますが」

 「おうよ、その通りだよ、おっさん」

 女は漆黒のロングヘアーを揺らしてサングラスを取った。

 《あれ、どこかで見たような?》

 「自己紹介まだでしたね。私、遠藤聡志と申します。今日会社を辞めました。42歳、独身です」

 「独身の情報は要らねぇ。何で高架橋から落ちて来た?」

 「見ての通り、私、自分で言うのも何ですが無能の人間でして、生まれてこの方、貶されても褒められた事は一度も無いんです。頭も禿げ上がりまして・・・」

 「禿げ上がってる情報は要らねぇ。だから何で高架橋から落ちて来たんだ?って言ってんだろ、おっさん。同じこと二回言わせるな」

 「済みません、自殺しようとしました。でも落ちた時、あなたたちの?車の上にぶつかって死にきれなった次第です」

 「へぇ、中々勇気あるじゃん、おっさん。でも、桜田居ねえから<あなたたち>ではねぇから、おっさん」

 「はぁ」

《結構細かいな、このひと。更に語尾が・・・》

 「まぁいい。今時間が押してるから、詳しくは後で聞いてやるよ、おっさん」

 「押す?」

 疑問がスルーされた。

 「取り敢えず四谷に向かってくれ、おっさん」

 「どうやってですか」

 「おまえも馬鹿か?車に決まってんだろ、おっさん」

 「でも私、ペーパードライバーでもう十年以上運転してませんし、東京の道を走ったこと無いです」

 「つべこべ言うな。遅刻すんだろ!さっさと出せ、おっさん!」

 「分かりましたけど、どうなる事か・・・」

 「そんなのどうでもいいから、おっさん!」

 「知りませんよ、どうなっても」

 聡志は、自分が凹ませてしまった黄色いビートルに重い足取りで乗り込んだ。

 「もう成る様に成るしかないですね。私が凹ませた訳ですし」

 「御託はいいんだよ、おっさん!」

 「分かりましたよ。出せばいいんでしょ?出せば!」

 完全に開き直った。然も半ギレだ。サラリーマン時代には見せたことが無い勢いだ。

 「そう来なくっちゃなぁ、おっさん。おれも付き人にした甲斐がないぜ」

 「行きますよ」

 聡志は、思いっきりアクセルを踏み込んだ。

 唸りを上げる凹んだビートル。だがしかし、物凄いエンジン音を出している割に一向に車は進まない。

 「おい、どうした、おっさん。進まねぇじゃねえか」

 「あれ?どうしてだ?」

 聡志は更にアクセルを踏み込む。エンジン回転数のタコメーターは振り切れる寸前だ。

 「大丈夫か、おっさん」

 流石のピンクジャージも少し心配している。この回転数で走り出さないのは

おかしい。

 「あっ」

 「クラッチ踏んでない」

 と言って、半クラッチにした途端、黄色いビートルは物凄いノッキングをした。上下前後に浮き上がる。

 「何してんだよ、おっさん!死んじまうだろうが!殺す気か!」

 「す、済みません。何せマニュアル車なもんで」

 「言い訳はいいから、何とかしやがれ、おっさん!」

 「分かりましたよ。でも、今の失敗で感覚が甦りましたよ」

 そう言うと、クラッチを踏み込んでから、半クラッチにペダルを調整した。若干ノッキングはしたものの、ビートルはそろそろっと動き出した。

 「やりましたよ!」

 「やりましたよ、じゃねえよ、おっさん!普通だろうが!」

 速度は僅か20Km/h弱。通行人と然程変わらない。

 「おい、通行人に笑われて、おまけに追い越されてるじゃねえか!どうなってんだよ、おっさん!」

 「まぁ、取り敢えず進みましたよ」

 「進みましたよじゃねえよ、おっさん!ああ、遅刻確定だな。どうすんだよ、おっさん!」

 「しょうがないですよ、不慣れなので」

 「まぁ、いい。四谷に向かえ、おっさん」

 「それがですね、道が皆目分かりません」

 「分かりませんじゃねえんだよ、おっさん!分かれ!」

 「そう言われても、ですね」

 「何だ、口答えするのか?おっさん」

 「口答えではありません。ですが、緊急事態なので、この際電車で

移動しませんか?」

 「はぁ?何言っちゃってんの、おっさん。それが嫌だから車乗ってるって

分かんねぇのか?」

 「車を停めて電車に切り替えないと傷口が広がると思いますよ」

 「それは分かってんだよ、おっさん」

 「私の唯一の特技は、交通網の知識です。此処からなら、歩いてJR原宿駅に向かいます。凡そ五分くらいで駅に着きます。原宿駅で山手線外回りで新宿へ行きます。前方車両が良いはずです。新宿に着いたら、丸の内線に乗ります。三駅で四谷三丁目に到着します。所要時間は30分弱です」

