エピソード2「ヒーロー」

「今から私の家に来てほしいの」


恍惚としてるとも見える上目遣いで目の前の美少女はそう言った。その瞳の中で煌めく輝きに俺は釘付けになり、建前の謙虚としてでも断ることができなかった。

この美少女、"真咲"との出会いはほんの数分前のことだった──



俺は名前は安相浩二、都内のジムでトレーナーとして働いている。そして、つい先月行われたボディービルの大会では準優勝を獲得した程の筋肉美を持ち合わせたボディビルダーでもある。

大会が終わり、久しぶりのオフの日だったのだが、日々の鍛錬をサボるわけにはいかないと思い今日もこうしてジムへと向かっていた。


「ねえ、キミ学生? 可愛いね。ひとり?」


丁度俺の前方で、小柄な少女の行く道を塞ぐかのように立っている男が少女を捲し立てている。

適当に色を抜いただけのような男の金髪の隙間から、これでもかという程のピアスが覗き見えている。見るからにチャラい男だ。

一方、少女の方は黒髪のショートでTシャツに短パンというシンプルな格好をしている。その後ろ姿はいかにも大人しそうな子だった。男が執拗に話しかけるのに微動だにしないところを見ると、きっと恐怖で声も出せずに固まっているのだろう。

なんと悪質なナンパなんだ。俺が助けに行こう。

今にも少女を如何わしい所で連れて行きそうな男の肩を掴んで言った。


「おい、その子を何処に連れてく気だ」


不良らしい威嚇の声を出しながら振り向いた男は、俺の姿を見るなりたちまち怯み始めた。


「な、なんだよ」

「何処に連れてく気だと聞いているんだ」

「別にどこだって良いだろ!」

「いいや、良くないね。その子が困ってるじゃあないか」


そう言いながらふと少女の方を見ると、少女はジッと俺の顔を見つめていた。その目はまさしく羨望の目だった。

少女は俺のことを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。


「私……この人に絡まれて困ってたの」

「ハア!?」


少女の発言に男は驚きの声をあげていた。そしてすぐ驚きから怒りの感情へ変わった男は少女に怒鳴り始めた。


「お前さっきは乗り気だったじゃねぇかよ!」

「私、乗り気になんてなってないわ」

「ふざけんな、この尻軽女!」


一度男の方を見た少女は再び俺の方を見た。


「私を助けて」


……先程から思っていたが、この少女は凄く可愛い。小柄なのでだいぶ幼く見えていたのだが、顔立ち自体は大人びてもいて、長い睫毛やぷっくりとした唇から不思議な色気が溢れていた。

「少女」より「美少女」と表現すべきだと思った。

元々自分からよく人助けをしている俺だが、こんな可愛い子から頼まれたのだから余計に引き受けるしかない。


「嗚呼、助けるに決まってるさ。……そういうことだから、君は帰ってくれるかな?」


物腰柔らかく頼みながら男を睨みつけると、男は舌打ちをしながらも先程向かおうとしていた方とは逆の方向へ歩いていった。


「ありがとう……」


男が見えなくなるのを確認すると美少女はにこりと笑い、自己紹介を始めた。

美少女の名前は當山真咲。なんと當山グループの一人娘とのことだった。


「ま、まさかあの有名な當山グループの御令嬢だったとは……」


當山グループとは俺の祖父の世代からあると言われている大企業だ。元は食品メーカーとして急成長を遂げていたのだが、代が変わるに連れて他の事業も成功させていき、今やテクノロジー業界でもトップを争う程である。

