Sleeping medicine
三枝 侑
出会うはずの無い人だった。
1
出逢うはずの無い人だった。
どんなに必死に手を伸ばしても、届かない場所にあの人はいた。
まばたきを忘れるくらい見つめても、あの人の瞳に私は映らなかった。あの時までは。
今でも覚えている。雨に濡れた車道に反射する街灯。行き交う人波。全てから見捨てられたような私を、見つけてくれた人。
離れてしまった今も私を支えているのは、あの頃、あの人と一緒に過ごした時間。
今の私には――それだけが総てだ。
◇◇◇
その日は、ひどく冷える夜だった。
私は、二十五年間生きてきた中で一番最悪な気分でガードレールに寄りかかり、ぼんやりと目の前を流れる人波を眺めていた。
もう少しで日付も変わる時間という事もあり、ナンパ待ちと勘違いされて何人もの男が声をかけてきた。相手にしなければ大抵の男は捨てゼリフを残しながら去ってくれるのだけれど、
「ちょっとくらいいいじゃん。ね?」
今、目の前にいるこの男だけは違った。無反応な私に対して、既に十五分も口説き続けている根性には、呆れを通り越して感心さえしてしまう。
「誰も来ないじゃん。ドタキャンされたんでしょ? 良い店知ってるからさぁ」
無視し続けるのも疲れるものだな、と小さくため息を洩らしたのがいけなかった。
「こんだけ言ってんだからいいじゃねぇかよ」
男の声色が強さを増した。危険を感じた時には遅く、
「痛っ…。ちょっ…離してよ!」
左腕を力任せに引っ張り、男が強行手段に出た。
「なんだ、ちゃんと声出るじゃん。ま、いーから。損はさせないし」
ケラケラと笑う顔を見ればどこへ連れて行こうとしているのかは明らかだ。
やばい、このままじゃヤられる。けれど逃げようにも男の力にかなうはずもなく、周りは我、関せずで。あぁ、やっぱり今日は人生で最低最悪な日なんだ、と思った時だ。
「はい、ストップ」
――背後から飄々とした声が聞こえてきた。
振り返るとそこには、赤いニット帽を被りサングラスをした男の人が立っていた。
「あんた誰?」
「人の彼女にちょっかい出さないでくれる? それに」
そう言って男に近づくと、
「いっ?!」
「女の子は優しく扱わなきゃダメでしょー」
軽い口調とは裏腹にドスの効いた声で男の腕を容易く捻りあげる。次いで呆然とする私に優しく微笑みかけると、
「待たせてごめんな」
と、私の肩を抱くようにして歩きだした。
「あ、あのっ」
「シッ! まだ見てるから」
言われて目線だけ振り返ると、男はガードレールに座り込み恨めしそうにこっちを見ていた。
「よっぽど気にいられたんだね」
そう言って無邪気に笑う。先程の凄むような声とは違い、優しくゆったりとした話し方が心地よく響く。
「ここまで来れば平気でしょ」
「あ…ありがとうございました」
「んーん、全然」
「でも、本当に助かりました」
深く頭を下げる私に彼は、
「ホント、そんな頭下げないで。それじゃあ、俺行くけど気を付けてね」
と、耳の辺りを掻いていた。
去っていく彼の背中が人波に消えてしまうまで見つめていた。不思議と、どこか耳に残る声。
近くの石段に腰を降ろす。スカート越しにひんやりとした冷たさが伝わってきた。
…失敗したなぁ。夕方までは日差しもあってわりと暖かかったのに、夜になって一気に冷えこんだ。
買ったばかりの服を見せたくて、寒いかなと思いつつ少し気合いの入った服装で来てしまった。久しぶりに履いたパンプスは歩き疲れもあって、つま先が悲鳴をあげている。しつこいナンパや乱暴男に出会ったり、本当に今日はツイて無い。
それでも――。
少し先の空を見上げる。さっきまで居た場所より少し見えにくくなってしまったけれど『それ』は変わらずにあった。ライトに照らされて映しだされる『彼ら』。
こんな日にも、こうして彼らは居てくれる。
そこはあまりにも高く、そして遠く。私には見つめることしか出来ないけれど。
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