 「本当か?しょうがねぇなぁ。じゃあその通りに行くぜ、おっさん」

 「分かりました」

 二人は神宮前から徒歩で原宿駅に向かった。

「禿のおっさん」は特に違和感はないが、方や「ちっちゃいピンクジャージの謎の女」の服装が明らかに周りと溶け込んでいない。しかし、当人は特に気にする様子はない。しかし、通行人が各々口に手を当てて、何やら話して居る。

 「大丈夫なんだろうな、おっさん」

 「ご安心ください。間違い在りません」

 「ほんとかぁ?まぁ信じよう」

 二人はひたすら歩く。時間が押してるだけに、少し駆け足気味だ。そうこうすると「ちっちゃいピンクジャージの謎の女」の息が上がって来た。

 「もう少しですよ、もうひと頑張りです」

 ぜえぜえ言って返答がなく、腕を必死に前後に動かす。

 正に五分後、JR原宿駅に到着した。駅前は夜には浅い時間だが、いつもの様に人が多い。

 「到着致しました」

 「ぞ、ぞうか」

 日本語がおかしくなっている。

 「次は山手線外回りに乗車します」

 こくりと首を下に傾げた。電車に乗るには当然切符を買うが、その「ピンクジャージ」は切符の買い方が分からないに加え、財布を持ち合わせていない。先程クビになった桜田におんぶにだっこだったからだ。

 「切符はどうやって買うんだ?おっさん」

 「販売機にお金を入れて、140円のボタンを押すと切符が下から出ます」

 「なんだ、下からって。ここか?」

 と言うと、券売機の荷物台の下を覗き込んだ。

 「そうじゃないです。券売機の下部です。言い方が悪くて済みません」

 人でごった返している駅構内では、目を細めてその行動を見つめて居る。

 無事切符を買うと、自動改札機が立ちはだかる。

 「この機械に切符を入れると、奥から切符が出てきますので、それを取ってください」

 「わかった」

 ピンクジャージが自動改札機を通る。

 「キンコン」

 改札機の羽根が閉まった。

 「おい、閉まったぞ、おっさん」

 「あれ、何でだろ。切符、入れましたよね」

 「あ、入れるの忘れた。切符持ってりゃいいんだろ?」

 「改札機に切符入れて下さいって言ったじゃないですか」

 「なんだ、おい。逆切れか?おっさん」

 「そうじゃないですが、後の方に悪いので」

 後ろを振り返ると渋滞が発生している。

 「ちっ」

 ピンクジャージは舌打ちした。

 取り直して改札を通ると、ダッシュで山手線のホームに向かう。結構な人がホームで電車を待っている。

 「おい、こんなに大勢乗るのか?」

 「そうですよ。まだ少ない方です」

 「マジか、っぱねえ」

 苛立ってつま先で何ともないリズムを取っている。聡志は、必死に此処までやってきたものだから、ふと我に返った。


―あれ、今までのサラリーマン時代と違うなぁ。無意識に自分は変わっている。何だか楽しい―


 「来ましたよ」

 聡志はぽつりと呟く。

 すると、緑色の電車が減速しながらホームに滑り込んできた。車窓から込み合った車内がページをめくる様に過ぎ去って行く。

 「おい、頼むぞ、おっさん」

 さっきまでの勢いがどこかにいってしまったのか、か細い声で聡志に問いかける。普通のか弱い一人の若い女性に戻っている。

 停車位置の目印にピタリと止まった電車に乗り込む人たちは、お行儀よく左右に一列に並んで、降車する乗客を迎え入れる。案外降りる人が多く、乗り込んだ車内は乗車率80%位であった。

 山手線に乗り込んだ二人は、乗車ドア近くの吊革に捕まった。聡志はセンスの無い腕時計をちらりと見遣る。長針と短針は180度に開いて、短針は6を指している。時間は無い。