そんな大企業の御令嬢が俺の目の前にいて、しかもその御令嬢に対して敬語を使わずに話してしまったと思い、冷や汗が止まらなくなった。


「御令嬢だなんて知らなかったもので、ついタメ口になってしまって……」

「御令嬢だなんて言わないで、真咲って呼んで。あとタメ口で良いわ」

「えっ? あ、嗚呼、わかったよ」


御令嬢という響きが嫌いなのだろうか。金持ちならではの悩みでもあるのか? もしかしたら、今のシンプルな格好も一般人としての生活に憧れてのことなのだろうか。

そんなことを考えていると、真咲は両手で俺の手を握った。真咲の手はとても小さく、両手を使っても俺の片手すら覆うことはできない。

俺の心はすっかり真咲に包み込まれ始めていたのだが。


「さっきは本当にかっこよかったわ。ヒーローみたい!」

「そ、そうか?」


にこにことした真咲からそんなことを言われ、思わず表情筋が緩くなったのを自覚した。


「今からお礼をしたいの」


俺に近寄り囁く真咲の声が甘く感じた。


「お礼の為に助けたわけじゃないから、別に……」


お礼なんか要らない。そう言いたかったのだが、真咲に見つめられるとどうしても言葉が詰まってしまう。


「貴方と一緒にいたいの。だから、お願い」

真咲は上目遣いで俺を見つめながら、言った。

「今から私の家に来てほしいの」



──こうして、真咲と出会い、結果として真咲の家へと向かうことになった。

お迎えの車を呼んだと言った真咲と共に駅前で待つことになった俺の心情は複雑なものだった。

本当に家に行っても良いのだろうか。いつもみたいに男らしく颯爽と去るべきだったんじゃないのか。そもそも、お礼ってなんだろうか。もしかして……。

生唾を飲みながら、俺は横目で真咲の身体をチラリと見た。俺との身長差の関係で、真咲の華奢な身体が作ったTシャツの洞窟から谷間がガッツリと見えていた。かなりの大きさだった。

俺のチラ見が気付かれたのか、ぼんやりと街の遠くを眺めていた真咲がこちらを向いた。


「……何?」


真咲は少し首を傾げながら微笑む。


「えっ? いやっ、身体細いなあと思ってな」


真咲の僅かな仕草だけで動揺してしまいついセクハラ紛いのことを口走ってしまった。


「いやあの、細いなあって思ったのは俺が普段ジムで働いているからであってだな。その、仕事柄男女関係なく気にしちゃうんだ。職業病ってやつだな、こりゃ」

「浩二さんって、面白い人ね」


はははと笑って誤魔化す俺のことを見抜いているのか、真咲はふふっと笑った。しかしすぐに表情を落とし、ぽつりと呟いた。


「私ね、生まれつき細いの。いくら食べても、いくら鍛えても、全然筋肉なんて付いてくれない。歳をとるにつれて、背は全然伸びないのに胸ばっかり大きくなっちゃって、嫌になっちゃう」


再び、ふふっと真咲は笑う。

み、見抜かれていた……。だが、真咲の様な子は本当にいるんだな。

見たところ、真咲の背は160辺りで女子の中ではそこそこ高い方であり、筋肉は無いとはいえスタイルはモデルになれそうなレベルだ。胸も下品に感じる程大きいというわけでもない。それをコンプレックスに思うなんて人によっては嫌味にも感じるだろう。


「完璧な体型だとは思うんだがな。それこそ女の子の憧れそのものだぞ」

「それが嫌なの。……私は、もっと貴方みたいに大きくて逞しい人になりたいの……ならなきゃいけない」

「そうか……」


一体この子に何があったのだろうか、真咲の表情は真剣そのものだった。そんな彼女を見て、俺は意を決した。


「それなら俺のジムに来ないか?」


俺が自分からジムの勧誘を行うことなんて初めてのことだった。いつもなら自身のこの鍛え抜かれた美しいカラダについてくるのを払うことさえするくらいなのに。

真咲はきょとんとした顔でこちらを見上げている。


「ジム? 良いの?」

「嗚呼勿論! 背は難しいにしても筋肉ならトレーニングをすれば一発さ! だから……」


真咲の真剣な顔を見て、その背中を押したくなったのは俺が彼女のヒーローになったからだろうか。


「だから、俺と一緒にジムに通わないか?」


今まで気にしていなかった程小さかったはずの雑音がはっきりと聞こえだした。近くの道路を車がブゥンブゥンと2回通った後、考え込んでいた様子の真咲はゆっくりと口を開き、にこりと笑って答えた。


「私で良ければ、喜んで」


雑音が消え、代わりに自分の鼓動がどんどん大きくなっていくのを感じた。女の子からOKと言われるだけでこんなに喜ばしいことがあっただろうか。真咲のヒーローになれて本当に良かったと俺は心から思った。

そのすぐ後、真咲が言っていたお迎えの車が到着した。あの當山グループの御令嬢が乗るものだからきっと物凄い高級車なんだろうと思っていたが、案外その辺で走っている様な自家用車であった。「その方が目立たないから」という真咲曰く、きっとマスコミか何かへの対策なんだろう。