 「ようやく落ち着いたな」

 「そうですね」

 「四谷のスタジオに6時半入りなんだが、間に合いそうか?」

 「ええ、ぎりぎり大丈夫だと思います」

 ピンクジャージは微少に頷く。

 「スタジオって、何ですか?」

 「スタジオはスタジオだろ。それ以外にねえだろ」

 「何するんですか?」

 「仕事に決まってんだろ」

 「今更ですが、何のお仕事なんですか?何となくですが、

どこかでお会い・・・」 

 何やら車内がざわざわし始めた。皆此方を見てひそひそ話をしている。特にJKが、時たま指さしたりしている。

「あれって松浜夕じゃね?」


 ―何、松浜夕?聞いたことあるな。世の中の流行りも良く判らない俺でも知ってるって事は、かなりの有名人だぞ。うーむ、って事はかなり不味い状況ではないか?―


 聡志は少し咳ばらいをした。

 「どうします?このままこの状況でいますか?」

 「しょうがねえだろ、そうなったんだから駅でもねえところで降りれねえだろうが」

 俯いて小声で伝える。聡志も俯いて頷く。

 車両内は何やら不穏な空気に包まれている。聡志は足りない頭でどうするか思案している。


―うーむ、どうするか。原宿、代々木、新宿。三駅か。然程遠くはないが、状況が状況だ。この後、乗り換えで四谷まで行くとしても同じ状況になるんだろう。何か策は無いものか―

「どうします?次で降りますか?電車で行くプランを提案したものの、状況が変わりましたので」

「いいさ、たまには電車に乗って行くのも悪くない。言いたい奴には言わせておけ。まずが、おっさんに一任したのは俺だから別に構わない」

 「申し訳ありません。あなたがどなたか存じ上げなかったもので」

 「俺の認知度もそれほどでもないな」

 くすっと笑いながら答えた。


 ―そうか、良い事を思い付いたぞ。ずーっと新宿まで話して居ればいいんだ。そうすれば他人の会話も気にならないし。何だ簡単な事だ―


 と思い着いたものの、話すネタが無い。どうしたものか。あれこれ思案したものの、思い浮かばない。ふと顔を上げると、

 「松浜夕、所属事務所との軋轢。音楽の方向性で対立か?」

 なる中吊りが目に入った。

 ―うーん、音楽の方向性。何の事だろう?俺にはさっぱり分からんが、何かしらもめているみたいだ。色々大変なんだな。やはり仕事の話はNGか。方向性、方向性。この歳になっても人生の方向性も決まってないな。情けない話だ―

 聡志の独り言が耳に入った夕は、

 「なにさっきからもごもご言ってんだよ、おっさん」

 「いやぁ、こんな状況が暫く続きそうなので、何か話のネタでもと思って話題を考えておりました」

 「ふーん、それで話題は見つかったのかよ」

 「いえ、全然です」

 「じゃぁ聞くが、そもそも何で歩道橋から飛び込んだんだ?」

 「お恥ずかしながら、この歳で出世もしていませんし、仕事場でもお荷物扱いなものですから、いっそ人生の清算をしようと思ったらあんな顛末でして」

 「そうか、見返してやろうとか思わなかったのか?」

 「そうですねぇ、元来争いごとが苦手ですし、人を蹴散らしてでも上に立とうとか、そういった気持ちが全く無くて」

 「俺はいま十九だが、そうしないと生きていけない環境で育った」

 夕が身の上話を語りだした。電車は代々木に到着していた。

 「両親は、俺が五歳の時に韓国へ旅行中に何者かに殺された。しかし、事故死で処理された。当時は子供だったから只事実だけを受け止め、叔母の世話になった。中学を卒業してすぐ上京した。両親の事が頭から離れず、『必ず犯人を見つけてやる』の一心でバイトしながら通信制の高校に通った。そこで、ある韓国人の同級生と友達になった。その子の名は「朴佑杏」(パクユアン)と言った」

 「新宿」に到着するアナウンスが場内に流れた。

 「済みません、お話の途中ですが、新宿に着きます」

 「そうか」

 「そのお話は後日じっくり伺いましょう」

 そう言うと、二人は人並みに押されて新宿のホームに降り立った。

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