當山家の屋敷へ向かうの車の中で俺は真咲にジムの詳細を話した。そんな俺の話を彼女はにこにこと聞き続けている。この先真咲と共にジムへ通えるのだろうと胸を踊らせながら、一生彼女のヒーローであろうと密かに誓ったのだった。



「……ところでさ、真咲」

「ん、なぁに? 浩二さん」


先程から俺の右腕の筋肉をなぞりながら可愛らしい笑顔を向ける真咲にもドギマギさせられているのだが、それ以上に俺をドギマギとさせるものが車内にあった。


「助手席に座ってる人が持ってるそれって何だい?」


迎えの車が到着した際、既に助手席には先客がおり必然的に俺と真咲は後部座席に乗っていた。その先客は今もこうして運転している男と瓜二つの見た目をしており、着ているスーツ越しでも俺と同じくらい鍛えられていることがわかった。きっとどちらも使用人兼真咲の護衛係なんだろうと思い、大して気にも留めてなかった。しかし車が発進して暫く経った時、俺は助手席側の男が手に持っている"それ"の存在に気が付いたのだ。

見たことのない、黒くて四角い物体。いや、テレビでは見たことあった。


「ん、それ? 嗚呼、これね」


確か刑事ドラマやアクション映画で使われてたような。


「これはね、予定が変わったから健太君に頼んで急遽持ってきてもらったの」


そう、確か。


「"スタンガン"と言ってね、こうやって使う物よ」


俺が理解するまでの間に、真咲は助手席からするりと"それ"を取り出すと迷うことなく俺に使用した。テレビで聞いたのと同じ「バチン」という大きな音をたてながら、全身を鞭で叩かれた様な強い衝撃が来ると共に俺の意識は遠くなっていく。


「宜しかったのですか、この男に予定を変えて」

「ええ。ナンパ男なんかよりもこっちの方がずっと儀式に相応しいわ」


儀式……一体なんのことだ……? それとナンパ男って、さっきナンパしてた野郎のことなのか……?

聞きたいことは沢山あった。しかし全身が痺れて口も動かせないどころか、自然と白目が向いていくのを抑えることすら出来なかった。


「こんな男らしい方なら、きっと……。ねえ、二人共そう思うでしょ?」

「そうですね、この男は今までの軟弱野郎とは違いますしね」

「亮平、真咲様の前では言葉遣いはあれほど……。

……真咲様の仰る通り、この男ならきっと真咲様をお救いになるはずです」


目の前で行われている意味不明な会話の意味もわからないまま、気が付くと俺は意識を手放していた。



──コンクリートの冷たさで目を覚ました。どの神経よりも先に覚醒した脳が最初に発したのは「拉致」のひとこと。その言葉で全神経と自我が飛び起き、俺はすぐさま臨戦態勢に入ろうとした。が、そのまま臨戦態勢に入ることはなかった。いや、出来なかった。

俺はうつ伏せの体勢から動けずにいる。

ガシャンガシャンと甲高い音が足元からした。しかし違和感は足元と手元、両方からした。両手足を動かしてみる。冷たく皮膚に食い込む硬い感触。どうやら手錠と足枷で縛られているようだ。しかも足枷の方は何処かに繋がれている。

いくら俺が凄まじい肉体をフルに使ったとしても、金属製らしきそれ等を外すことは不可能に近いというのは明確……。


「誰かぁ!! 助けてくれえ!」


途端に恐怖が湧き上がり、俺は声を震わせた。

情けなく助けを求めるなんて、そんなことは中学の時が最後だと思っていたのに。


「どうしてお前が助けを呼ぶの?」


真咲の声がした。床に身体を這いずらせながらも何とかその声の方に顔を向けた俺は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。


「ねえ、どうしてお前が助けてなんて言うの?」


問いを重ねる真咲の両隣には先程車内にいた瓜二つの男達がいたからだ。せめて彼等がいなければ、せめて彼女1人だけならばどれだけ安心出来ただろうか。俺と同じか、それ以上に鍛え抜かれた身体を持つ男達の存在により、俺の中で久しぶりに生まれた恐怖はぐんぐんと膨らんでいった。


「なっ、なんでこんなことを」

「真咲様の質問に答えろ」

「ひぃっ……!」


ドスを効かせながら放つ男の言葉で俺は完全に怯んでしまった。まるで周りが全く見えない暗闇に潜んでいる化け物の様な恐ろしさが、この男達にはあった。

男はもう一度放つ。「質問に答えろ」

これ以上黙っていたら闇の中から巨大な爪が飛んでくると直感した俺は無理矢理喉を開いた。


「だ……だって、こ、この状況で、た、助けを呼ぶのは、とっ当然じゃないですか……」

「ふふっ、さっきまでタメ口だったのにいきなり敬語で話し始めるなんて。面白い人ね」


クスクスと笑い出す真咲は俺がほんの少し前に胸を踊らせていた時の彼女そのものだった。それでも俺は一ミリも安心出来ずにいる。


「あのね、助けを求めているのは私の方よ」

……え? 声にもならない萎んだ声が出た。

「真咲、が……?」


両手足を縛られうつ伏せから動けずにいる俺と、強そうな男2人に守られながらソファで脚を組んでいる真咲というこの状況で、真咲の方が助けを求めているとはどんなタチの悪い冗談なのだろうか。しかし真咲の真剣な顔を見るとどうやら冗談ではないということが伝わってくる。


「そう。私を助けてほしいの」


今の俺達の状況と真咲の真剣な顔の矛盾で俺はすっかり混乱してしまい、頭の中が真っ白になった。

一体どういうことだろうか。普通は俺が助けてほしい側だと思うのだが。真咲は本当に俺に助けを求めているのか? それなら何故こんなことをしているんだ?


「ねえ」


空っぽになった頭で必死に考えていた途中で、真咲が俺に呼びかけた。しかしその呼びかけはクスクスと笑っていたときと違って冷たさが増しており、怒ってる様にも聞こえてくる。頭の中を整理する暇さえ与えないつもりなのだろうか、真咲は再び「ねえ」と続けた。


「お前は私のヒーローでしょ? それならあの時みたいに私を助けて……?」


悲しんでいる様にも見える真咲の表情を見て彼女が何を言いたいのか益々わからなくなったが、それでも今の状況じゃ承諾するしかない。承諾するしか俺に助かる方法はないのだろう。


「わ、わかった……助けますから……助けるから、此処から出してください……」

「ありがとう」


そう言うと初めて俺に見せた時と同じ柔らかな笑顔で真咲は笑った。

きっとこれで助かるんだと思った。

笑顔を崩さぬまま、真咲は真っ直ぐ俺の瞳を見つめながら何度も問いかけてくる。


「私を助けてくれるんでしょ?」


ソファの両端で待機していた男達がおもむろにジャケットを脱いで壁へ掛けた。

俺を解放するだけなのに何故そんなことをしているのだろうか。


「私を救ってくれるのよね?」

「あ、あぁ、勿論!」


ワイシャツの袖を捲りながら男達はゆっくりと近付いてくる。

この枷を外そうとしてるんだよな。いや、でも。待てよ。鍵は真咲が持っている筈じゃ。

何もかもが矛盾していて、何もかもわからない。それがとてつもなく恐ろしかった。


「かっ、必ず助ける! 必ず君を救うよ! だからさ、早くこの枷を」


刹那、俺を殴って笑っていたアイツの姿が見えた気がした。じわりじわりと昇ってくる不安に耐え切れなくなった俺の横顔をひとりの男が蹴ったのだ。助けるとも救うとも言ったのにも関わらず、蹴りの衝動で折れた1本の歯や少量の血液と共に俺は吹き飛んだ。

……とは言っても、俺自身は枷によってその場を移動することはなかったのだが。

殴られた頬も、拘束された両方の足首も酷く痛い。床で蹲って悶えている俺の近くからくすくすと笑い声がする。声の主は笑いながら言った。


「私のヒーローなんでしょ? 助けてくれるんでしょ? 救ってくれるんでしょ?」


男達のひとりが俺を乱暴に押さえつける。ろくに抵抗も出来ないままになった俺の横腹目掛け、もうひとりの男の足が振り上げた。


「それなら私の代わりに償って」


そのセリフが言い終わるのと男の足が勢いよく振り下ろされたのは同時だった。


「がッッ!?」


嗚呼この痛みが嫌に懐かしい。中学の頃を思い出す。

陰気で、弱くて、惨めで、無様な中学時代を。

当時俺を虐めていたアイツと目の前にいる男達が重なって見えた。


「う゛ッッ、あ゛ッッ」


何度も男達は俺の腹目掛けて足を振り下ろす。その度に俺の口からあの時と同じ声が出た。

畜生……どうして、俺ばっかりこんな目に……。痛みと悔しさで涙が込み上がってきた。あの時と全く同じだ。俺はこれからもずっとアイツに痛めつけられるんだ。

いつまでも、永遠に、何も変わることなく……。

思わず、当時の様に諦めてしまうところだった。


「そろそろやめなさい」


視界の外で真咲が息を整えながら男達を制止した。そういえば遠くで真咲の笑い声が聞こえていた気がする。俺が何度も踏み潰されている間、真咲はずっとその様子を見て嘲笑っていたんだろう。


「トドメは私が刺すっていつも言ってるでしょう? そいつもう死にそうじゃない」

「大変失礼しました、真咲様」


深々と頭を下げると男達はあっさりと俺の傍から離れた。


「浩二さん」


真咲が目の前に現れた。瞬間、まるで走馬灯かと言わんばかりに脳裏へ真咲との出会いが流れた。

そう、俺がナンパ男から真咲を助けた数時間前のことを。


「生きてる?」


しゃがみ込んだ真咲と目が合った。真咲の瞳から俺が見える。

あの時とは違う、逞しいカラダが。

俺は両手に拳を作り、ぐっと力を込めた。そのお陰か、みるみる五感がはっきりし出した。

そうだ、俺はもうあの時とは違う。俺は自分を変えたくてこんなに鍛えたんじゃあないか。今じゃ体格もパワーも性格もあの時とは全然違う。アイツだって、俺が大学で再会した時にボコボコにしたじゃあないか。

今の俺なら、きっと。目の前の真咲にも、あの男達にだって負けやしない。

例え金属の枷で手足を拘束されていたとしても、頭は動くじゃあないか。


「真咲様、その野郎から離れてください」

「えっ? どう、し……」


俺は渾身の力を込めて真咲の顔めがけて頭を振り上げた。すぐに真咲は気付いたようだったがもう遅い。直撃すれば真咲の命の保証はできない程の勢いだった。


「真咲ッ!!」


ゴンッと鈍い音がした。きっと直撃したのだろう。しかし想像したよりも柔らかい感触がし、俺はそっと顔を上げた。するとそこに見えたのは真咲の顔ではなく、ワイシャツを着た男の後ろ姿だった。

俺は舌打ち混じりに赤い唾を吐き捨てた。先程真咲の名前を叫んだのはこの男のようだ。俺の行動にいち早く気付き移動したとは、なんと手強い奴なんだ。

一方、頭突きを食らわずに済んだ真咲は何が起きたのか理解出来ずに困惑している。


「……順平?」


この男もとい順平は膝立ちで真咲を抱きしめるように彼女を庇っていた。その彼の腰に頭突きが直撃したのだろう。平然とした面構えをしているが、その額からは脂汗が浮かんでいる。


「真咲様、お怪我はありませんでしょうか」

「え、ええ。大丈夫よ」


順平はきょとんとした表情で固まっている真咲からそっと離れ、彼女に手を貸しながら共に立ち上がろうとした。しかし、真咲を立ち上がらせただけで順平は立ち上がることが出来なかった。


「順平!?」

「兄貴っ!?」

「ご心配なさらず。……亮平、手を貸してくれ」


激痛なのだろう。必死に隠そうと順平は声を押し殺し平静を装うが、次々に浮かび上がる汗と深く刻まれる皺が周りに彼の痛みを提示していた。


「この野郎……テメェ絶てぇぶっ殺すからな」


亮平と呼ばれた男は俺の方を睨み明らかな殺意を向けるが特に何をするでもない。


「亮平……だから真咲様の前では言葉使いに気を付けろと言ってるだろうが……」

「だってよ兄貴!」

「……これは真咲様の大切な儀式だ。だからお前は黙ってろ」


肩を借りる形でしか立てない順平の様子に思わず俺は吹き出してしまった。それでも兄貴と呼ばれるだけの威厳はあるのか、順平がドスの効いた声で凄むと途端に亮平は黙り込んだ。

そしてその代わりに、今度は真咲が口を開き始めた。


「亮平」

「す、すみません真咲様っ!」

「順平をソファまで連れて、手当てしてあげて」


てっきり真咲にも注意を食らうと思っていたのか、亮平は「へ?」と間抜けな声を漏らした。しかし真咲は彼のことを一切気にしていないようだ。


「……だけど、その前に何でもいいから持ってきて」


俺のことしか見ていなかったのだ。その視線にやっと気付き、顔を上げて俺は後悔した。


「何でもいいから、コイツを殺せる物持ってきて」


真咲の顔はどこまでも無表情だった。それでも俺が後悔する程の恐怖を感じたのは、殺意よりも純粋な殺意がそこにあったからだ。

陶器の様に白かった肌は最早青みを帯び、唇さえも血色を失なっている。瞳からは光が消え、まるで眼球にぽっかりと穴が空いて闇が覗き込んでいる様だった。その人の形をしていながらも人からかけ離れた顔には当たり前かのように殺意が書かれている。それも、先程亮平が向けてきたような怒り混じりの殺意とは違う、他の感情など一切混ざってない純粋そのものの殺意。

殺すことに何の疑問も抵抗もない、殺して当然だと言わんばかりの殺意が真咲の周りを取り囲んでいた。


「……かしこまりました」


亮平もその殺気を感じたのか、小さく返事だけすると順平を奥のソファへ座らせ部屋を出ていってしまった。


「な、なんだ、よ。お、俺を殺せるとでも思ってるのか?」


負けじと俺は声を張り上げるが、真咲は微動だにせず俺を見つめている。

殺意がなんだ。たかが女1人じゃあないか。順平とかいう強そうな男をダウンさせた俺だぞ。こんな女に負ける訳がない。そう自分に何度も言い聞かせながら、そのまま真咲と見つめ合うこと数分。重苦しい扉の音が響いて亮平が戻ってきた。


「お待たせしました」


小走りで真咲の元へ近寄って行き、「こちらでよろしかったでしょうか」と古びた斧を差し出した。


「……へ?」


今度は俺が間抜けな声を漏らした。斧? 斧って何だ?


「おいおい……それで何をするつもりなんだよ?」


恐怖が度を超え、思考が停止し、頓珍漢な疑問ばかりが頭に浮かんでいた。その間に真咲はうんともすんとも言わずに斧を受け取る。


「さっきまで素手同士だっただろ? 武器を持ち出してくるなんて、ズルいじゃあないか……こんなの、ルール違反だろ?」


真咲は瞬きひとつせず、しっかりと斧を握り締めていた両手を静かに振り上げた。

──あ、殺される。俺はそう思った。


「ま、待って。待ってください!! さっきのはすみませんでした! 俺が悪かったですごめんなさいごめんなさい許してください誰にも言わないからもう勘弁してください許してください何でもしますからもう解放してくださいやめてお願い許して」


先程の思考停止具合が嘘だったかのようにスラスラと命乞いの言葉が流れていく。それでも真咲は眉一つ動かさずに俺を見下ろしている、斧と腕の隙間から。


「お金ならいくらでもあげます、今度大会でまた稼ぎますので今回は見逃してください。すみませんすみません偉そうな態度してすみません怪我させてしまって申し訳ございません今後精一杯償いますから!」


一瞬、真咲の動きが止まったような気がしたが、それもほんの一瞬のことだった。ソファで体を休めているであろう順平も、すぐ傍で様子を伺っている亮平も、真咲本人も、何一つ俺に話しかけることはなかった。


「だから殺さないで」


ゆっくりと、それでいて確実に。真咲の両手は振り下ろされた。

サク、という軽快な音をたて斧が俺の首筋へ勢いよく食い込んだ。脈や神経の切れる音、プチプチとした音が俺の体内を通じて聞こえてくる。案外、視界が血で染まるということはなかった。視界がぼやけていくことさえ感じないのは元から俺の視界が涙でぼやけていたからだろう。

再び思考回路が停止していくなかの自問自答。

俺は変わっているはずだった。強くなっているはずだった。アイツにも打ち勝てたはずだった。どんな相手にも負けないはずだった。何故またこんな目に合っている?

しばらくして、呆れに近い笑いが混み上がっていき俺はコポコポと口から溢れ出す血も無視して笑った。

嗚呼そうか。あの頃と全く違うじゃあないか。目の前にいるのはアイツじゃあないもんな。たとえいくら俺が強くなっても決して敵うことのない、アイツよりも恐ろしい存在……。

最早真咲が人間を超えた化け物の様に思えた。

化け物は俺の首筋に刺さっている斧を容易く引き抜き、その場で呆然と立ち尽くしている。


「わ……のせ、で……次か、は……シな、とこに……ないを……」


ボソボソと何かを呟いているのが聞こえたが、やがて真っ赤な無音にかき消されていき何も聞こえなくなった。

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贖罪部屋 蛇穴 春海 @saragi

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